昨夜、教会学校の夕涼み会を行い、「たいせつな君」という映画を子供たちと一緒に見ました。主人公の青年パンチネロが住むある村では、見栄えが良かったり才能があったりする者には金色の星シールが貼られます。また見栄えが悪かったり失敗ばかりしている者にはネズミ色の丸いシールが貼られるのです。主人公パンチネロは何をやっても失敗だらけで、ダメシールが体中に貼られて、みんなの物笑いになっているのです。しかしパンチネロのダメシールが最後にポロッポロッと落ちていくのです。どう頑張ってもはがれ落ちることがなかったダメシールがはがれ落ちていったのは、「覚えておくんだ。かけがえのない君を作ったのはこの私だ。私は間違うことはない」という言葉を信じて歩き始めた時でした。
「しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである」(4-6)
私たちが「キリスト共に生かされ」ていることに感謝を持ってパウロはこの手紙を書いています。しかし私たちが「キリスト共に生かされ」ているということは、「キリストと共に生かされ」る前の状態があったわけです。
それは、1節に「あなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって」そしてまた5節にも「罪過によって死んでいたわたしたち」とある通りに、「キリスト共に生かされ」る前の私たちは「罪過によって死んでいた」のです。私たちは死人だったと書いてあります。決して気持ちの良い言われ方ではありません。初めて聖書を開いてこの言葉を読んだ人は、あまりよい気持ちを持たないだろうと思います。しかしパウロはパウロ自身も含めて、死人だったというのです。
どのように死んでいたのでしょうか。「かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである」
「空中の権」という不思議な言葉が出てきます。むなしい世界のことです。よどんだ空気に満ちているむなしい世界には、悪の力が働きやすいのです。希望のない世界で悪魔の力に囚われている者をパウロは死人と読んでいるのです。そして死人である私たちは「生まれながらの怒りの子」であったとパウロは言うのです。怒るのは神さまです。神の怒りを受けているということは、裁かれていることです。死人としたのは神が裁いて処刑したことです。決して言葉の上ではなく、私たちは神の裁きによって死刑を宣告されたのだというのです。
死刑を宣告された私たちが救われる道は、イエス・キリスト以外にはありません。イエス・キリストが私たちの代わりに神の怒りを受けて下さって、私たちが受けるべき死刑を受けて下さった。よみがえられたキリスト共に生かしてくださったのです。
「しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである」
イエス・キリストが今私たちと共にいて下さって、このキリストの恵みに私たちが生かされていることを信じるときに、心から私たちは、アーメンと感謝することができます。
「クリスチャンのくせに……」。家族や友人など周りの人たちから、こんな風に言われたことがある方も少なくないと思います。「クリスチャンのくせして、何ですぐに怒るんだ!」「クリスチャンのくせに何で優しくないんだ!」「何で生活がだらけているんだ!」…… 周囲の人たちが思い描いているクリスチャン像と、私たちがあまりにもかけ離れているために、そんな言われ方をしたりします。もちろんキリスト者、クリスチャンの中には、聖人君子のような人もいます。私たちのような、普通の人間ばかりではなくて、すばらしい証しをされた人たちを私たちはたくさん知っています。多くの優れたキリスト者がいて、世界中で大きな働きをしていますし、日本でも教育や福祉、芸術、医療などに大きな貢献を果たしていることは確かなことです。しかし私たちはふつうなのです。信仰を持ったことによって、今までとは全く違って良い行いばかりをしているわけではないのです。かえって、周囲の人たちに躓きを与えたりしているかもしれません。
しかし、そのようなごくふつうの私たちに御言葉は語ります。
「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」
「良い行いをするように造られた………良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さった」。私たちキリスト者は、良い行いをするように作られた神の作品だと語るのです。良い行いをすることができない私たちは、神の作品ではないのか?そんな思いが私たちを襲います。良い行いができない私たちは、神さまの失敗作なのではないかとさえ思ってしまいます。
