目覚めている信仰
ルカによる福音書12章35〜48
「主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られる僕たちは、さいわいである」「主人が夜中ごろ、あるいは夜明けごろに帰ってきても、そうしているのを見られるなら、その人たちはさいわいである」「主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである」
ここには、終わりの日の幸いが語られています。主が来られるときに約束されている幸いが語られているのです。主イエス・キリストを信じ主に従い続けた者に与えられる祝福が語られているのです。そうです。終わりの日、主が再び来られるときは、絶望の日ではありません。祝福の日なのです。
主イエス・キリストはおっしゃいます。「腰に帯をしめ、あかりをともしていなさい」と。なぜ、腰に帯を締めてあかりをともしていなければいけないのか。それは、婚宴に出かけた主人の帰りを待つ僕の姿が語られているからです。ユダヤの婚宴は、2〜3時間で終わる現代のホテルの結婚式とは違って、時間無制限でした。したがって、僕はいつ主人が帰ってくるか予測が出来ませんでした。帰りが真夜中、それとも朝帰りになるかもしれないのです。しかし、いつ主人が帰ってきても、すぐに給仕できるように僕は用意しているようにと言われます。「腰に帯をしめ」とは、ユダヤの衣服は上着が長く仕事の邪魔になるので、上着の裾をまくり上げて、それを帯で締めるということ、タスキをかけるようなものです。つまりそれは仕事をする姿で、いつでも主人の給仕ができる用意をするということでした。まだ帰ってこないと思って、支度もせずに眠りこけることがないように、目を覚ましていなさいと勧められています。なぜならば、主人はいつ帰ってくるか分からないからです。
ここに例えられている主人こそがイエスさまであり、帰りを待つ僕が私たちであることは言うまでもありません。イエスさまはいつ来られるか分からないのです。そのイエスさまがいつ来られてもよいように、準備を整えていることが私たちには求められます。盗人がいつ押し入るか分からないように、イエスさまは思いもかけない時に、突然いらっしゃるからです。イエスさまが来られる世の終わりにそなえて、目を覚ましていなさい。とイエスさまはおっしゃいます。
しかし、目を覚ましていれば幸いだと言われても、私たちは困ってしまいます。 なぜならば、終わりの日はいつなのか、イエスさまが再び来られるときがいつなのか、私たちには分からないからです。もし、終わりの日が何月何日の何時に来るのかが分かっているのならば、私たちは目をさましていることはできるでしょう。しかし、「その日、その時は、だれも知らない」(マルコ13:32)のです。いくら目をさましていようと頑張ってみても、私たちには限界があります。医学的に見ても、眠らないで起き続けていると、3日目には考えることができなくなり、幻覚や錯覚を見たりすると言います。つまり、目をさまし続けることは、私たちには不可能なことのです。それならば、どうしてイエスさまは、私たちのできもしないことを命令されるのでしょうか。「目を覚ましているならばさいわいだ」と言われても、私たちには不可能です。もう私たちには絶望しかありません。もちろん、不可能なことをイエスさまは求めているのではありません。
目を覚まし続けて生きることがどのようなことなのかを、後半のたとえで示されています。ここには主人から財産の管理を委された家令・僕が出てきます。主人が不在の間、僕に求められるのは何でしょうか。それは主人から預けられたものをきちんと配分して、忠実に管理をすることです。主人がいないことをいいことに、それを自分のもののようにしてはならない、それは主人のものだからです。そして主人が帰った時、自分の仕事の決算書を提出しなければなりません。そこで忠実に管理したか、私物化し浪費したかが明らかになります。私たちはこの忠実な僕として生きることが求められているのです。それでは私たちには何が委ねられまかされているのでしょうか。もちろん、人それぞれに違いがあるでしょう。
イエスさまは、主人の財産を僕に管理させるというたとえを繰り返し語っています。その代表が、マタイによる福音書25章に記されている「タラントのたとえ」です。それは、主人はそれぞれの能力に応じて、ある僕には5タラントを預け、別の僕には2タラントを預け、もう一人の僕には1タラントを預けて旅に出ます。5タラントと2タラントをそれぞれ預けられた僕は、預けられたタラントを元手に商売をします。そして、5タラントと2タラントをそれぞれ預けられた僕は主人が戻ったときに倍にして返します。二人は主人から「良い忠実な僕よ」とほめられ、さらに大きなタラントが預けられます。
