クリスマスの夜にお生まれになったイエス様。
そのイエス様は、家族と共にエジプトにわたり、
その後イスラエルのナザレという町で過ごすことになりました。
父親のヨセフは船や家具をつくる大工で、
その仕事をみっちり仕込まれて成長したようでした。
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時期を見てはエルサレムの神殿に家族と共に行っていました。
聖書の中には、その時のエピソードのいくつかが記されています。
父親のヨセフが亡くなったのは、イエスがまだ比較的若い時期で、
いくつかの伝説によれば十五歳前後のことでした。
父親が亡くなったあと、母マリアや自分の弟や妹を支えるために
イエスは日常の労働に汗を流すことになったのです。
大きな転機は、イエスが三十歳の頃でした。
イエスは、家族の生計を弟や妹に委ね、公の生涯を歩み始めます。 |
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今のイスラエルの国を中心に
活動されたイエスの生涯は、
聖書の中の「福音書(ふくいんしょ)」
に記されています。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四人が、
それぞれの視点に立って記した
四つの福音書。
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それらの福音書の中にはよく知られる「サタンの誘惑」や
「十二弟子を集められる出来事」などから始まって、様々なイエスの名言を
集めた聖書の中の「山上の説教」は、
キリスト教以外の世界の人々にも読み継がれています。
「地の塩、世の光」「敵を愛せよ」「求めよされば与えられん」
「豚に真珠」「狭き門」などなど、ことわざとしても知られている
これらの言葉は、「山上の説教」という、わずか数ページの
聖書の中に記された言葉の数々なのです。福音書は確かに四人の個性によって描かれています。
けれどもその最後は共通しています。その最後はイエスの十字架です。
その十字架は、イエスがおおよそ三十三歳頃に処刑された、イエスの「死刑台」でした。
クリスマスの夜にお生まれになったイエスという人物が、
わずか三十三歳で、しかも公の生涯わずか三年で、死を迎えることになります。
しかも裁判で、十字架というこの世で最もむごいとされる
処刑の方法で死ぬことになるのです。
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ところがあのイエス様のお誕生から約二千年たった現在、
人々はイエスという人物の誕生を、クリスマスとして祝っています。
その生涯を知らなくても、その語られたお話を知らなくても、
クリスマスとして祝っているのです。
そして不思議なことに、キリスト教の教会は、
自分たちが「主」と呼んだり「神の子」と呼んだりするイエスという人物の
「死刑台」を、教会の塔に高く掲げて、そのシンボル「十字架」としたのでした。
そんなイエス様が、ある学者の問いに答えられた有名なたとえ話が、あります。
「良きサマリヤ人のたとえ」として知られるたとえ話です。
ルカによる福音書の十章二十五節から三十七節まで、
記されているお話しですが、今回はその全文を記してみましょう。
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『すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。
「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、
あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
しかし、彼は自分を正当化しようとして、
「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。
「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。
追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、
道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、
そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、
包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。
『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
律法の専門家は言った。
「その人を助けた人です。」
そこで、イエスは言われた。
「行って、あなたも同じようにしなさい。」 (ルカによる福音書一〇章二五節〜三七節)
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人生の中で、困難に出会っている人と
共に生きなければならないときがあります。
「隣人を自分のように愛しなさい」
と言われて、その通りだと思います。
この一人の学者もそのことを知っていました。
けれど、それはとても難しい生き方だ
と言うことも分かっていました。
だから聞いたのです。
「では、わたしの隣人とはだれですか」。
その時にイエス様が語られたたとえ話です。 |
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祭司とレビ人が登場します。
どちらも信仰深く、神様に仕えることが仕事でした。神様がなんと言っておられるか、
どんな生き方を願っておられるかを語り、実践することを人々に求めるのが仕事でした。
人々にそれを求めるのですから、当然それらの人々は、
人々に求めるように自分も生きなければなりません。
けれども、彼らは困っている人を見つけたときに、見て見ぬふりをしました。
かかわりにならないように、遠回りをして歩いていったのです。
もう一人サマリヤ人が登場します。
彼らは、神様のことを大事にもしていないし、その御心に従って生きていないと、
祭司達やレビ人が言って、少々さげすんでみていた人々でした。
けれども彼は、その困っている人を無視しませんでした。
イエス様は、祭司とレビ人、そしてサマリヤ人を対照的に語り学者に問うたのです。
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「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
学者は答えます。
「その人を助けた人です。」
イエス様が続けられました。
「行って、あなたも同じようにしなさい」。
わたしはこの物語が大好きです。

とイエス様がおっしゃったのだということを忘れないようにしています。
「行って、あなたも同じようにしなさい」。この言葉を繰り返すようにしています。
わたしたちは自己弁護が大好きです。
言葉ではかっこいいことを言いがちです。
けれど、本当に自分が困っている人や困難の中にある人の「隣人」になっているかどうか。自問していないと、自己弁護の中に生きてしまいます。
「良いお心を数える献金箱」
それは、「行って、あなたも同じようにしなさい」
とおっしゃったイエス様の心を、自分の中に発見する営みでもあったのです。
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