「主はこのとき、バラムの目を開かれた。彼は、主の御使いが抜き身の剣を手にして、道に立ちふさがっているのを見た。彼は身をかがめてひれ伏した」(民数記第22章31節)。


 わたしたちの人生は選択の連続だと思います。そして、特にクリスチャンというキリスト教会の教会員にとっては、その選択はいつも、神の喜びのためにということを基準にし、また神が自分に与えてくださったものだと信じて祈りながら、行われると思います。もし二つの選択肢があるのなら、どちらを選んだらよいだろうか。どちらかしかないのか、どちらでもよいのか。普通、その時点で選択出来るのは一つでしょう。どちらかを選び取り、どちらかを退けます。そこで間違えても仕方がない、やり直しは効く。そうかもしれません。けれども、選択の際の、謙遜でありながらも、積極的な姿勢は貫きたいと思います。そう、神の計画に自分の人生も加えていただく、用いていただく、役立てていただくことを願っての選択であれば、少なくとも、それが消極的なものであったり、否定的なものであったりするはずがないでしょう。教会でしばしば言われる、神のみこころを信じるということは、消極的なことではなくて、諦めなどではなくて、とても積極的な姿勢だと思います。

 イエス・キリストによる救いを信じた人々は教会の一員となり、今神の民であるその教会は、神から祝福されています。だから、その教会、また教会員であるクリスチャンが人生において選択をする時、もう自分にも与えられている祝福を信じて、選択をします。それが、神の喜びのために、ということと同義でしょう。だから、その祝福を自ら台無しにしてしまうような選択は、出来ないのです。それこそ、間違った選択です。それは許されない。ただ自分の意のままに選択することなどは徹底して退けなければならないと思います。人間は皆罪深く、間違っている。間違えてしまいます。自己中心的な思いで、他の人、隣人を呪おうとし、裏切り、罪に誘ってしまったりさえします。そんなわたしたち罪人の行く先には、ただ滅びがあるのみです。けれども、そうしてわたしたちが罪によって滅びることがないように、キリストがわたしたちの救い主として来てくださいました。彼は、わたしたちが間違った道を行くその罪を赦し、それだけでなくて、正しい道をきちんと教え、そして、その道をずっと歩く、歩き抜くための力もくださいました。わたしたちの一生は、間違った道と正しい道の選択に遭遇し続けるものかもしれない。だからその時に、すぐに、キリストを想い起こしたい。なぜ正しい道だと言えるのか、なぜその正しい道を行かなければならないのか、正しい道を行くことが出来るのか。キリストをよく知るところで、そのことがよく分かってくるのです。
 神の祝福を重んじ、それを信じて選択する時にも、不安や恐れが伴うかもしれない。その時には、聖書にきちんと描かれているように、神の祝福はどんなことよりも強く、真実であることを想い起こしたらよいでしょう。自分自身の救いは最も確実だ、ということです。それは、どんな人間の力とも、考えとも、比べものにならないのです。
                                       In Christ



「しかし、イエスは言われた。『ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。』そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された」(ルカによる福音書第4章43、44節)。


 イエス・キリストは決して自己満足なさらなかった。消極的ではありませんでした。当時、ユダヤの国のガリラヤ地方、カファルナウムと呼ばれた街の辺りでの伝道、宣教の成功がありました。人々は、幾ら自分たちの都合で、また奇跡によって、ということはあっても、キリストに縋り付くようにして、彼を掛け替えのない存在として、認識したのです。しかしその時に、上記のように、キリストはその人々、その場を離れた。彼は自己満足なさらなかった、キリストは、すべての人を救う救い主だからです。そしてそれは、キリスト自身の望みと言うよりも、むしろ、聖書の神の、キリストの父なる神のお望みでした。「遣わされた」、派遣された、というのだから、神から使命を与えられてわたしたちの世に送られてきた、ということです。キリストはわたしたちを救うためにこの世に来られた。それ以外の使命は彼にはありませんでした。そしてその使命には限定がない。つまり、すべての人の救いはこのキリストだけにある、ということです。
 ところで、確かに聖書には、キリストの奇跡についてはっきりと記されています。しかしそんな奇跡が、今もキリスト教会の礼拝で証しされているからと言って、当時のように起こるわけではないでしょう。すぐにわたしたちの病や悩み、痛み、苦しみの癒しが起こるわけではないでしょう。けれども、その病や悩みに、その痛みや苦しみに伴って救いの内に置いていてくれる救い主がイエス・キリストです。この神の子の働きは第一にその十字架の死と復活です。わたしたちの罪からの救いです。わたしたちにとっては、神に背いて生きているか神に信頼して生きているか、ということが問題です。だからむしろ、どのようなことの癒しも救いも、その十字架という神の決定的な救いの下に信じられるべきことだし、あの十字架による救いから導き出されることでしょう。十字架のキリストを信じるところでは、病があっても、悩みがあっても、痛みや苦しみを抱えていても、救われている。その救いを信頼するところで、病と、悩みと、痛みにも苦しみにも、積極的に向かい合っていく術が示されます。神に信頼して病や悩みと共に生きているなら、それが生活の中のどんなものでも、希望のある、明るいものだと思います。それが救われて生きることです。病や悩みのある、苦しむこころと体によっても神を礼拝することが出来る、ということです。
 キリストはそのように、あのカファルナウムの人々を愛し、救われました。けれども一夜明けると、その人々を避けられ、一人になられて、だから一筋に、父なる神に祈られました。なぜか。それは、密室の祈り、とも思えるような仕方で、父なる神のお望みを受け取り直されるためでした。そして、上記のように、今来ているご自分によってすべての人が神の前に跪いて礼拝し、その救いに生かされなければならない、と仰ったのです。それも、癒しの奇跡ではなく、あの十字架による罪からの救いという、わたしたちの決定的な救いによって。すべての人にこのキリストを。それが神のお喜びであるのです。この10月最初の日曜日は、世界宣教の日とも呼ばれます。   
In Christ