一方、1タラントしか預けられなかった僕は、1タラントを穴を掘って埋めて隠しておきます。預けられたタラントを、用いることはしませんでした。主人は「悪い怠惰な僕」と怒って、この僕からタラントを取り上げ、僕を家の外に出してしまいます。1タラントしか、といいましたけれども、1タラントというのは、20年分の賃金です。とても大きなお金を1タラントの僕にも預けられているのです。「悪い怠惰な僕」の罪は、1タラントもの大きな能力を与えられていながら、それを用いることをしないで怠けたことです。
「タラント」というのは、芸能人のことをいう「タレント」のもとになった言葉ですが、この「タラント」は、「賜物」のことです。主人は僕に大きな賜物を与えてくださっているのです。その賜物を生かして暮らしなさい、というのがこのたとえ話の意味です。つまり、「目をさましていなさい」とイエスさまがおっしゃるのは、「あなたたちに与えられた賜物を生かして、今を生きなさい」ということなのです。そうです。私たちにはそれぞれ人生という賜物が与えられているのです。人生という時間、そしてその中で与えられる様々な祝福です。様々な才能や能力、財産や所有物、労力や思いやり、優しさや励まし、数え挙げればきりがありません。実はそういったものを豊かに与えてくださることで、私たち自身を豊かに富ませてくださるだけではなく、私たちを通して隣り人をも富ませようとされたのでした。本来それは自分自身のものではなく、管理をまかされて委ねられ、家族や友人、隣り人へと配分していくためのものだというのです。しかしそれを私物化するとんでもない僕がいるのです。同僚を殴りつけ、飲んだり食べたりするのです。ひどい奴もいるものだ、と私たちは考えます。しかし、実はそれが私たち自身のことなのではないでしょうか。主人のもの、隣り人に配分すべきものを、私物化して自分のものにしている、それは自分自身ではないでしょうか。
目を覚まし続けて仕える僕の姿が描きながら、聖書はとても不思議な主の言葉を伝えています。「目を覚しているのを見られる僕たちは、さいわいである。よく言っておく。主人が帯をしめて僕たちを食卓につかせ、進み寄って給仕をしてくれるであろう」
これではあべこべです。僕が目を覚ましていたのは、主人に給仕するため、食事の用意をするためでした。しかしそうやって用意し、備えていた僕のために、主人が帯を締めて給仕し、食事を用意してくれるというのです。いったい、これはどういうことでしょうか。同じようなあべこべがこの例え以外にもあるのです。私たちは、主イエス・キリストが十字架につけられる前の晩の出来事(ヨハネ13:3-5)思い起こすことができるのです。あの最後の晩餐でのイエスさまの姿です。食事の席に着いた弟子たちの前に跪いて、イエスさまは手拭いを取って腰に巻き、足を洗い始められました。奴隷でもいやがった仕事です。それをご自分の方から進んでしてくださった方は、私たちに「仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(マルコ10:45)とおっしゃったのです。神さまが私たち人間に仕えるために来られたというのです。
聖書の神は、人間を僕、奴隷としてこき使い、自分の仕えさせる神ではありません。逆にそうやってふんぞり返っている人間の足を洗い、人間に仕えてくださる神なのです。主イエス・キリストの生涯と働きは、まさに私たちに仕える生き方でした。腰に帯を締めて、私たちに給仕される主、それを私たちは毎月この目で見ています。
それは、聖餐式です。パンと杯の聖餐にあずかるときに、私たちはただ座って配られるのを待つだけです。配餐当番の役員が会衆のところに出向いて、パンとぶどう酒を配ってくれる、それは給仕です。聖餐は、牧師と役員が食事の準備をし給仕する、そのことでイエスさまご自身が、私たちをこの食事に招き、準備し、給仕までしてくださっていることを示しているのです。私たちは、ただ座って待っているだけでいい、ただ食べるだけでいいのです。こうして私たちの神、私たちの主である方が、実は私たちに仕えてくださる方、私たちの僕となってくださった方であることを聖餐式を通して知るのです。
