「正論」 平成11年4月号
昭和の美徳

ジャイアント馬場の不易流行

生涯現役のまま逝った、ジャイアント馬場。
そのたたずまいには、日本人の琴線に触れるものがあった。
ともにリングに上った筆者が、日本人・ジャイアント馬場を万感の思いで送る。


 恵比寿のジムでトレーニングをした帰り、あるいは白金台のレストランや広尾の喫茶店でお茶をした帰りには必ず「そこ」を通るようになった。「あの日」以来ー。
「そこ」とはジャイアント馬場さんの自宅マンション。「あの日」とは2月2日の密葬の日。なぜならば馬場さんの空気に触れたいからである。

 プロレスの関係者ばかりでなく日本人の誰もが声を失った馬場さんの訃報。私も参議院議員でありながら国会閉会中はリングに上がり続ける現役レスラー。こんな二足のわらじをはいていられるのも馬場さんとの出逢いがあったからこそ。私なりの思い出をつづると共に、馬場さんのプロレス観や人生論からうかがい知ることのできる失われつつある「昭和の美徳」「日本人の心」「世界に通用する闘う日本人」の姿を浮きぼりにしてみたい。

プロレスは調和の美

 私が馬場さんに初めて出逢ったのは昭和60年8月。当時星稜高校の国語科教員を辞した私は長州力率いるジャパンプロレスに入団。

 しかしトレーニングを積むリングはジャパンプロレスと提携していた全日本プロレスのリングであった。巡業先の新横浜駅となりの屋外駐車場特設リングでの試合前。長州さんに連れられてあいさつしたのが間近で見た馬場さんとの最初の出逢い。怖かった。

 オリンピック代表のアマチュアレスラーであった私を、まるで値踏みしているような視線で見つめ、一言「おぅ」と言って下さった。

 ものになるのかな? という顔つきだったが、翌日の地方巡業からは付きっきりで受け身と基礎練習のコーチをして下さるようになった。時には試合中に会場の隅っこに呼ばれ、リング上の闘いをチェックしながら「プロレスとは何たるものか」とのレクチャーをして下さるようになった。

 それまでテレビの画面の中の馬場さんを通じてしかプロレスを実感できなかった私は、馬場教授によるプロレス学講座の一受講生となる。その教えは、実は私の後の人生哲学や政治信条にまでつながっている。あるいは忘れかけた良き日本人の精神論まで内包していると思っている。ぜひ書き残しておくことによって、馬場さんによって確立されたプロレスという大衆文化の価値を多くの人に知ってもらいたい。と同時に平成の時代に継承していかなければならない「昭和の美徳」を忘れないでいてほしい。

 馬場さんはプロレスを「調和の美」と説明した。巷間ライバルとされたアントニオ猪木が「燃える闘魂」と形容され、新日本プロレスにおいて次々と新しい企画(異種格闘技戦、日本人同士の抗争・下克上)を打ち出していったのとは対照的。一体何をもって調和と主張したのか?

対戦相手との調和

 まず、対戦相手との調和。
「対戦相手の長所を最大限引き出せ。相手に敬意を払え。自分だけ攻撃したり、相手の技を受けなかったりの一人よがりは、結局自分の能力の可能性まで封じ込んでしまうことになる。そのためには、どんな体勢からでも完全に受け身を取れなければならない。高い所から、低い位置から。横からも斜めからも縦からも。パンチでもエルボーでもキックでも。スープレックスでも。ある時はイスや金具などの凶器攻撃からさえも。前受け身も一回転しての受け身も、横受け身も。大きい受け身も速い受け身も。あらゆる受け身に瞬時に対応できるためにも、自分が立っているリング内外のポジションを確認して、自分が受け身をとるスペースを考えて先を読んで動かなければならない。例えば真後ろにロープがあったらヒジや首が引っかかって大ケガするだろう。そんなことのないように、常にリングの広さを計算して、自分の後ろにスペースを作っておくんだ。そしてきれいで切れのある何よりも自分がケガをしない受け身をとることによって、試合の流れを作っていくんだ。プロレスとはまず受け身から」

 それが対戦相手との調和、ということだ。

 この教えだけからも、いくつもの教訓を感じ取れるだろう。他者との人間関係における気配りの真骨頂とも言える。まず自分が自己主張することを嫌い、他者を押しのけてでも自分が目立てばそれで良い、やった者勝ち、そういうやり逃げを許さないという包容力が馬場さんの教えの中心だった。そしてこれは根気の要る作業でもあった。全日本プロレスの新弟子は入門して丸3年は毎日のように受け身だけの反復練習をしなければならない。派手なドロップキックやブレーンバスターなどの動きが大きくてバーンと音の出る「やり逃げ」の攻め技の練習はさせてもらえない。ひたすら受けるのみ。ある時は実験台。ある時は息が上がって動けなくなるまでの連続受け身。