「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった」(ルカによる福音書第8章1節)。


 新約聖書ルカによる福音書第8章1−3節には、「神の国」を知らせる一行の様子が描かれています。第一に、イエス・キリストについては、彼は町々村々を訪ね歩いてくださったが、それは、「神の国」を教え、伝道するためだった、と言われています。そう、キリストは、どこに行くにも、そのために行かれたのです。神の子ご自身が、現にこの地上で、行かれる限りあちらこちらに足を伸ばしてくださった。
 それで、そのキリストに同行した、同行させていただいた人々についても、描かれています。彼らは、後のキリスト教会の最初の人々でもありました。いや、そこにもう後の教会が描かれてあった。一方で、それはキリストの十二弟子でした。
 この十二弟子は、ルカによる福音書では既に、キリストから使徒と呼ばれていました
(6・13)。彼らは常にキリストの側、お傍にいる者たちとされました。そして、使徒というのは、キリストの証人である人々です。ルカによる福音書を書いた人が後に第二巻目として書いた新約聖書使徒言行録という書物があります。その中でもその役割について説明されています(使徒1・21、22)。バプテスマを受けられた時から天の神の許にお帰りになる時までいつもあのキリストご一行として生きることの出来た者たち、と言う。それで、上の物語でもそんな毎日の生活の一旦を窺い知ることが出来るわけでしょう。しかも、キリストの証人とは、何より、キリストの復活の証人を指す呼び名でした。彼の十字架はわたしたちの罪の償いであり、わたしたちを罪から贖う死であって、その証拠に、キリストは、わたしたちの完全な救い主として、神のお力によって復活させられたのです。キリストの復活こそが力です。神のお力です。そして、やがて、その力の証人たちは、その復活という出来事、事実を広く証しするためには命を献げることも惜しまない者となっていきました。イエス・キリストのために命を懸けた、ということです。これは、時代が移っても変わらないことだと思えます。十二弟子に続く後の教会は、キリストに従う彼ら、使徒たちを見て、当然、自分自身のことのように思えるはずです。
 
それだから、「神の国」を知らせる一行のこの世での巡回、旅路はまだ続いている。わたしたちキリスト教会として。教会はこのようなキリストの物語もまた、聖霊の助けによって、それぞれの立てられたところで追体験し、再現させていただいている、今に語り直させていただいているでしょう。教会はそのことを、いつも、真実に自覚していたいと、強く願います。
                       In Christ



「『それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。 見よ、おとめが身ごもって男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ』」(イザヤ書第7章14節)。


 クリスマスは、わたしたちの世に、神からのしるし、神が生きておられるということが、真に明らかになった出来事です。神の子がこの世に生まれてくださったのだから。この子を見れば、神が生きて、働いておられるということが分かる、と言うのだから。それも、神が生きておられるということは、わたしたちにとっては、救いを意味します。神が生きて働いてくださることがわたしたちの救いなのです。
 しかし、上記の言葉を含む旧約聖書イザヤ書第7章には、当時のイスラエルの人々、特にその代表者である王の不信仰が描かれてあるのです。
 当時、今から約二千八百年近く前、神の民イスラエルは二つに分かれてしまっていました。南北の王国に分かれていた。そして、北王国が隣国のシリアと共に、南王国に攻め込んだ。歴史的にはシリア・エフライム戦争と呼ばれる事件が起きました。国家存亡の大きな分かれ目でした。一時はその3国が同盟を結んでアッシリアという強国と戦おうとしていた。国家的な利害関係、政治的な思惑が絡み合っていたでしょう。しかしそんな中、南の王アハズが優柔不断であって、シリアと北王国への同盟承諾の返事を延ばしてしまった果てに、その2国は業を煮やし、アハズを退けて、自分たちの好きに操ることの出来る代わりの王を立てようとしたのです。するとアハズは、戦おうとしていたはずのアッシリアに援軍を求めようとし始めた。神の民の有様とはとても思えない、実に人間的な事情がうねりにうねっていたのです。そしてその、アハズ王の不信仰に対して、預言者イザヤが登場しました。何がアハズの不信仰だったか。相対するイザヤに向かって王は、一見信仰的な、信仰深い言葉で答えた。しかし実は、神が王に向かってご自分に救いのしるしを求めよ、と言い、神が生きて働いておられる証拠を求めたらよい、と言ってくださったにもかかわらず、アハズは、求めることをしない、と答えたものでした。それは、神は無力だ、無意味だ、と言ったに等しいことでした。
 そこでイザヤは、正に上からの言葉、主なる神が現実に生きて働いておられるからこそ語られた言葉をアハブ王に告げました。神が真に主であり王なのだから、シリア、北イスラエル、またアッシリアの国家戦略のいずれも立つことは出来ない。主がそれをご計画に用いられることがないなら、実現せず、意味を成さない。主なる神こそが、どんな時でも、唯一人、力を持ち、ご計画を持ち、かつそれを進め、実現していかれる。その意味では国家という大きさなど簡単に越え出てしまう。その神からの救いのしるしを求めよ、と告げたのです。
 人間の事情により、恐れと不安に捕らわれ、心定まらぬ不信仰の王に対し、預言者を通して神は、特に上記の言葉を告げられました。いわゆる、インマヌエル預言と呼ばれます。これは今もキリスト教会ではクリスマスの季節に大事に聞かれる神の言葉です。ただ必ずしも、教会が知るクリスマスの預言だったわけではない。けれどもこのことだけはこの時点から言えます。預言者ははっきりと、王という国家の代表、人々の代表、しかし不信仰な人々の代表に対して、神はあなたがたと共にはおられない、わたしたち信じる者と共におられると告げた、ということです。それは、主なる神のご計画が進むこの世界はあなたがたと共にはない、このわたしたちと共にあると告げた、ということです。それは、救いの預言であると同時に、不信仰の人々に対しては審きの預言になっている。そして、何より確かなその、上からの神からのしるしこそ、教会の主、イエス・キリストであると、クリスマスであると、聖書は全体で告げるのです。
 わたしたちは、審かれるべき者ではなく、神が生きて働いてくださっていることを信じて救われる者として、このクリスマスの季節に、いよいよこの神のしるしに注目したいと、切に願います。
In Christ



