馳浩の古典こらむ

 あはれとも
 いふべき人は 思ほえで
 身のいたづらに なりぬべきかな

謙徳公(藤原伊尹 これただ)924〜972
拾遺和歌集 巻十五恋五


 村山富市首相に精彩がない。中国訪問をして久しぶりに笑顔を見せてくれはしたものの、それとて外遊の域を出ない。円高、サリン事件、長引く不況、連立政権のねじれ現象に対していまだに決定的なリーダーシップを発揮していない。本当にこの人が日本のかじ取りをしているのかと思うと一抹の不安を感じるのは私だけではあるまい。
 彼を見ていると「あ〜ぁワシャいつまでこんなしんどい思いをせにゃならんのかのぅ」という嘆きが今にも聞こえてきそう。

 この歌の意味は「私のことを、あぁ可哀そうに、と言って同情してくれるはずの人を思いつかない。このままむなしく、私は誰(だれ)にも同情されずに朽ち果ててしまうに違いない」

 そう。政権奪取のために自民党のかついだみこしにかつぎあげられた村山首相の、現在の心境にぴったりなのである。
 ちなみにこの歌の詠まれた背景をしらべてみたら、さらにおもしろいことがわかった。
 拾遺集の詞書(ことばがき)では「仲良くしていた女がいつしか冷たくなって、全く自分を振り返らなくなった状況のもとで詠んだ」とある。
 「仲良くしていた女」を自民党、振られた気の弱い男を村山さん(社会党)と置き換えてみればよくわかるであろう。
 でも私は言いたい。村山さんだからこそ、政局がこうやってまとまっているのだと。
 突出しなくてもいい。与えられたポストに静かにおさまっているのも、村山さんらしくていいではないか。


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