馳浩の古典こらむ

 たれをかも            
 しる人にせむ高砂の
 松も昔の 友ならなくに

 藤原 興風 おきかぜ
生没年未詳
古今和歌集


 長寿社会。しかし長生きをすれば幸せかというとそうとも限らない。

 昔からの友人が次々と死んで行く中で自分だけ生き残ってしまっては淋(さび)しいもの。自分のことをよく知っていて理解しようとしてくれる知己が周りにいなくなると、孤独を感じるものであり、何となく時代に置いてけぼりにされているような気もする。長生きして心の底から良かったと思い、家族からも良かった、と思ってもらえる人生をすごすことは、なかなかむずかしい。

 同じようなことが、ペルー大使公邸人質事件で救出され、生きて日本の国に戻ることのできた青木盛久大使にも言えよう。

 数多くの失点があったとはいえ、テロリストに監視され続けた生の極限状態の中で辛抱し、がまんし、生き残ったのである。

 にもかかわらず、すべての責任が青木氏に起因するかのようなメディアの報道。これこそ魔女狩りと言わずして何と表現できよう。

 勝手に裸の王様に仕立てあげられ、悪口やかげ口、目に見えない世間の非難の目を浴びせられようとは。まさかペルーから帰国の途には思いもよらなかっただろう。自業自得だといって突き放すような日本マスコミの風潮では、事の真実をあぶり出すことにはならないだろう。

 この歌は「あの高砂の松でさえ昔からの私の友人でないのに、一体誰(だれ)をわが知己として、心の痛みを訴えたらいいのだろう」という意味。生き永らえた青木氏にも、心の痛みを分かちあうマスコミがいていいはずだ。


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