あるいは、良い行いを重ねないと私たちは救われないのかと、心を暗くしてしまいます。つまり、ただ信じることだけで救われる、のではなく、良い行いを重ねなることによって救いを確かなものにすることができると聖書は語っていると読みとることができるからです。
しかし、御言葉は、良い行いをすることが、救いのための条件だとは決して言っていないのです。良い行いをすることも含めて、すべては神さまから与えられる恵みだと御言葉は語っているのです。それは、「神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった」と言っているのです。私たちには絶大な富が与えられています。
ところでこの、これ以上にないほどの大きな富、この私たちに与えられている絶大な富とは何でしょうか。それはイエス・キリストです。そしてイエス・キリストを信じる信仰が与えられているのです。
「行いによってではなく信仰のみによって救われる」と言うのが私たちの信仰です。すると、信仰がとっても大切なのだけれども、私たちは自分自身の信仰の不十分さを思い知り、どうにかして信仰を増し加えたいと思うのです。求道生活をしている方が共通に抱く思いだと言えるでしょう。どうしたら信じられるのかと、思い悩み、必死になって信じることができるようにと努力するのです。しかし信仰が救いのための条件だとしたならば、私たちは本当に救われるのでしょうか。私たちの信仰次第で救われるとしたならば、救われるに十分なふさわしい信仰を私たちの誰が持っていると胸を張ることができるのでしょうか。私たちが正直に自分の信仰の姿を告白する時の言葉、「小さな信仰」「弱い信仰」「薄い信仰」が、紛れもない私たちのあやふやな信仰なのです。しかし、御言葉は、信仰が増し加わるためには努力が必要だとは書いていません。
「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である」
「神の賜物」、私たちが救われたのは信仰によるのだけれども、その信仰さえも神さまから与えられている賜物だと聖書は語っています。恵みによって私たちは救われていると、パウロは繰り返し語ります。イエス・キリストによって与えられている恵みです。死んでいた者に命を与える恵み、それは主イエス・キリストによって与えられるのです。イエス・キリストによって与えられている恵みとは、私たち人間に対する時の態度です。私たちを本当に愛してくださって、それは、御子イエス・キリストが十字架にかかることをよしとしてくださったほどの愛です。
日本基督教団信仰告白では、「神は恵みによって我らを選び」と告白しています。神さまが私たちを選ぶ、つまり私たちを救うのは、神さまの御心です。神さまに対して何も差し出せない者を、小さく、弱く、薄い信仰さえも神さまから与えられなければ生み出すことがでない者を、神さまは選び出し救ってくださるのです。
恵みによって選ばれ救われたのですから、私たちが救われるのは、神さまの側に主導権があるのです。つまり、私たちが不信仰に陥ったとしても、私たちの信仰が揺らいで信じ切れなくなったとしても、私たちは決して見捨てられないということです。救われるために必要な信仰さえも、神さまから私たちに与えられるのですから、私たちが救われていることにおいて、これほど確かなことはないでしょう。
不信仰な者に信仰を与え救い出してくださった神の恵み、それは決して甘ったるい恵みではありません。御子イエス・キリストをこの世にお与えになるほどの、つまり十字架につけられるほどの厳しさを持った恵みです。滅びるしかなかった者を救い出すために大きな代償を支払われた神さまの愛が満ちあふれている恵みです。だからこそ、神さまの救いは確かなものなのです。
神さまの御心によって救われた者、選ばれた者、それが「神の作品」です。私たちは「死んでいた者」「生れながらの怒りの子」であったのに、キリストによって新しい命が与えられ生かされます。神の作品としての人生を歩み始めるのです。周りの人たちには、私たちが神の作品だとはっきりとは見えないかもしれません。しかし、神さまの目には選んだ者、救った者ははっきりと分かっていて、神の作品としての生活を恵みによって導いてくださいます。人間が作ったシールではなく、神さまが選んだ者に与える恵みのシールが私たちには貼られているからです。そうです。神さまの恵みによって救われた者、選ばれた者の生活は、感謝の生活です。神さまの恵みを証しする感謝の生活を送ること、これ以上の良い行いはないのです。
さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。
恵みの選び
−神は恵みをもて我らを選び−
エペソ人への手紙2章1〜10