人の心を知る
使徒行伝1章15〜26
 イエスさまが12使徒を選んだ時に、12番目はイスカリオテのユダです。福音書にでてくる12使徒の名簿はどれもユダが最後です。12使徒をイエスさまが選んだ時にマッテヤも、もう一人候補に挙がったバルサバと呼ばれるヨセフも既に弟子だったのです。しかし、イエスさまが選んだのはマッテヤでもヨセフでもなく、イスカリオテのユダだったのです。マッテヤやヨセフはイスカリオテのユダよりも劣ると考えることさえできるのです。だから、12使徒が11人となって、果たして補充する必要があるのかどうかを考える時に、そのまま11人でいいのではないか、という声が当然あがったのではないかと思うのです。なぜならばイエスさまが直接選んだのですから、イスカリオテのユダが裏切って自殺したことによって一人欠けても、イエスさまが選ばなかったマッテヤやヨセフを、あえて選ぶ必要があったとは考えらなかったからです。
 しかし、弟子たちは11人のままではいいと考えませんでした。それは、聖霊が与えられるためには、11人ではだめだったのです。そのことを弟子たちは聖書を通して知りました。ペテロが中心になって聖書を開いて詩篇を読みながら、自分たちがなすべきことはいったい何かと、神さまの御心を尋ね求めるのです。そして、弟子たちは、イスカリオテのユダの代わりに12番目の使徒になるべき人物を選ばなければならないことを知りました。なぜならば、イエスさまが12人の使徒を選ばれたのは、イスラエルの12の部族のひとつひとつにそれぞれの弟子を遣わすという意味があったからです。イスラエルの12の部族は、今ではイスラエルという狭い国にとどまりません。「新しいイスラエル」としての「キリスト教会」のことですから、その教会を指導する12人の使徒を立てることが弟子たちにとって第一の仕事なのです。

 弟子たちがしていたことは、ひたすら祈り、そして聖書の御言葉に聴いたのです。祈りと聖書の御言葉によって、神さまの御心は働き人を備えることであることを知り、イスカリオテのユダに替わる12番目の使徒を選んだのです。
 しかし、イエスさまから聖霊を受ける教会の中心となる使徒を選ぶ時に、くじで選んだというのは少しさびしい気もします。12番目だからどうでもいい、いい加減な選びだったとさえ思えないこともないのです。たとえ12番目であっても、使徒なのですから、選挙をするとか何か別の方法はないのかと思うのです。しかし,彼らは決していい加減に選んだのではありませんでした。
 まず使徒としての資格を検討するのです。ペテロが語ります。「主イエスがわたしたちの間にゆききされた期間中、すなわち、ヨハネのバプテスマの時から始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日に至るまで、始終わたしたちと行動を共にした人たち」が資格です。つまり、使徒として立てられるのは、イエスさまが地上で活動されていたことを証言できる人物、そして復活されたイエスさまを知っている人物、の二点を兼ね備えている者が使徒となる資格を持っているのです。それは考えてみれば当然です。まだ新約聖書が書かれていない時です。イエスさまの福音を宣べ伝えることにおいて大切なのは、証言です。イエスさまが十字架につけられる前に何を語り何をなさったのかを直接見て聴いて、そしてイエスさまが確かに死なれ復活したのだということを証言できなければならないのです。だから、120人の弟子たちの中から、イエスさまを証言できる者を選んだのです。
 検討の結果、使徒として立てられる資格を持っているのは「バルサバと呼ばれ、またの名をユストというヨセフと、マッテヤ」の二人でした。第一の候補者はヨセフです。「バルサバと呼ばれ、またの名をユストというヨセフ」と聖書は記していますが、この紹介の仕方からヨセフがどんな人だったか分かります。バルサバというあだ名は「安息日の子」あるいは「誓いの子」という意味です。まじめに安息日に礼拝しさまざまな戒めを守っていたということが分かります。まして、ヨセフの姓が「正直者」という意味を持つユストなのですから、弟子たちの中でバルサバと呼ばれたヨセフがどれほど信頼されていたかがよく分かります。そしてもう一人の候補者が、「ヤハウェ(主)の賜物」という意味の名前を持つマッテヤです。
 候補者二人の紹介のされ方を見れば、弟子たちの中で投票をすれば結論がすぐにでてきそうなのです。きっと、みんなから信頼を集めていそうな、ヨセフが選ばれるだろうと思うのです。しかし、候補者が二人となったところでそれ以上、弟子たちは自分たちで判断しようとはしませんでした。自分たちですべてを解決しようとはしなかったのです。最後の判断を神さまにゆだねるのです。それがくじ引きだったのです。
 くじ引きは神さまが御心を示して導くことを信じて行われる旧約聖書時代以来の方法です。箴言16章33節に「人はくじをひく、しかし事を定めるのは全く主のことである」と記されている通りに、旧約聖書の時代はくじ引きによって神さまの御心を知ったのです。イエスさまが天に昇り聖霊がまだ与えられない時なので、神さまの御心を知るためには、イスラエルで古くから行ってきたくじ引きしか方法がなかったのです。