 私はよくプロレスを理解できないアマレス仲間から、
「馳はあんなにアマレスで強くて防御も上手だったのに、どうしてプロレスでポンポン投げられるんだ」

 となかば非難の口調で攻められる。しかしそんな時はこの馬場さんの教えを説明すると納得してもらえる。
「あらゆる攻撃を受けても最少限のダメージに食い止めて、反撃の機会をうかがっているんだよ。体力と技術の可能性は、攻めと守りの調和の中にこそ最大限に発揮されるんだ」と。

 だから、ロープに飛ばされても全力で跳ね返って来て惜し気もなく自分の肉体を相手にささげることがためらいなく出来るのである。

 これが不細工だと、闘いは一変してまるで組み体操か学芸会のダンスになってしまう。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、の古語に言われるとおり、受け身という技術に万全の自信があるからこそリング上の闘いが増幅されるのである。馬場さんは、メインの試合から一歩引いて前座の試合に登場するようになっても必ず全試合を会場後方の一隅で目を光らせてチェックしていた。私が11年ぶりに全日本プロレスのリングに登場した時も、その「受け身」についてのアドバイスは全く変わることはなく、むしろ新日本プロレスのトップレスラーであったという思い上がりに満ちた私の心の隙間に鉄槌を下してくれた。

「馳よ。相手がいておまえも輝くことができる。対戦相手に配慮もできないようじゃ人間として未熟だ。一体何を学んできたんだ」
と試合後に叱られたものである。

観客との調和

 そして二番目が観客との調和。
「リング上の闘いとは、予想を裏切り、期待を裏切らないこと。これがプロレスファンの皆さんとの信頼関係。まず入場して鍛えあげた肉体を見せただけで会場のどよめきを起こす。ゴングが鳴って動き始めた瞬間、『どうしてあんなに大きなからだがあんなに俊敏に動けるのか』とのため息をつかせる。そして激しいぶつかりあい。とび散る汗。ダイナミックな空中殺法。理詰めの攻防。他人には真似のできない得意技の披露。体力の限界を超越するスタミナ。そこにこそ真実のドラマが生まれてくる。作りもののプロレスはしょせんファンの支持を得られず、見向きもされることなく、興行も長続きしない。今、ファンは何を求めているのかをリング上で表現できなければならない。時代を読み、ファンの心理を読むためには日頃からのリサーチも欠かせない。リング上の闘いに必要な情報をレスラー全員が把握しておくこと。そして自分に対する予想を裏切るような高いレベルの試合を展開すれば、ファンの期待を裏切ることなく、さらに高めていくことができる。プロレスラーはファンと会話できなければならない。それもことばではなくて肉体で表現しなければならない。試合は嘘をつかない。怠けたり意欲や気力が無い試合はすぐにお客さんに伝わる。観客との調和とはそういうことだ」

 だから馬場さんは、試合会場においてグッズ売り場に自分の身を置き、ファンの声に常に耳を傾けて、試合中の反応を気にしていたのである。そしてそれを所属選手に常に伝えていたのである。

 年間150試合を超えるプロレス。どうしても試合内容や企画や闘争心にマンネリが生じる。それが定着すれば興行成績は確実に落ち込む。そうさせないためには会場に足を運ぶファンの心の琴線に触れる「何か」を残さなければならない。その何かを表現できるレスラーこそがプロであり、その何かが感性である。

 一度わかりやすい言葉を聞いたことがある。
「モノになるレスラーはデビュー戦から何かをつかんでいるよ。そうでないレスラーは10年経っても20年経っても前座のままだ。いくらチャンスをやっても、それがチャンスであることすら気付かずに見逃してしまう。それは観客の心理をつかむ努力をしていないか、気がつかないかのどちらかだ。ただ図体がでかくて筋肉隆々としていても、それだけではプロレスラーとは言えない。要はココだよ、ココ!」

 そう言って大きな人差し指で頭をちょいと突つかれたものである。

チケットに刷られた感謝状

 全日本プロレスラーの経営のモットーは、「ファンがスポンサーです」の一言。その具体的な意味は家族主義。仲間意識。一体感。

 今、私の手もとに、馬場さんが亡くなられてから最初の興行である2月13日ファン感謝デーのチケットがある。後楽園ホール周辺のダフ屋によると1枚5万円という通常料金の10倍の高値がついたチケット。

