幸せはどこから
ルカによる福音書6章17〜26
 そして、イエスは彼らと一緒に山を下って平地に立たれたが、大ぜいの弟子たちや、ユダヤ全土、エルサレム、ツロとシドンの海岸地方などからの大群衆が、教を聞こうとし、また病気をなおしてもらおうとして、そこにきていた。そして汚れた霊に悩まされている者たちも、いやされた。また群衆はイエスにさわろうと努めた。それは力がイエスの内から出て、みんなの者を次々にいやしたからである。そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、
 「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。
 神の国はあなたがたのものである。
 あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。
 飽き足りるようになるからである。
 あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。
 笑うようになるからである。
 人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、
 ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。
 その日には喜びおどれ。
 見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。
 彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである。
 しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。
 慰めを受けてしまっているからである。
 あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。
 飢えるようになるからである。
 あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。
 悲しみ泣くようになるからである。
 人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。
 彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。
 人生の結末を先に知っていたならばどうでしょうか。家族に見守られながら安らかに死ぬことが出来たならば、そうして死んだ後も家族が折に触れて自分のことを思い出し懐かしんでくれたならば、そのような自分の人生の結末を前もって見ることが出来たならば、どうでしょうか。私たちはその最期に安心するかもしれません。それとは逆に、自分の人生の結末が悲惨な最期だったならば、どうでしょう。自分が先に死んだことによって家族が苦労することになることを知ったならば、さぞかし心残りでしょう。自分が死んだあと、周りの人たちから思い出されることもなく、忘れられてしまったならば、どんなに寂しいことでしょう。あるいは、自分が死んだことが喜ばれていることだと知ったならば、こんなに悲しいことはありません。きっと前もって、自分の人生の結末を知ることが出来るならば、私たちは人生をやり直そうと思うかもしれません。
 たとえば、クリスマスキャロルの主人公スクルージがそんな人間でした。ディケンズの名作「クリスマスキャロル」を読んだり映画を見たりした方は少なくないと思います。
 主人公のスクルージは、金貸しをしていて欲張りでケチな上に、冷たい男でした。そんなスクルージでも愛してくれている甥や、スクルージのもとで一生懸命に働く使用人がいたのです。しかしスクルージは甥や使用人に対しても、やさしい言葉一つかけることはなく、いつも不機嫌な男でした。ある晩、スクルージが眠りについていると昔の相棒だったマーレイの亡霊が出てきます。亡霊マーレイは、スクルージを連れ出して、スクルージの昔と現在、そして将来の姿を次々に見せつけるのです。特に、その将来の姿は哀れでした。スクルージは、みんなに嫌われたまま、そして死んだことを喜ばれてしまっている自分の惨めな最期を見てしまうのです。自分のその哀れで惨めな姿に打ちのめされてしまうのです。しかし、スクルージが目覚めたときに、そんな惨めな自分にも命が与えられていることを知って、喜びに生きる人生を始めるという物語です。

主イエス・キリストは結末から祝福を語ります。誰もが見通すことが出来ない私たちの人生の終わりを、ただ一人見通すことが出来るお方が語るのです。
 「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。
   神の国はあなたがたのものである。
   あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。
   飽き足りるようになるからである。
   あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。
   笑うようになるからである。
   人々があなたがたを憎むとき、
   また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、
   あなたがたはさいわいだ」
 聖書が書かれたもとの言葉の語順に近い文語訳聖書で読ますので聞いてください。
  「幸福なるかな、貧しき者よ、神の国は汝らのものなり。
   幸福なるかな、いま飢える者よ、汝ら飽くことを得ん。
   幸福なるかな、いま泣く者よ、汝ら笑うことを得ん。
   人汝らを憎み、人の子のために遠ざけ謗り汝らの名を悪しとして棄てなば、
   汝ら幸福なり」
まず祝福の言葉が語られ、イエスさまが語られたからにはそのように実現するというイエスさまの言葉の強い力が表されているのです。だから、「貧しい人は幸せだなあ」という感想文ではないのです。