 だから私たちは気をつけなければいけないのですが、教会でなかなかことが決まらない時にくじで何でも決めたらいいということにはならないということです。18世紀にヨーロッパで生まれたモラヴィア派という異端は、教会に入会することを希望する人に入会を認めるかどうか、くじ引きで決めたといいます。また、宣教師を派遣する時に誰を派遣するか、そして結婚相手を決める時もくじで決めたといいます。これは、決して正しい選択の仕方とは言えないでしょう。イエスさまが天に昇り聖霊がまだ与えられない時に行った、くじ引きはあくまでも非常手段なので、くじを引けばいつも御心を神さまが示されるとは限らないのです。
 弟子たちは、決していい加減に12人目の使徒を選んだのではありません。候補者二人を選んだ上で、そのうちの一人が選ばれることについては神さまに真剣に祈ったのです。弟子たち一同は神のみこころが明らかにされるように祈ることだけが残されていました。なぜならば、新しい使徒は人が選ぶのではなく、神さまが選ぶからです。神さまはご自分の御業のために働く使徒を選ぶときに人の助けなど必要とはしません。人間の側でできることは、神さまに選ばれてもいいように用意することです。二人の候補者を立てて熱心にひたすら祈ること、それが人間の側にできる用意です。神さまは選びの用意を判断されて御心を示されるのです。
 「すべての人の心をご存じである主よ。このふたりのうちのどちらを選んで、ユダがこの使徒の職務から落ちて、自分の行くべきところへ行ったそのあとを継がせなさいますか、お示し下さい」
 そうして選ばれたマッテヤだったのです。マッテヤはイスカリオテのユダのあとの12番目の使徒です。それもくじで選ばれた12番目の使徒です。しかしこのマッテヤを神さまは選ばれたのです。イスラエルの12部族どころか全世界に福音を宣べ伝えるために、用いられるのです。
 ここに神さまの選びの不思議さを思います。だいたいイスカリオテのユダをイエスさまは選ばれているのです。イエスさまを裏切りイエスさまを殺そうとした人に手引きして売り渡したイスカリオテのユダを選んでいるのです。そして今度は、忠実な弟子であったかも知れないけれども、取り立てて何か才能があるとは思えない、マッテヤを神さまの大切な務めのために選び使徒として立てるのです。
 もし、私たち人間の側に選択権があって、人間の尺度で考えたならば、「安息日の子」で「正直者」のヨセフを選んだでしょう。何の取り柄もあるとは思えないマッテヤを選ぶことなどなかったのではないでしょうか。しかし、神さまは、マッテヤを選んだのです。そして取り柄があるとは思えないマッテヤを用いるのです。

 私たちは皆、マッテヤなのではないでしょうか。神さまに選ばれるべきふさわしい人間なのかと、自分で問うた時に、誰が「神さまの弟子として、私こそふさわしい」と言えるでしょうか。どんな人でも説得することができるような巧みな話術を持っているわけでもないかも知れません。誰からも尊敬されるような、すばらしい人格者ではないかも知れません。みんながあこがれような美しい容姿を持っているわけではないかも知れません。むしろ、イエスさまの弟子として、イエスさまを証しし福音を宣べ伝えるために、自分は果たしてふさわしいのかを問うた時に、むしろふさわしくないことを思わされるのではないでしょうか。しかし、神さまは私たちを選んでくださったのです。私たちよりももっと、話がうまい人がいるのに、高潔な人格者は私たちの周りにいくらでもいるのに、この私たちを神さまは選ばれたのです。この欠けたところだらけのふさわしくない私たちを、神さまは必要とされたのです。
 だから、私たちもマッテヤとして召されたのです。イエスさまはおっしゃいました。「収穫は多いが働き人が少ない。だから収穫の主に働き人を送って下さるように祈りなさい」(マタイ9章37〜38節)。教会はどこまで成長しても、働き人が十分いるということはありません常に足りないのです。その足りない部分を補う人を神さまは必要としています。その穴を埋めるのは、マッテヤであり、私でありあなたなのです。それは、「すべての人の心をご存じである主」が選ばれたからです。
 そのころ、百二十名ばかりの人々が、一団となって集まっていたが、ペテロはこれらの兄弟たちの中に立って言った、「兄弟たちよ、イエスを捕えた者たちの手びきになったユダについては、聖霊がダビデの口をとおして預言したその言葉は、成就しなければならなかった。彼はわたしたちの仲間に加えられ、この務を授かっていた者であった。(彼は不義の報酬で、ある地所を手に入れたが、そこへまっさかさまに落ちて、腹がまん中から引き裂け、はらわたがみな流れ出てしまった。そして、この事はエルサレムの全住民に知れわたり、そこで、この地所が彼らの国語でアケルダマと呼ばれるようになった。「血の地所」との意である。)詩篇に、/『その屋敷は荒れ果てよ、/そこにはひとりも住む者がいなくなれ』/と書いてあり、また/『その職は、ほかの者に取らせよ』/とあるとおりである。そういうわけで、主イエスがわたしたちの間にゆききされた期間中、すなわち、ヨハネのバプテスマの時から始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日に至るまで、始終わたしたちと行動を共にした人たちのうち、だれかひとりが、わたしたちに加わって主の復活の証人にならねばならない」。そこで一同は、バルサバと呼ばれ、またの名をユストというヨセフと、マッテヤとのふたりを立て、祈って言った、「すべての人の心をご存じである主よ。このふたりのうちのどちらを選んで、ユダがこの使徒の職務から落ちて、自分の行くべきところへ行ったそのあとを継がせなさいますか、お示し下さい」。それから、ふたりのためにくじを引いたところ、マッテヤに当ったので、この人が十一人の使徒たちに加えられることになった。