 その表刷りにこうある。

    感謝状

 全日本プロレスは、おかげさまで、旗揚げ26年目に突入いたしました。

これもひとえに、ファンの皆様の絶大なるご支援の賜物と、選手、社員一同、心より感謝申し上げます。

 今年度のファン感謝デーを開催するにあたり、わたくしどもは、モットーである『明るく!楽しく!激しく!』を更に追求し、ファンの皆様の期待にお応えする所存でおります。

 今後ともご声援のほど、よろしくお願い申し上げます。

 1999年2月13日

全日本プロレス社長    ジャイアント馬場

 おそらく前代未聞であろう。チケット一枚一枚に「感謝状」と刷り込まれているのである。奇をてらわない馬場さんらしい心配りである。

 そして裏面を見ると「スタンプラリー開催中」「遠路はるばるキャンペーン」「ウィアー・オールジャパン・キッズ」とファン向けのサービス企画案内が。つまり一人一人の会場に足を運んでくれたファンとの心のつながりこそが興行の基本であるという姿勢。

 私は新日本プロレスにも在籍していたので移籍当初は戸惑ったことがいくつもある。

 まず、選手が友人知人を試合に呼ぼうとする時。新日本では営業に頼み込むと少しは招待券を融通してもらえた。それでレスラーの顔も立つならば、あるいは特定の企業スポンサーにより大量にチケットを購入していただけるならば、との会社側の読みがあったのである。

 ところが、全日本ではビタ一枚招待券は出さない。所属選手であろうとも自腹を切ってチケットを購入し、配ることになる。あたりまえと言えばあたりまえ。社長さんであろうと有力者であろうと誰であろうとお金を出してチケットを買って下さるファンは全員平等。むしろ、思い入れを持って積極的に会場に足を運び、お気に入りのレスラーに声援を飛ばそうとやってくるファンにこそ優先的に良い席で観ていただこうという姿勢。

 それから、リングを離れてのファンへの対応。新日本でも一応会社側からレスラーに対しては「できる限りサインや握手、写真撮影には応じるように」との指示は出ている。しかし鼻柱の強くプライドの高い勘違いレスラーは、駆け寄るファンを無視したり怒鳴り散らしたりすることが少なくない。私もその勘違いレスラーの一人であった。

 ところが全日本プロレス所属選手は一社会人としてみごとに全員がファンに丁寧に対応している。試合前の記念撮影会など人気レスラーの時には500人近くのファンが並ぶが、1時間以上かかろうとも必ず全員と撮影し、握手をする。それが日常化されているのである。この社会人教育は大きな財産である。

 あるいは「キングスロード」というファンクラブに加入している人には、近くで興行があれば必ず馬場さんの名前でチケット案内の葉書きが届く。もちろん暑中見舞いや新年などの時候のあいさつ葉書きも欠かさず届く。

 私の自宅にまで、全社員、全レスラーから時候のあいさつの葉書き(自筆)が届くのであるから、あまりの一致団結家族主義の徹底にびっくりしたものである。これだからこそ、長年にわたってファンが支援し続けてきてくれたのである。このマメさこそが誠実である。

国民に勇気を運ぶ

 さて、プロレスは競技の特殊性もあり、その時代や世相を映す鏡とも呼ばれている。

 確かに馬場さんが日本のプロレスシーンに登場し、頭角を現してブームを巻き起こす時期を振り返ってみると、時代との調和を感じざるをえない。この点については馬場さんにとっても無意識のうちに織りなされた調和であると言えよう。

 馬場さんが1年8ヶ月にわたるアメリカ初修業から凱旋帰国した1963年(昭和38年)は、まさしく現代日本の上昇気流に乗りはじめた季節。1960年に池田内閣が所得倍増計画を発表し、経済大国への足掛かりを不動のものにした頃である。敗戦のショックから立ち直ったのは力道山のおかげであり、いよいよ日本人も国際的に競争できる能力を持っていると自信を深めた時期のシンボルがジャイアント馬場だった。日本人離れした体格と、スケールの大きな得意技の数々。力道山直伝の空手チョップを脳天唐竹割りにグレードアップさせ、16文キックで強豪外人を吹っ飛ばし、32文ドロップキック(ロケット砲)で止どめを差す。絶好調の時に見せるココナッツクラッシュ(やしの実割り)がでると、あおむけに転がるボボ・ブラジルやジン・キニスキーの姿に我々は狂気乱舞した。そこには日本人の持つ潜在能力の大きさを投影して見てとることができたし、何よりも規格外の大きさに優越感を覚えることができた。

 時あたかも東京オリンピックの前後。
 まさしくスポーツが国民に勇気を運んでくれた頃である。戦争では敗れたが、日本人は決して欧米の列強に後塵を拝する弱者ではない、むしろ努力すれば報われるだけの能力を秘めているんだということを知らしめてくれたのがプロレスというジャンルでありジャイアント馬場であった。

