馳浩の古典こらむ

 わびぬれば
 いまはたおな 難波なる
  みをつくしても あはむとぞ思ふ

元良親王
もとよししんのう
890〜943
後撰和歌集所収


 事件が世間に露見してしまった後も、罪の意識もなく同じことを繰り返してしまうことは多々あるようだ。前例だからとか、慣習だからとか、いつもやっていたことだから、とか、この程度のことは社会常識の範囲内だから、とか、皆もやっているからとかの理由にならない理由を言いわけにして。
 接待もこの部類に入る。日本社会の慣行として、つきあい、儀礼程度の接待は容認されてきたものである。この接待が今さら贈収賄罪になったからといっておいそれとやめられるか、という意識を接待される官僚や接待する企業側が持っているところに大きな問題がある。

 接待する側は、度が過ぎればそれは何かを目的としての行為であると自覚し、自重しなければならない。接待される側は、度が過ぎればそれはタカリ、ユスリと同じと認識し、ましてや公職上の権限を持つ官僚である立場ならば一切そういった場から距離を置くべきである。大蔵省OBで日本道路公団理事に天下った人物が収賄罪で逮捕された。にもかかわらず、金融機関のMOF担(大蔵省担当)や大蔵省の官僚には『その程度のことが!』という意識しかなく、罪の自覚が薄いようである。日本式のナァナァが度を越して贈収賄事件に発展したものであるのに、これではモラルもへったくれもない。

 この歌は『今まで思うにまかせぬ逢瀬(おうせ)を続けてきたので、浮名の立った今の苦しい心境も以前と変わりません。どうせこうなったのなら今後どうなろうと身を尽くしてもあなたに逢おうと思います』という意味。これではいけない。世間にバレた以上は、接待という慣行を今一度見直していただきたいものだ。


[戻る]