神は言われた。『わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える』」(出エジプト記第3章12節)。


 聖書において最も大事な、と言えるインマヌエルの信仰は、旧約聖書の中だけでも100回以上言われています。わたしたち人間の歴史を神が導かれる歴史として理解し、神と共に歩むものだと教えているという主張もそこにはあります。さて、上記の聖書の言葉にもインマヌエルの信仰が表されています。ここで、聖書の神があのモーセという人にご自分をお知らせになりました。何をお知らせになったのか、それは、神はご自分がいつもおられる天というところから、この地上わたしたちのところにまで降って来られ、共にいて、わたしたちを救ってくださる、ということです。聖書の神は進んでわたしたちに関わってこられるということです。
 神はモーセを呼ばれました。モーセに出会い、そしてご自分の用を彼に託された。モーセは、そんな大きな仕事は出来ない、と答えます。けれども神は、繰り返し、モーセを呼び、その務めをお任せになり、モーセには必ずそれが出来ると言い、わたしがあなたと共にいるから、と約束して言われました。エジプトという国で当時虐げられていたイスラエルの人々を、神ご自身がやって来て救いに行かれる、その手伝いをすること。神は無力でも、無感覚でも、無理解でも、無関心でもない。神はモーセに、ご自分の救いのみこころを、強く訴えられました。
 モーセはこの後、神の民、イスラエルの指導者、牧者となりました。しかし実は、彼は、自分が育ったエジプトで、重い罪を犯した人でした。人を殺し、それを隠し、それが人に知られるのを恐れて、逃げ出したのです。そんな罪の消えない痛みが今もある。そんな自分に神のご用など出来るはずがない。それなら、彼に、何が必要でしょうか。モーセに、そして、同じような痛みを抱えることもあるわたしたちに、何が要るだろうか。そこに神の救いが来たわけです。救いの神が出会ってくださったわけです。
 聖書の神は、罪を犯し、その報いを受けてひどく苦しむ、そんなわたしたちに、名前を呼びながら、近付いてこられます。それも、この神はわたしたちの苦しみをよく見、その苦しむ声、こころの叫びも聞き取って、わたしたちの痛みを知ってくださいます。神は分かってくださる、神が分かってくださる、わたしたちのことを、わたしたち自身よりもよく。わたしたちには、自分の罪がこころも体もいつまでも苦しめてしまえばといって、その罪から自分自身を救い出す力がありません。しかし、本当にその力のある方がわたしたち罪人をよく分かってくださる、だから、本当に思い遣って、救ってくださる。天からここにまでやって来て、そうしてくださる。モーセにそんな神の救いの働きの手伝いが託され、彼自身もその救いの中に引き込まれていくのです。
 モーセは、神の呼び掛けに戸惑い、すぐに承諾出来ません。自分は罪人だから、神のお手伝いなど出来っこない、まるで神に代わって出掛けて行くなど出来ない。しかし神は、「『わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである』」と言われます。神が共にいてくださる。わたしがいる、あなたと確かにいるのだ。
 神がモーセと、またわたしたち人間と共にいてくださるというのはその罪を赦してくださる証拠です。だから、モーセにまずそのことを知らせ、よく分からせてくださいました。彼はそうして、いよいよ、神のご用に生きるという新しい命を与えられたのです。天から降り、共にいて、救ってくださる、実に行動的な神が聖書の神、主です。あのクリスマスこそ、その一番の証拠でしょう。わたしたちも、この神をよく知り、この方がわたしの神だとはっきり言えるほどによく知って、この方と共に生きたいのです。           
In Christ



「エリヤはすべての民に近づいて言った。『あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。』民はひと言も答えなかった」(列王記 上 第18章21節)。


