海を歩く主
マタイによる福音書14章22〜33
 「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」
 主イエス・キリストの言葉が、弟子たちの耳に、そして心に、いつまでも焼き付くように残っていました。あとになって、牢屋にとらわれるようなことになっても、厚い壁に閉ざされた暗闇の中で、イエスさまの言葉が弟子たちを励まし続けるのです。迫害のただ中で身動きがとれずに苦しみもがいている弟子たちを、イエスさまの言葉は励まし続けます。吹きすさぶ逆風の中でどうにもこうにも進むことができずにいる教会を、イエスさまは励ましてくださるのです。
 「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と。

 五つのパンと二匹の魚で五千人を超える人々を養われたイエスさまは、いったん群衆を解散させます。ヨハネによる福音書6章を見てみると群衆はイエスさまを王にしようとしていたと記されています。イエスさまが行われた奇跡を目の当たりにした群衆はおそらく興奮して、「イエスこそメシアだ。なぜなら私たちにパンを食べさせてくれたから」とか、「イエスを王とすればわれわれの繁栄は保証される」などと叫んでいたのでしょう。こんな間違ったスローガンを掲げて団結する群れに対して、イエスさまは自ら解散命令を出されるのです。
 今日の新興宗教の指導者ならば、このような群衆の熱狂を利用して行動を起こしたりするでしょう。しかし、イエスさまは力ある業、奇跡を行われたあと、必ずと言っていいほど、興奮を静めようとされるのです。病気を癒された人にその身に起こった奇跡を言い広めないように口止めをされたことも、何度もありました。
 イエスさまは、このような興奮した状態の中に、弟子たちをとどめたままにはなさいませんでした。イエスさまと一緒にいようとする弟子たちを、強いて舟に乗り込ませます。向こう岸に先に向かわせるのです。
 イエスさまには、このような人々の期待や思惑に応えることなど少しも関心はありません。イエスさまは、ただ父なる神の御心に従い、神さまから託された使命を果たすためにこの世に来られたのです。ですから、イエスさまご自身は山に向かわれるのです。それは神さまに祈るためであったのです。気持ちが高まった興奮した状態では神さまと交わりことはできません。イエスさまはひとり静かに祈られるのです。奇蹟に熱狂しても、本気になって心を神さまへ向けようとしない群衆の救いを、父なる神さまに祈るために山へと向かわれるのです。それと同時にイエスさまと離れて荒波をこぎ出ていった弟子たちのために、イエスさまは祈られるのです。
 夜が明ける前の四時ころ、これはローマの時刻の読み方ですから、今の三時ころです。東の空に夜明けの兆しがまだ全く見えない最も暗い闇の中です。弟子たちは、ガリラヤの海の真ん中で逆風と戦っていました。強い向かい風が吹いているために、向こう岸に向かってなかなか前にこぎ出せません。かつてガリラヤの海で嵐にあったときは、イエスさまが共にいて波を静めてくれました。しかし今度は、イエスさまは舟に乗られてはいないのです。暗闇の中で孤独な戦いを、弟子たちだけで戦っていたのです。
 しかし、たとえ、イエスさまから遠く引き離され、不安の中に投げ出されているように思えても、イエスさまは決して弟子たちを見捨てたりはいたしません。神さまから捨て去られたような恐れと不安の中に置かれていようとも、イエスさまを信じる者をいつも見守っていてくださるのです。そしてイエスさま御自身の方から、イエスさまに信頼する者に近づいてきてくださるのです。
 イエスさまは海の上を歩いて来られます。五つのパンと二匹の魚で五千人以上の人々を養われた奇蹟に勝るとも劣らない奇蹟です。
 果たしてこんなことができたのかと、昔からいろいろと議論がなされてきました。ある人は、海と言っても実際は湖ですから、湖の浅瀬をイエスさまは歩いてこられたのだと説明します。そのイエスさまが海の上を歩いているよう弟子たちは錯覚したのだ、と合理的に奇蹟の謎を解決しようとするのです。もちろんこの説明には反論が出されます。弟子たちの中にはガリラヤの海を知り尽くしているペテロやヤコブといった漁師がいるのだから、そんな錯覚をするはずはないという反論です。
 私たちには、ほんとうにイエスさまが海の上を歩かれたのかどうかを確かめることはできません。しかし、ヨブ記9章やイザヤ書43章で証しされている神は、「ただひとり天を張り、海の波を踏まれる」方(ヨブ9:8)であり、「海のなかに大路を設け、大いなる水の中に道をつく」る方(イザヤ43:16)です。荒野で五千人以上の人々を養うことができるお方は、海をも乗り越えて救いをもたらすことができるお方なのです。
 五つのパンと二匹の魚の奇蹟は、出エジプトにおいて、神さまがイスラエルの民をマナを降らせて養われたことを思い起こさせます。神さまを見失っていた民に、神さまを信じ切れないでいた民に天の穀物を与えて食べさせるのです。弟子たちは、五つのパンと二匹の魚の奇蹟を目の当たりにしているのです。イエスさまが神の子として行動を起こされていることを心の目を開いてみることができるならば、海の上を歩くイエスさまを恐れる必要はないのです。
 しかし弟子たちは、海の上を歩くイエスさまを見て、幽霊を見ているのだと、ただただ恐れおののくばかりです。