ディフェンスの妙

 もうひとつのプロレスラーとしての馬場さんの功績は、常にディフェンスの妙を見せつけてくれたことである。人間発電所と呼ばれたブルーノ・サンマルチノに対しては唐竹割りチョップを有効に使ってベアハッグ(サバ折り)の難を逃れた。アイアン・クローが武器のフリッツ・フォン・エリックに対しては、徹底してその武器である右手のてのひらの握力を失わせる作戦を披露した。右腕を鉄柱に打ちつけたり、足で踏みつけたり、あるいは両腕で手首をつかんでギリギリのところでさえぎってみせた。また、ボボ・ブラジルや大木金太郎の頭突き攻撃に対しては耳そぎチョップ。魔王、ザ・デストロイヤーの足四の字固メに対しては、長い足を利用して巧くディフェンスしてみせた。やられるか、やられないかの一つの技をめぐるハラハラするオフェンスとディフェンスのやり取りは、馬場さんの頭脳プレーのたまものであった。ここに、自分自身を演出、プロデュースすることのできる馬場さんの頭の良さを誰もが認めたに違いない。

 プロレスはここにおいて大衆文化としての地位を確立したのである。

存在そのものが自己主張

 全盛期の馬場さんのファンはお年寄りから子ども達にまで及んだが、何よりも20代から40代の男性ファンに圧倒的に支持された。

 それは何故だかおわかりになるだろうか。企業や家族のために身を粉にして働くお父さん達の心のオアシスだったのである。

 誰もがあこがれる経営者のたくましい姿が馬場さんにあったのである。

 そこにいるだけで安心できる大黒柱のような存在感。

 欧米の企業と競争しても見劣りしない潜在能力。

 相手の強力なパワーを吸収して逆に自らのエネルギーに換えてしまう技術の確かさ。

 ひとたび闘いのリングに臨むと流血してもなぐり倒されてもギブアップしないがんじょうさ。タフな精神力。

 そしてリングを下りれば他者より一歩も二歩も引いて目立とうとしない謙譲の美徳。

 存在そのものが自己主張であって、あえてそれを売り物として発言することはしない姿勢は、潔い。

 ましてやスキャンダルを嫌う温厚な人柄。

 これらのリング内外で見せるギャップこそが、戦う日本人の心の琴線をゆさぶったのであり、プロレスこそ高度経済成長の日本人が頼りとした大衆文化の筆頭だったのである。

 プロスポーツの場合、時代と調和することがいかに難しいか、そしていかに重要であるか、という代表例がプロレス社会であり、ジャイアント馬場そのものなのである。

調和の体現者

 プロレスとは調和の美である。

 対戦相手との調和。

 観客との調和。

 時代との調和。

 それを体現したのがジャイアント馬場。

 そういう観点で捉えてくると、この平成の時代に残した馬場さんの偉大な功績は、今後語り継がれ、受け継がれていかなければならない「昭和の美徳」と言っても過言ではない。それはプロレス界内部にとどまる問題ではなく、広く日本人の心の中に刻み込まなければならない行動様式とも言えるのではないだろうか。

 他者と争い、傷つけ合うことがあろうともその根底に流れるのはお互いに対する畏敬の念。

 自分自身を客観視し、俯瞰することによって他者との良好な関係を構築していくこと。

 自分にとって一番大切なもの、愛する者は家族との一体感であり、愛する人を守るためには自らの身を犠牲に差し出すこともいとわない意志の強さ。

 常に時代の動きを読むクレバーさ。そして海外との人間交流の中で、日本人の国際社会への適応を促し、日本人の実力を堂々と発揮する必要性の主張。

 馬場さんは日本人に自信を与えてくれた。

 馬場さんは日本人の心に「家族愛」を思い起こさせてくれた。

 馬場さんは正直であれ、と教えてくれた。

 馬場さんは嘘をついて自分だけが利益をあげたり、他者の足を引っ張るなと教えてくれた。

 馬場さんは、愛する人を守れますか? と問い掛けてくれた。

 馬場さんは約束を守れと教えてくれた。

 馬場さんは対戦相手を尊敬し、受け入れろと教えてくれた。

 馬場さんは、ぶつかる時は正面からぶつかれと教えてくれた。

 馬場さんは、プロレスとはファンに見られる仕事だと教えてくれた。

 馬場さんは、プロレスとはファンに訴える仕事だと教えてくれた。

 馬場さんは、プロレスとは時代の流行の最先端を行く大衆文化であると教えてくれた。

 馬場さんは、プロレスはいつの世にも変わらぬ人間の闘争心に火を灯(つ)ける仕事だと教えてくれた。

 この平成の時代にはたしてどれだけのレスラーが馬場さんの教えを理解できるだろうか。

 はたしてどれだけの日本人がジャイアント馬場の「不易流行」を理解できるだろうか。「昭和の美徳」を絶やしてはならない。


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