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遂にゆく |
在原業平 ありわらのなりひら |
いじめとは、表面に見えないところで深く潜行している。はたから見ればただのイタズラとしか思えない時もあるようだ。
新潟県上越市の中学一年生、伊藤準(ひさし)君の自殺の引き金となったいじめも、先生たちには読み切れないいじめだったようである。
水を掛けた、服を脱がせた、体操着を墨で汚した、無視した−。これらの報告は目撃した生徒を通じて先生の耳に入っていたにもかかわらず、何ら有効な手だては講じられず最悪の事態を迎えてしまったわけだ。
「オレたち死ぬほどのことはやってないよな」と、いじめた側の少年たちは参列した葬儀の最中に洩(も)らしていたという。
この無神経さ、常識のなさ、品性の欠落。
誰(だれ)が悪いのだろうか。
こんな世間にしてしまった私たちが悪いのである。いつ、どこで、同じような事件が起きるかわからない危険な時代になっているのだということを認識し、私たち全員が命の尊さと他人への配慮を肝に銘ずるべきなのである。この歌は、辞世の歌である。 「死とは人生最後の旅路であると知っていたが、それが昨日や今日旅立つべき道とは思わなかった」
死を決意してから実行するまでの間、準君は何を考えていたのだろうか。自殺という道を選ばざるを得なくなった準君も、死の旅に向かう瞬間にこういう気持ちになったのではないだろうか。
教室で、職員室で、家庭で、職場で、「いじめ」の問題を私たちが提起し続けねばならない。準君に合掌。