 「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」
 短い言葉です。聖書が書かれたもとの言葉では五つの単語だけの短い言葉ですこの短い言葉でイエスさまは、弟子たちと共にイエスさま御自身がおられることを気づかせようとされるのです。イスラエルの民にマナを降らせて神さま御自身が共にいることをあらわされたように、五千人を超える人々を、五つのパンと二匹の魚で養われたイエスさまが、今また、逆風の中でこぎ惑っている弟子たちと共にいて下さることを示してくださいます。「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と語りかけてくださるのです。
 迫害の嵐の中で苦しみもがいていた最初の教会の人々にとって、何ものにも勝る勇気を与えてくださる言葉です。神さまが共にいて下さるという確かな信頼を与えてくれる言葉です。

 このあと、ペテロがイエスさまの力を見、イエスさまの言葉を信じて、自分も水の上を歩こうとして、溺れそうになります。軽はずみな行動を取り、失敗ばかり重ねるペテロらしいエピソードのように思えます。ペテロは、「おいでなさい」というイエスさまの言葉に従って、イエスさまの御許に行こうとしたのです。しかし、吹きすさぶ風を見て恐ろしくなり、溺れそうになってしまうのです。イエスさまの言葉だけを最後まで信じることができなくなって、溺れてしまいそうになったのです。迫害や困難の中で、イエスさまを疑い、迷い、躓いてしまう、ペテロの人生を象徴するような出来事です。
 それは、ペテロだけではありません。教会の歴史が、まさしくそうです。リバイバルというような燃え上がるような信仰復興が起こり、信じる者がたくさん起こされ、教会が成長します。そんなときに誤った指導者が現れたり、人間的な思いや迫害の中で、教会が分裂し、挫折することを教会の歴史は繰り返してきたのです。そして私たちの信仰生活が、感激して燃え上がるような信仰生活の喜びを体験したかと思えば、困難に出会った時に神さまを呪い、疑い、そして人を裁き、教会を裁いたりして信仰の危機に直面するのです。
 ペテロは不信仰によって、溺れそうになります。しかし、それだけでは終わりません。ペテロはイエスさまの伸ばされた手にすがりつくのです。溺れた時に、躓いた時に、伸ばされている手にしがみつくのがペテロです。
 そして、イエスさまが船に乗りこんだ時に、ペテロや弟子たちの行く手を妨げていた風が止むのです。疑いや迷いも消え去るのです。

 教会は、自分たちのシンボルマークの一つに舟を用いてきました。教会は舟のように嵐に遭い、逆風に進路を阻まれ、何度も沈没しそうになりました。しかし、そのたびにイエスさまが祈っていてくださり、舟の先頭に立って導いてくださることを御言葉によって信じる群れとなりました。イエスさまを信頼する群れを表すために、舟を教会のシンボルとしたのです。
 どうあがいてみても少しも前に進めずに、八方ふさがりに思えるような出来事が何度も教会を襲いました。激しい迫害の嵐の中で、教会は行く手をたびたび閉ざされました。嵐は、外からばかり襲ってくるのではありません。時代の風になびいた誤った教えによって、教会がむしばまれて沈みそうになってしまうようなことが、2千年の教会の歴史の中で何度もありました。
 このような、こいでもこいでも先へ進むことができずに、疲労感ばかりが増していくそのときに、イエスさまが逆風に立ち向かわれるのです。不信仰の波に呑み込まれそうになっても、私たちをしっかりとつかんでいてくださいます。私たちが疲れ果てて投げ出してしまった戦いを、イエスさまが私たちの代わりに戦ってくださるのです。イエスさまは、すべてのことに勝利されるお方です。私たちにはどうすることもできなかった罪も、そして死さえも、イエスさまは勝利されたのです。
 どんな嵐の中でもイエスさまは私たちに目を注いでくださいます。私たちと共にいて下さいます。逆風の中で力を失い、激しく揺れ動く大波に飲み込まれて沈みそうになっても、イエスさまに碇を降ろすときに舟は沈むことはありません。イエスさまは、いつも私たちと共にいて下さいます。そしてわたしたちに確かに声をかけてくださるのです。
 「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」
 それからすぐ、イエスは群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸へ先におやりになった。そして群衆を解散させてから、祈るためひそかに山へ登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが舟は、もうすでに陸から数丁も離れており、逆風が吹いていたために、波に悩まされていた。イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われた。するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。ふたりが舟に乗り込むと、風はやんでしまった。舟の中にいた者たちはイエスを拝して、「ほんとうに、あなたは神の子です」と言った。