 旧約聖書列王記 上 第18章には激しい聖書物語が描かれています。何が激しいことか。それは、聖書の神、主を信じることは命懸けだ、ということです。なぜなら、この命のすべてを救い、この命のすべてで神に真っ直ぐに向いて生きることが出来るようにしてくれたのが、聖書の神の救いだからです。それは、罪を犯してしまった時もそうです。そんな時わたしたちは、神の目から隠れようとします。人にも分からないようにする。しかしもちろん、神の目を免れることなど出来ません。それなら、開き直ったらよいのか。いいえ、違います。そうではなくて、神はいつも見ておられる、真っ直ぐに、離れずに、安らかに歩きなさい、と見ていてくださる。神はわたしたちを監視しておられるわけではない。こころに掛けていてくださるのです。だから支えてくださる、守ってくださる。真っ直ぐに、離れずに、安らかに生きられるように。そこでもし罪を犯してしまっても、神から隠れるようなことはしなくてよい。ただ、すべて神の前にあると知って生きればよい。それならば、したいことをしていればよいとか、嫌なことはしなくてもよいということではなく、やはり、神のおこころに適うように生きようとするでしょう。それが出来ず、罪を犯してしまっても、きちんと悔い改め、また赦されて、罪を犯すことなく、もう神にも人にも背くことなく生きようと、また立ち上がることが出来るでしょう。神の眼差しの中で生きることに本当に積極的になる。そう生きることが出来るための神の救いがある。だから、そこに命を丸ごと懸けて生きるのです。
 このようなことを知ると、同時に気付かされるのが、本当の、真の神は、わたしたちが自分たちの考えや都合に合わせて創り出すものでも、選ぶものでもない、ということです。上記の聖書物語には主なる神の預言者エリヤという人が登場し、彼が一人で対決している相手がバアルという、イスラエルの人々があの出エジプトの後住むことになったカナン・パレスチナ周辺の宗教の神であり、その大勢の預言者たちでした。彼らもイスラエル人だったようです。このバアルの神は、豊穣の神、作物の実りをもたらす神として信じられていました。けれどもそれが、自分たちの都合、自分たちのための神だということです。わたしたち人間は本当に愚かで、神のような力を持っているならわたしたちの都合に合わせてください、それが神でしょう、と考えたりする。そうして、数々の神を創り出し、選んだりする。その時神はわたしたちの都合のための道具になっている。神ではなくなってしまっています。わたしたちの都合によっていたりいなかったりするし、役に立たなければ、捨てられてしまう。しかしそんな神なら、そもそも、わたしたちを救う力などないでしょう。イスラエルの人々は主と共に生きてきた。それにもかかわらず、あちらに行ったり、こちらに来たり、皆自分たちの都合のために不信仰に陥ってしまった。それこそ主なる神なしでは自分たちの生活が成り立たないということのよい証拠です。主はそんな不信仰な人々への審きにおいても生きておられます。不信仰から救うために。主が生きておられるということは本当に現実的で、激しいことなのです。
 今は、わたしたちへの主こそ神である証拠は一層はっきりしています。イエス・キリストであり、神の子である彼がご自分の命を懸けてくださったあの十字架の死です。わたしたちの罪のためにキリストは死んでくださった。わたしたちの罪が彼を死なせてしまった。ご自分に背く罪を、神がそうして赦してくださった。こういうことだから、キリストを知らせ、信じるようにという神の招きは、これ以上ないほど激しいものです。自分たちの考えや都合による、道具のような偶像の神などを捨て、愛と救いをもって今日も共にいてくださるこの主を信じたいのです。
                           In Christ




それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。『あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」(ルカによる福音書第10章23、24節)。


 今、イエス・キリストの十字架の苦しみを深く偲ぶ受難節・レントの季節を迎えようとしています。その時に、幸いを学びたい。苦しむキリストによる幸いについて。
 
上記のキリストの言葉に幸いが語られています。何が幸いなのか。わたしたちの幸いであるのか。それは、わたしたちがキリストを信じて罪から救われキリストの弟子となり、もう罪を犯すことなく生きること。言い換えるなら、彼の弟子とされた者たちがこの罪人の世界にあって、罪と戦い続けて生きることです。キリストの弟子たちはこの世では苦しみを受けます。彼らは救いのために苦しんだキリストの弟子たちだから。受難のキリストからのそれぞれの賜物に従って弟子たちが生きる時、それは決して人間的な喜びや楽しみなどをもたらすのではなく、むしろ苦しみをもたらすのだ、と言えます。「『わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである』」(ルカ9・23b、24)。キリストのこのお言葉も想い起こされます。罪と戦うから苦しむ。この苦しみを避けたところで、弟子たちもまた罪を犯す。しかし、この苦しみを恐れず、自分をも救ったキリストの救いを真っ直ぐに知らせ、キリストに従い続けてついに罪に勝つことがわたしたち人間の唯一の救いである、と身をもって証しする。それ以外に生き方がありません。その他に、罪と戦い、勝つ術はないのです。弟子たちはそのために立てられる。それが彼らの幸いなのです。そんなことを受け容れられるのか。むしろ、不可能であって、やはりわたしたちは救いようのない存在なのではないか。わたしたちが、これらのことに従ってついに救われるとしたら、聖書の神ご自身が、キリスト自身が、わたしたちをこの救いの内に招き、救ってくださるからです。救いは神から来る。わたしたちは救っていただくのです。だから救いを信じることが出来る、受け容れることが出来る。救われる。そしてその時、当然罪人の思いと行動を捨てさせていただいている、自分の十字架を負わせていただく。ようやくそうさせていただくことが出来て自分を根本的に変えてくれる救い主の背中だけを追い掛けることが出来るようにしていただき、もうそうしないではいられないのです。こんなわたしたちを救ってくださるという神の救いがどれほど力あるものか、本当は、よく分かるのではないでしょうか。キリストの弟子として生き始めるとすぐこのことに気付かされます。このことが問われます。この問いに積極的に答え続けることこそ、キリストの弟子としての生活を造らせます。
 今その弟子であるクリスチャンたちも、自分自身のキリストの弟子としての生活において、常に弱さを覚えさせられるかもしれません。しかしそれは、誘惑に負け、欲望に従い、独り善がりに生きて罪を犯してしまう弱さのことではなく、弟子としての生活に必ず伴う苦しみを受ける弱さのことでしょう。その意味での弱さなら、キリストの祝福の内にある。そんなに弱く、貧しいのに、どんなに苦しみ続けてもついに勝利を与えられるでしょう。その生活は神の力・聖霊によって支えられているものです。その弱さと苦しみは、永遠の命をいただく保証だと思えます。                 
 In Christ



