馳浩の古典こらむ

 米蒔(ま)くも               
 罪ぞよ鶏(とり)
 けあふぞよ

 小林 一茶
1763〜1827
 


 自由民主党、久しぶりに修羅の舞台を演じようとしている。主演は橋本龍太郎総裁に違いないのだが、今回ばかりはワキを固めるはずの有力議員がそれぞれ自己主張をおっ始めて水面下でのけっとばし合いになっている。

 混乱の原因は9月に行われる総裁選挙。ここで橋本氏の再選は誰(だれ)も異論のないところ。政府が進める6つの改革を橋本氏のリーダーシップに頼らねばならないのであるから、与党自民党の意見は一致している。

 問題は三役人事と内閣改造人事。とりわけ幹事長人事は、今後の自民党の路線、ひいては国政の行方を左右する重要なポイントであるために駆け引きが行われている。自社さの与党三党体制を維持しようとする加藤紘一幹事長が3選を果たすのか。あるいは新進党の小沢一郎勢力と政策大連合を結び安保や行革を前進させ、あわよくば憲法論議にまで深入りしようとする保保派勢力が巻き返しを図るのか。これまでは派閥力学と年功序列が幅をきかせていた党内人事抗争も、今回ばかりは政策論や世代交替論や他党までも巻きこんでの大ゲンカとなりそうな雲行き。ポストのうま味に群がるだけでなく、21世紀の日本の行方につながる人事なだけに注目度は大。

 この句は「慈悲の心で米を蒔いてやれば、鶏どもがさっそく蹴(け)り合う仲間喧嘩(けんか)を始めた」という意味。人間社会、こうした修羅の世界から逃れられないとは言うものの、くれぐれもケンカが脱線して国民にひんしゅくを買わないことを願うばかりである。


[戻る]