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1999年2月24日北陸中日新聞(紙つぶて)



父の遺言中坊 公平




 「公平、お父チャンはなあ、お 前をこんな事でくよくよしておれ に相談に来るような情けない子に 育てた覚えはないぞ。そもそも赤 ちゃんに対する犯罪に右も左もあ ると思うのか。そのうえ、考えて みい。お前は小さい時からできの 悪い子供だった。ほんまに人のお 役に立ったことがあったのか。お 前のような者でも頼まれて人の役 に立てるというときに、ためらう ような奴があるか。弁護団に参加 するのは当たり前や」
 その時七十八歳の父はあまりに も激しかった。一言の反論もでき ず父の前を退去した私は、突き飛 ばされるような形で早速、森永ミ ルク中毒被害者弁護団に参加した のであった。
 当時私は四十四歳、弁護士にな って十六年を経過し、若干 の顧問会社もでき、弁護士 会の副会長も経験し、それ なりに安定した弁護士生活を送っ ていた。
 その私にとって、大企業である 森永や国を柏手に裁判を起こした り、「アカ」攻撃の槍玉(やりだ ま)にあげられていた青年法律家 協会の弁護士たちで構成する弁護 団の先頭に立って仕事をすること は、今までのすべてを失う危険が あった。それだけに、保守的な父 に相談すれば、「人におだてられ て馬鹿(ばか)な真似(まね)は するな」と言ってくれるものと思 って話した結果が、冒頭の父の 言葉だった。弁護士になる前、小 学校の教師をしていた父をして、 被害者が「赤ちゃん」、「子供」 であるということがあれほど激し い言葉を吐かせたのかもしれない。
 しかし、父はその翌年七十九歳 でこの世を去っている。父が息子 に言い残した最後の言葉、それが あの言葉である。
 私はこの森永事件に関与して以 降、いわゆる「人権派弁護 士」と言われるようになっ た。この「転向」のきっか けが、あの父の一言であった。
 「父の遺言」として終生大事にし ていきたいと思っている。
 (住宅金融債権管理機構社長、 弁護士)
 

 



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