主イエス・キリストは、私たちを奴隷としてこき使おうとされるのではなく、むしろご自身が私たちの僕となって仕えてくださったのです。そのへりくだりのゆえに私たちもこの方に仕える者となったのです。私たちが主イエス・キリストの僕であるのは、イエスさまこそがまず私たちの僕となってくださったからでした。主に仕えられたから主に仕え、主に愛されたから主を愛するのです。まず主イエス・キリストが私のためにくびきを負い十字架にかかられたから、私たちも主のくびきを負い、自分の十字架を背負うのです。主イエス・キリストが私の僕となられたから、私も主の僕として生きるのです。こうしていつも主イエス・キリストの姿を心に焼き付けて、目を覚ましている僕として生きていくことが求められているのです。やがて主がおいでくださるとき、もう一度私を豊かに祝福し、天国の祝いの宴の席に座らせ、豊かなもてなしをもって歓迎してくださる約束を待ち望むのです。
私たちが、目を覚ましていることは、主イエス・キリストを信じ主に与えられた人生という賜物を精一杯生きることです。
15年ほど前に私は「林檎の樹」という題名のドイツ映画を見ました。この映画は東ドイツのあるリンゴ農家の夫婦の物語です。主人公の夫婦はすれ違いの生活の中で互いを信じられなくなり、妻は夫を裏切り、また、夫も妻を西ドイツのスパイとして政府に引き渡すということまでしてしまいます。心を失った社会では、肉親同士でいがみ合い、時には殺し合うことが起こるのです。そんなときにベルリンの壁が破れ、東西ドイツの垣根が取り除かれるということが起こります。しかし、西から押し寄せてきた資本主義は、効率的ではない林檎農園を押し潰し、林檎の樹をブルドーザーでなぎ倒していきます。つまり、共産主義もそしてまた期待していた資本主義も人間の心を救うことはできないのだ、ということを映画は象徴的に映し出します。そんな中で、この夫婦は愛を取り戻します。それは、林檎の樹を植えるというところからです。それぞれに与えられた生活をやり直すことによって、夫婦は危機を乗り越えます。林檎の樹を植えるために夫婦が故郷に戻るというエンディングのシーンで、ルターの言葉が映し出されて映画は幕をおろします。「あす終わりの日が来ても、私は今日、リンゴの樹を植える」
私たちにとって終わりの日は、身近な人生の終わりの日に備えることでもあります。私たちの人生がいつ閉じられ、締めくくられるか、いつ主からのお召しがあるか分からないのです。自分の死の備えをする毎日の歩みです。世の終わりに備えて目を覚まし続けるということは、何も特別なことをするのではないのです。私たちに与えられた人生という賜物を生きることです。主イエス・キリストは確かに天国の祝いの宴の席に招いてくれるのですから。
腰に帯をしめ、あかりをともしていなさい。主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐあけてあげようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られる僕たちは、さいわいである。よく言っておく。主人が帯をしめて僕たちを食卓につかせ、進み寄って給仕をしてくれるであろう。主人が夜中ごろ、あるいは夜明けごろに帰ってきても、そうしているのを見られるなら、その人たちはさいわいである。このことを、わきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、自分の家に押し入らせはしないであろう。あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである」。
するとペテロが言った、「主よ、この譬を話しておられるのはわたしたちのためなのですか。それとも、みんなの者のためなのですか」。そこで主が言われた、「主人が、召使たちの上に立てて、時に応じて定めの食事をそなえさせる忠実な思慮深い家令は、いったいだれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人はその僕を立てて自分の全財産を管理させるであろう。しかし、もしその僕が、主人の帰りがおそいと心の中で思い、男女の召使たちを打ちたたき、そして食べたり、飲んだりして酔いはじめるならば、その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰って来るであろう。そして、彼を厳罰に処して、不忠実なものたちと同じ目にあわせるであろう。主人のこころを知っていながら、それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、多くむち打たれるであろう。しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。