「御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です」(ヨハネの手紙 一 第2章23−25節)。


 この4月20日に、キリスト教会は、今年2014年のイースターを迎えます。イースターは、イエス・キリストのあの十字架の死からの復活を記念して祝う日です。永遠の命が与えられた記念日です。その日をこころ待ちにしながら、今、教会の正しい信仰について一つの学びをしたいのです。
 上記の聖書の言葉には、正しく、伝統的な教会の信仰告白があります。そして同時にこのことを言い表す時には、誤った、偽りの信仰との戦いが起こる、ということにもなります。その区別が、「御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています」ということです。「御子」はキリストを、「御父」は聖書の神を表しています。ですから、その独り子なる神イエス・キリストを否定しては、聖書の神との交わりが成り立つ根拠がなくなる、神を失ってしまう、と言われているわけです。あのイエスをキリスト・救い主と信じる時に、イエスが復活させられたことを信じる時に、神を信じることが出来、神を礼拝することが出来るようになる、ということ。イエス・キリストに尽きる、ということです。このことをはっきりと信じ言い表すことが、現代の教会も受け継いだ、正しく、伝統的な信仰告白です。
 
イエスという一人の人において何が起こったのか、何が明らかにされたのかを伝え聞き、そのイエスをキリストと信じ、この方と一つであることだけが救われることです。その救いの原点は決して変わらない。このことを共に信じる人々のところに教会は造られます。また、このことだけが、教会を保持するものです。教会はキリストの体です。そしてクリスチャン・教会員は、そのキリストの体を造る手足、その部分々々となって一つに結ばれて、教会を造る。それで、お互いに掛け替えのない神の愛の経験をそこで与えられるのです。キリストに背くなら、この愛の共同体である教会にも背く。そしてその教会にこそ、「永遠の命」はあるわけです。この共同体の内に生きるからこそ、終わりの時に約束されている「永遠の命」をついにいただくことも、出来る。
 教会はこうした信仰によって建てられ、保たれます。教会ではなくなってしまうことからも守られる。イースターは、このことを再確認する機会でもある、と思います。
                 In Christ



「見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった」(ルカによる福音書第24章2、3節)。


 イースターに記念されているイエス・キリストの復活、復活。それは、分かり難いと言われます。それでキリスト教は分かり難い、とも言われます。信じ難い。今から約二千年前の当時もそうでした。キリストに一番近くいさせていただいた弟子たちでさえそうだった。しかし、復活という、キリストを納めた墓が空だったということ、永遠の命のしるし、それが実際に起こったからこそ教会は存在し、キリストの復活の日に礼拝を献げ、なお、彼を信じる者たちも彼と同じように復活させられることを目標として生きることが出来るようになりました。その事実を信じさせていただく。自分自身のために神が行ってくださったことさえ信じることの出来ないわたしたちです。しかしそれが、自己中心、自分が中心ということです。けれども、すべて神が中心であることに気付かされれば、すぐに信じることが出来るでしょう。
 わたしたちは皆、生きている限りは、いつか死にます。生きるということは、死ぬことで終わる。すると、死はすべての終わりであるようにも思えます。生きている間にどれほど幸いでも、死と共に、それが終わる。不幸も、同じです。死んだ方がましだ、という考え方さえ出てきます。けれども、本当にそうでしょうか。死んだ方がましだ、と言うなら、生きていることに意味はないことになります。また、生きている間の幸いが死によって終わってしまうなら、これも、意味がないことになります。だから、死がある限り、わたしたちが生きていることには意味がないことになる。死はわたしたちの人生を最初からマイナスで括ってしまっている、ということになります。わたしたちは皆最初から行き詰まってしまっている。それで仕方がないのだろうか。いいえ、わたしたちは生きる意味があって皆生きている。どんな状況に置かれようとも、生きることを積極的に考え、求める。活き活きと生きていこうとするでしょう。死に怯えて生きるということ、死の恐怖や不安によって支配されてしまって生きるということは、現実的なことでしょうか。そうではない、と思います。諦めしかない、もしあっても仮初めの慰めしかない、いつ自棄を起こしてもおかしくないような人生、それが人間の人生であるはずはないし、そのことを誰より神が覆されたわけなのです。イエス・キリストを信じることが出来た時に、その死の時にその絶望が覆されるのです。キリストは十字架の死から復活させられたのだから。死んで終わりではなく、その先がある。死ですべてが終わると考えていたのに、それが、永遠の命への入口に変えられてしまったのです。死の時にも神をわたしたちの父と呼んで、神から最も遠いと思われる死の時が、神の懐に飛び込んでいくその時に変えられる。神の命、永遠の命に飛び込んでいく時になる。死で終わるだけなら、わたしたち人間は神から最も遠いだけです。それが罪人だということです。しかし、そんなわたしたちの罪を償い、身代わりとなり、それでわたしたちを罪から救ってくださった方を信じることが出来たなら、神から最も遠い、ではなく、真に神に近付くことが出来る、神に迎え入れていただける。それが聖書の福音であり、わたしたちの人生に初めて意味を与えてくれるものなのです。
 その福音の根拠がイエス・キリストの復活です。空の墓の物語です。キリストの復活によって、わたしたちの罪からの救いが果たされたことがはっきりした。キリストはあの十字架に死なれました。彼は十字架刑によって死なれたけれども、本当の死因はわたしたちの罪です。わたしたち罪人がキリストを十字架に死なせた。その死からの復活。死ぬべき方でなかったからです。そうして、彼の死によって死が滅ぼされたから、罪の報いはもう取り除かれたから、復活、永遠の命に生きるということが、現実になった。

