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TOSS加賀/岩田史朗
2002年9月発行『道』第12号掲載論文
8月の終わりに次の論文を読んだ。
読んだ瞬間、自分の脳は一気にスパークした。
向山型国語教え方教室9−10月号の伴一孝氏の論文である。
下手な教師の授業を見る。「上手だね」「すごいなあ」「立派です」このような言葉が“中に浮いている”状態だ。 わざとらしい。とってつけたようなほめ言葉だ。それも、パターンが決まっている。 しばらくすると、また同じようなほめ言葉が使われる。授業はいよいよ空々しさを増し、子どもの心は離れていく。 先の3つのような教師の言葉を「評価」と言う。99%以上の教師が授業で行っているのが、この「評価」なのである。 これを「駄目だ」と明言した教師は、おそらく向山洋一氏が初めてだ。 教師が子どもの動きを見て、心の底から本気でそう思っているのなら、「評価」の言葉は子どもに届く。 しかし向山氏は、教師が安易にこのような言葉を発するのを戒める。本気でない限り、空々しい授業になってしまうからだ。 では、教師は授業で何をすればよいのか。「評定」である。「合格」「もう一度」「Aです」「Bです」このような言葉を「評定」と言う。 教師が明確な基準をもって上の言葉を発すれば、それは本気で子どもの心に届くものとなる。 「評価」は名人の芸であり、「評定」は常人の技なのだ。(向山型国語教え方教室9−10月号 P1より引用)
「授業はいよいよ空々しさを増し、子どもの心は離れていく」これは、まさに一学期の自分のクラスの状態であった。
対策としては、とにかくほめよう、これしかなかった。
しかし、やればやるほどクラスはぐちゃぐちゃになっていった。
どうしたらいいのか、正直言って途方にくれていた。
しかし、伴氏の論文を読んで目の前がパッと開けたような気がした。
自分の間違いが明確に示されたのだ。
自分はまさに「評価」ばかりしていた。ほめてほめてほめまくれ、とばかり「評価」していたのだ。
確かに「評価」は難しい。
ほめようとばかり口先だけになってしまうことは多々ある。高学年、とくに女子はすぐに見抜くであろう。また、「すごい」だけでは子どもは飽きてしまう。 しかし、多様な「評価」の言葉はなかなかでてこない。
それに比べて「評定」ははっきりとしている。断定的に告げるだけでよいのだ。
一学期の算数の時間、ノートにA、B、Cをつけたことが何回かあった。
そのとき、Aをつけられた子は本当にうれしそうであった。「やった!」「よし!」という声が教室に響いていた。 いつもは反抗的な女子グループが妙にかわいらしく見えたのを憶えている。
今思えば、それは「ABC」という「評定」を行っていたからなのだ。
この論文を読み、ほめることへの意識がガラリと変わった。
そして、二学期が待ち遠しくなった。
二学期が始まり三週間が過ぎた.
「評価」ではなく「評定」をするよう心がけている。
ほめる機会の多い算数の時間は特に意識している。
以下に示すのは3分間の授業分析その92の一部分である。
T □1です。
1dlで板を5分の4uぬれるペンキがあります。
このペンキ3分の2dlでは板を何uぬれますか?
みんなで読んでみよう。さんはい。 C (読む) T 合格。
「合格」といった瞬間、クラスがピリッと締まったように感じたのを憶えている。
なによりテープ起しを聞いて、「合格」という言葉の力強さに驚いた。これならば子どもの心に届くはずである。
今まで言っていた「上手です」よりも数倍よい。
しかし、丸付けの際など、「合格」の言葉ばかりが続き何だか物足りなく感じるときもある。
そのときはこうすればよい。
合格。一番! 合格。二番!・・・
これならば子どもの喜びもさらに大きくなるはずである。
しかし、意識していても思わず「評価」の言葉が口から出ることがある。
けらども、それはよいのだ。
なぜならそれは心から出た「評価」の言葉だからである。
本気でそう思っている「評価」の言葉だからである。
本気でそう思っている「評価」の言葉は子どもの心に届いているはずである。
一学期は正直言って辛かった。
しかし、二学期は楽しい。
「評定」が自分とクラスを救ってくれた。