 ガリラヤで神の子としての活動を始められたイエスさまの噂は瞬く間に広がりました。特にイエスさまの癒しの奇跡は噂が噂を呼んで、人々の期待はさらに高まっていきました。群衆には具体的な悩みがあります。彼らは具体的な解決をほしがっています。群衆は「病気をなおしてもらおうとして、そこにきていた」。さらに「また群衆はイエスにさわろうと努めた。それは力がイエスの内から出て、みんなの者を次々にいやしたからである」とあるように、イエスさまに具体的な癒しと救いを求めていたのです。
 しかしイエスさまのここでの説教は、一見するとそのような人々の期待を裏切っているようにも見えます。「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである」という言葉一つをとってみても、貧しさの解決には何一つ触れていません。「あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである」言葉にしても、「あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである」という言葉も、楽観的な言葉、気休めの言葉のように聞こえます。
 しかしイエスさまは、人々の悲しみや苦しみをしっかりと受け止めておられます。人が悲しみや苦しみの深い淵にあるとき、多くの慰めは届きません。絶望的な思いの中にあるのですから、自分自身では立ち上がることも克服することもできません。それが出来るのは、その悲しみや苦しみを受け止める深い愛をもったお方しかいないのです。
 今日の御言葉は、「平地の説教」と呼ばれています。それはイエスさまがどこに立ってこの御言葉を語っておられるかを示しています。イエスさまは山の上で12人の使徒をお選びになった後、そこに留まってお話をされたのではありません。祈って夜を明かし、大きな選びの決断をされたその山を降りて、平地に来られたのです。
 もしイエスさまが山の上に留まり続けていたら、そこには自力でその山を登って来られる人しか集まれなかったでしょう。ユダヤ全土とエルサレムから、またツロやシドンの海岸地方からはるばるやってきた、大勢の弟子たちやおびただしい群衆の中には、病気の人や汚れた霊に悩まされていた人たちがたくさんいたのです。イエスさまが山の上に留まり続けていたなら、たくましい足と急な坂も歩き通せる体力を持った人しかイエスさまのそばに集まれなかったはずです。せっかく集まった多くの人々は、イエスさまにお会いできないまま、この山のふもとで、倒れ伏してしまったかもしれないのです。イエスさまが使徒たちと一緒に山を降りて、イエスさまに会いに来た人々のもとへ来てくださったことに、大きな恵みがあるのです。イエスさまが平地に降りて来てくださったからこそ、多くの人々が集まって、イエスさまのまじかで御言葉を聞き、いやしを受けることができたのです。イエスさまが人々の生活から遠く離れて、あるいは高いところから語られるのではありません。人々が暮らす現実の中に、私たちがが暮らす同じ平地に立って、語ってくださるのです。
 「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。
   神の国はあなたがたのものである。
   あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。
   飽き足りるようになるからである。
   あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。
   笑うようになるからである
   人々があなたがたを憎むとき、
   また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、
   あなたがたはさいわいだ」
 貧しい人とはいったいどんな人を言うのでしょうか。飢えている人とはいったいどのような人を言うのでしょうか。泣いている人とはいったいどのように泣いている人を言うのでしょうか。
 「貧しい人たち」と語った貧しさは、聖書が書かれたもとの言葉では、徹底的な貧しさ、貧しさの中に何も豊かなものを見つけ出すことが出来ない貧しさです。それこそ乞食のような貧しさです。空っぽの手を差し出すしかない貧しさです。手の中が空っぽだから、良いことをすることなど何も出来ない貧しさです。神さまの前に立つときに、自分に何ももっていないのですから、自分自身をささげることしかできないのです。
「飢えている人」も同じです。食べるものが何もないのです。食べ物がほしくてしょうがないのです。神さまの前に立つときに自分自身が本当に飢えていることを知る人が飢えている人です。そうして、神さまの前で飢えと渇きが満たされることを求める人です。
 「泣いている人」は、神さまの前で泣ける人です。迷子になった子供が親を捜しながら顔を引きつらせている姿を見ることがあります。しかし親に捜し当てられたときに、子供は親の胸の中で心の底から泣くことが出来るのです。
 一方で、「富んでいる」とき、「満腹している」とき、「笑っている」とき、「人が皆あなたがたをほめる」とき、私たちは神さまの前に立つことを忘れてしまいがちになるのです。もちろんイエスさまは私たちに、富むな、笑うななどといっているのではありません。しかし、自分の力や自分の持っているものに頼り続けることの危うさを警告するのです。今神さまの恵みを必要としないというとき、将来の結末においてこれほど災いなこと、不幸なことはありません。

 しかし間違えてはいけません。イエスさまは、貧しいままで我慢しろ、飢えている状態で辛抱しろ、泣いていてもいつかはきっと笑うことが出来るとおっしゃっているのではありません。よいことをたくさんすれば、神の国へ招かれ救われる、とイエスさまは言っているのでもありません。
 まず「さいわいである」という祝福が与えられているのです。その祝福を受けいれた者は、つまり、主イエス・キリストを受けいれた者には終わりの日に、大いなる恵みが与えられるのです。そしてまた、神の国の恵みは、今先取りとして与えられているのです。決して今我慢していればいいというのではありません。だから、「さいわいである」なのです。

 クリスマスキャロルのスクルージは、自分が生かされていることを知ったときに喜び踊りました。神さまの前で幸いが与えられている、本当の幸福が約束されている、そのことを知ったならば喜び踊ることが出来るのです。神さまの前に空手を差し出すことしかできない私たちは、神さまにより頼むことしかできない私たちは、幸いな者だ、とイエスさまはおっしゃってくださるのです。だから、神さまの御前に立つときに、私たちは喜び踊ることが出来るのです。