 それだから教会は存在し、キリストの復活の日に礼拝を献げ、なお彼を信じる者たちも彼と同じように復活させられることを目標として生きることが出来るようになりました。神がそのようにしてくださった。このことをもう疑う必要はない。わたしたち罪人は、これをただ素直に認め、受け入れさせていただきたいのです。    In Christ

10


すると、主は言われた。『行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう』」(使徒言行録第9章15、16節)。


 キリスト教会では回心という言葉を遣います。これまで神に背いてきた人、あるいは他の神々を信じていた人が、真の神、聖書の神に立ち帰ることを意味する言葉です。それでこの回心とは、向きを変えること、帰ること、もっと強く言うなら、悔い改めて戻ること、を言い表す。新約聖書使徒言行録の中に、サウロという人の回心について3度記されています。おそらく、教会にとってそれが大きな意味を持つ出来事だったからです。彼ははじめ、暴力的で活動的な、計略に富んだ教会の迫害者、恐るべき敵でした。そんな彼の回心は、草創期の教会に、いやその歴史全体にとって、大きな出来事でした。
 その出来事においては、イエス・キリストが彼に出会ってくださったことと、それがダマスコという街の附近で起こったということが、特筆されます。ただ、このことにおいてわたしたちが見るべき特に重要なことは、彼の場合、回心と異邦人への伝道、宣教の召命が一つのことだった、ということでしょう。実はこのことは、すべてのクリスチャンについて同じことだと思います。そう、回心と召命、クリスチャンになることとそれでキリストのための奉仕に召されることとは、併せて与えられるものだ、ということです。上記のキリストの言葉にあるように、神はそうなさるのです。サウロは後に使徒パウロと呼ばれるようになる。当時のアラム語によるユダヤ、イスラエルの辺りでの呼び名から、当時の世界帝国ローマの公用語であるラテン語での呼び名を得るに至りました。それが、「『あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である』」ということでした。
 サウロはそもそも生粋のユダヤ教徒だった。しかし、そんな彼の忠実さ、熱心さは、彼が神の方を向いていることを示すものではなかったのです。そんなサウロ、教会の迫害者が、神の方に向きを変えた。神に帰った。そしてその後、ひたすらに、イエス・キリストの福音の伝道、宣教のために生きていきました。そこに生かされていきました。それがキリストとの出会いによって引き起こされたのです。キリストの一つのお望みのために自己、自我を退けてその召命に生きた。それが、サウロの回心でした。
 彼のあの熱心さ、神への熱心さ、また聖書学のためのその能力、それらは才能とも呼べるものだったでしょう。サウロの人となりは回心の前後で何も変わっていない。だから、回心において、彼の神への向き方が変わったのです。教会は彼によって、彼を用いた神の力によって、世界大の伝道、宣教の働きに踏み出したと言えます。それなら現代のこのわたしたちもまた、サウロとまったく同じように、教会の歴史、キリストによる神の救いの歴史の内を生かされているのです。
 わたしたちには誰にでも出来ることがある。それが才能と呼ばれるほどに秀でたものである人もいる。けれどもそれは、それだけなら、賜物ではない。それがその人の神の方を向いていることを証しするのでないなら、神のみこころを現すために、つまり、教会のために、その教会の歴史、歩みの中で用いられているのでないならば、賜物ではない。クリスチャンは、誰もが、神の救いの歴史、ご計画に従って召された者です。だから、キリストのため、神のために生きる、神に用いられる、本当に謙遜な、この生の理解を、よく知っていたいのです。その通りに生きる時キリストの器となります。そうしていただける。一人ひとりにどのような生涯が与えられているのかは分からないけれど、わたしたちのこの時代も、教会の歴史、神の救いの歴史の、一頁になります。それが教会とそのクリスチャンの生涯の意義なのです。
                             In Christ

