馳浩の古典こらむ

 世の中に
 絶えて桜の なかりせば
 春の心は のどけからまし

在原業平朝臣 ありわらのなりひら
825〜880
古今和歌集 巻第一 春歌上


 桜の開花シーズンになると、私のようなプロ野球フリークは、いよいよ気もそぞろ。

 今年はどのチームが活躍するだろうか、大好きな松井選手は何本ホームランを打つだろうか、どんな新しいヒーローが誕生するだろうかと考えているだけで、この時期を過ごす私の心はうきうきしてくる。
 とりわけパ・リーグの福岡ダイエーホークスの監督に王貞治氏が就任したことが私の心を躍らせる。巨人軍の長嶋監督とは、現役時代から何かにつけてライバル視されていた。
 もし、セ・リーグを巨人が、パ・リーグをダイエーが制したならば、ON対決が実現するわけであるから(ぜひそうなってほしいと願っている)これはもう豪華な闘い。
 両チームとも十分な戦力補強をしてヤル気マンマン。王さんと長嶋さんのためにも、存分に打って守って走ってもらいたい。

 この歌の意味は、「この世に桜というものが全くないとしたならば、春 をすごす人の心は本当にのどかでいられるのに」

 花が咲くといっては心をときめかせ、散るといっては悩まされ、心の休まる暇がないというのである。もちろん現実に桜は存在するのであるから、仮定の話をしているのだが。この歌の裏には、桜のおかげで春をすごす人の心は情趣深くいられるのだ、との断定がある。この桜をONに置き換えれば、私の心の揺れを説明できようか。
 王監督と長嶋監督がぶつかり合う日本シリーズの秋が待ち遠しいこのごろである。


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