馳浩の古典こらむ

 道のべの            
 木槿(むくげ)は馬に
 くはれけり

松尾芭蕉
1644〜1694
『野ざらし紀行』所収


 故新井将敬代議士の葬儀に参列してきた。現職政治家の葬儀には何度も参列してきている。ほぼ、功成り名を遂げた高齢の方ばかりであるので、一抹の悲しさの中にも『生ある者はいつか死を迎える』という自然の摂理の中でおだやかな気持ちになるものである。しかし、新井さんの場合は疑惑を持たれた中で逮捕直前の自殺である。天命を全うしての死ではなく、憤死であるだけに『なぜ』『どうして』というやるせなさ、切なさが漂う気持ちで手を合わせてきた。

 そもそも新井さんの一連の疑惑は政治にお金がかかりすぎると信じ込んでいる政治家の心の持ちよう、後援会や政党関係者の思い込みから出発している。何とか必要なお金をひねり出すための練金術が株の取り引きで、それが違法性を持つものに結びついていったとしたならば、これは国民全員の責任にもつながっていく。立候補者も有権者も選挙を管理する者も、もっとお金のかからない努力をすべきなのである。私は新井さんと同じ旧三塚派に所属しており、彼のマスコミに対する不満は何度も耳にした。言われのない中傷は暴力だと言っていた。出る杭(くい)は打たれるのか、との叫びもあった。今となってはその無念さをどうして晴らさなかったのかとの思いが残る。

 この句は『旅中、馬上から見るとひょいと木槿の花が馬に喰(く)われてしまった』との写生句。一瞬のはかなさ、目立つものはこわされやすいとの意味もある。新井さんは何にこわされてしまったのか。『合掌』。


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