11


「この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか」(エステル記第4章14節)。


 旧約聖書エステル記は概ね次のような内容です。その昔ペルシアという強大な王国があった。多くの人々に、多くの国々に、戦いで勝ってきた。すると、この王とその国に負けた者たちはその言葉に従わなければならなくなる。そんな強大な国と王の傍に一人の美しい女性がいたのです。それがエステル。この人は聖書の民イスラエル、ユダヤの人でした。ユダヤの人々も当時、ペルシアに従属していた。ところで、ペルシアの王の下にハマンという名の総理大臣がいた。ペルシアの人々は皆このハマンにも、随分丁寧に接していた。この人が王に気に入られて総理大臣、王に次ぐ力ある者になっていたので、彼を恐れて。国中の人が皆そうしていた。しかし、一人そうしなかった人がいた。モルデカイという人。この人もユダヤ人で、実はエステルの親戚でした。ハマンはこのモルデカイを憎んだ。彼だけが自分に敬意を払わず、挨拶もしないから。それに、モルデカイがユダヤ人だからでもあったようです。ユダヤ人はもちろん聖書の神だけを自分たちの本当の王だと信じていた、この神の言葉だけを本当に大切にしようとしていた。ハマンはモルデカイ一人を憎まず、彼とユダヤの人々皆を憎みついに、ユダヤ人全員を滅ぼそうと計画を立てたのです。ユダヤの人人はペルシアの国中に散らばって生活していた。しかしハマンのお陰で、そのどこででも彼らを滅ぼしてよいということになりました。一人残らずそうすると言う。ユダヤ人たちは皆驚き、恐れた。自分たちが、赤ん坊から老人まで、皆殺されてしまうその日、その時が迫ってくる。もう駄目だ。モルデカイは、ペルシアの王に危険が迫った時に、それから守ったこともありました。しかしハマンの計略によってモルデカイもユダヤ人も皆殺されてしまう。このことで誰よりモルデカイは悲しみました。そして考え抜いて、自分たちが助かるための一つの方法に気付き、それに賭けることになりました。その方法こそ、ペルシア王の傍にあのエステルがいる、自分たちと同じユダヤ人のエステルが、だから彼女に同胞を助けてもらうよう王に頼んでもらおうということでした。エステルは美しい女性だったから王の妃、王妃になった。いや、違う。今ユダヤ人が全滅させられてしまうという時に王の傍にいて彼に願い、自分と同じユダヤの人々を助けるためにこそ王妃になったのではないか。エステルは、正にそんな神のご計画のために王妃になったのではないか。エステルよ、多くの同胞の命を助けてくれ。神がユダヤ人皆のために今エステルを通して働かれる、ユダヤ人をきっと守り助けてくださる。
 聖書の神は不思議なことをなさいます。そう、神がご自分で、ではなくて、例えばこのエステルを通して、エステルの言葉や行動を通して、罪を他にして、神にしかお出来にならないことをしてくださる。あの、イエス・キリストの母になったマリアもそうです。マリアは天使から、自分から神の子、キリストが生まれてくるということを知らされた時、「『お言葉どおり、この身に成りますように』」(ルカ1・38c)と答えました。聖書の神にはユダヤ人を、いや、わたしたち皆を救うために、出来ないことは何もない。だから、そんな神の救いのお働きに、このわたしも必要であればどうぞお手伝いさせてください、と答えたのです。そんなマリアやこのエステルを通して、神はその大事な働きをしてくださいました。神のお働きにはそれに仕える人が必要なのです。
 それならば、わたしたちはどうだろうか。このことをどうか知ってほしいと神が願われることを、一つ、今学ぶことが出来たと思います
                              In Christ

12

主よ、怒ってわたしを責めないでください。 憤って懲らしめないでください」(詩編第6編2節)。


 これは悔い改めの詩編と呼ばれるものの一つです。悔い改めという今自分は離れてしまっている、背いてしまっている聖書の主なる神に帰るための詩です。
 この詩を丁寧に読んでみると、すぐに、非常に真剣で、深刻な調子で始まっていることが分かります。なぜなら、ここで、重い病に苦しむ人が、神の怒りをその原因だと感じているようだからです。しかも神の怒りは罪に対する神の反応だ。神が罪人を遠ざけ、退けておられる、ということだ。するとこの深刻で、重い病、そんな苦しい状況はその人の罪のためだ、その人が神から離れ、神に背いてしまっているからだ、ということになるのです。自分の弱さと罪のどん底に下っている。今神の怒りとしか言いようのない苦しみに打たれて、後はもう死ぬばかりの恐怖に戦き、ひたすら憐れみを請い願うしかない。わたしたちは、自分の健康な時に、そして体やこころの病気や怪我によって痛み苦しんでいる時に、それらを神との関係の中で考えるでしょうか。とにかくこの詩には、神の怒りに対して激しく、また苦しみ悶え悩みになやみながら、神がまた自分の方を振り返って恵んでくださるのを願っている人がいるのです。健康な時もそうでない時もまず神との関係の中でそれを考えるということは、命の死ぬことも生きることも神がそうなさるのだと知っている人のすることです。その人のこころからの祈りがここにある。死ぬほどの痛み苦しみ、悩みの時にも神に一心に向かいます。それが嘆くという仕方でも。それは、誰がその自分をついに癒してくれるのかを示していることでもあるわけです。神と、神だけと向き合う。それは本当に厳しいことです。この苦しみを与えている神の怒りが、永遠の審きと罰のためではなく、ついには救ってくださるための怒りであってほしい、と願う。神からこの苦しみが来ているのに、それは自分の罪のためだから、それでも神に縋る信頼に生きようとします。神の怒りの向こう側に、怒りさえも神の愛から来ていることを見る。それが自分のこころの内で戦いとなっても。この詩は、自分や自分たちの罪による神の怒りを、よく、きちんと知っている人には誰にでも祈ることの出来る言葉です。そしてそれが、悔い改めという、神に帰る、回心の祈りなら、この詩の祈りを祈ることによって神にまた受け容れていただく望みが拓かれるのです。この祈りによって救いを知ることが出来る、ということです。
 どうしたらこの人は苦しみから、罪から救われるのか。この人が神に、神だけに向かっているなら、神がご自分から、この人の痛み苦しみを思い遣り、その救いようのない現実に応えてくださる他にないでしょう。神だけが救える、神が罪ある人間の救いを願い求めてくださる他にない。この詩はその最後に、神に帰り、その怒りのためにこそ苦しんでいたこの人が救われるのに、その人の勝利の歌が歌われます。神への信頼は何よりも強く、確かなことだと、ついに分からせられて。神は答えて、罪を赦してくださる、罪から救ってくださる方だ。痛み苦しみ、深い悩み、不幸を取り去ってくださる。これは、同じように苦しむわたしたちに神が何を求め、そして何をしてくださるか、ということになります。神に帰る、自分から神に迫り、神も、遠くからその向きを変えてわたしの方に来てくださる。死ぬほどの、死ぬばかりの命が、また生きる。
 この詩は苦しみと罪の関係をずっと語り、教えてくれています。これほど真剣に苦しみについて考えることは他にない、と言えます。そしてそれが神に帰る祈りとなっている。大事なことでしょう。今わたしたちにも神への向き方が問われています。神に背いてきたなら、神の方に向きを変え、帰って行くことが求められている。この詩がキリスト教会の大事な習慣として、わたしたちの罪のための神の子、イエス・キリストの十字架の死の苦しみを大切に覚える時期に読まれてきたということも憶えたいと思います。   
          In Christ


13

「『世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません』」(使徒言行録第17章24節)。


 昔、最初のキリスト教会の伝道者・牧師であるパウロがその伝道、宣教旅行に行き巡っていた頃、ある人々は神を知ろうとすることに熱心だったようです。ただ、そんな彼らの思いには、神を信じる、ということではなく、興味、関心ということもあったようで、それでは正しい信仰には繋がらなかったのです。一方教会は、こころから神を信頼し、そのこころを言葉に、行動に表し、いつでも、多くの人々に伝え、知らせて生きてきました。そのこころからの言葉として、教会には例えば使徒信条があります。それは聖書の神について、三つの部分に分けて、しかし一繋がりで、その信じるこころを告白します。初めに父なる神への信仰の言葉がある。そこでこの方がわたしたちとすべてのものを造ってくださったことを言い表します。二つ目は子なる神への信仰の言葉です。そして三つ目に、聖霊の神への信仰の言葉が来る。ところで、父なる神への言葉は、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と言うのです。
 聖書の神がわたしたちを含むこの世界のすべてのものを造ってくださったと言う時、何が語られているだろうか。何を信じることが出来るだろうか。パウロは、この世界を見回して「天地の造り主」である神を信じることが出来る、と言いました。そんな彼の言葉に明らかなのは、神はわたしたち人間とは違う、ということであり、神のなさることは人間には出来ない、ということでもありました。
 神は「天地の造り主」として今もこの世界を支配しておられる。この世界を生かしておられる。神が天地万物を、わたしたちも、生かしてくださっている。言い換えるなら、神はすべてのものに責任を持っていてくださるのです。それで、自然を見れば、わたしたちを見ても神を知ることが出来る、という。わたしたちは自然の働きを見て時には驚き、時には恐れを感じ、時には感動させられます。人間に出来るはずのない自然の働きに圧倒されます。自然が神なのではなくて、神がお造りになった自然が人間などは圧倒する働きをするので、本当に驚かされるのです。その時に神を知る、いや、神を求めることが出来るのです。さらに正確に言えば、神を知るように、神を求めるようにこの世界のすべてが、わたしたちも、造られた、と聖書は言います。しかし、造られたものの中で人間だけが罪を犯すように思えます。造り主である神に背くように思える。
 人間はそもそも神に一番近い存在として造られました。神はご自分に似せて人間を造り、神に向かい、神のみこころをいつも知って、その通りに生きるように期待してくださいました。神は、罪を犯す人間を思い遣り、罪から救い、罪を離れて生きるように、ご自分のこころのままにもう一度、清く生きるように、救い主、イエス・キリストをくださいました。だから、キリストを知ることでこそ、彼を求めることでこそ、彼を信じることでこそ、わたしたちは本当に人間として生きることが出来る、ということになるのです。今日も確かに生きて、共にいて、責任を持ってわたしたちを生かしてくださっている聖書の神の願われる通りに生きることが出来る、ということになるのです。
 聖書の神は罪からの救いのために必要なことをすべて行ってくださいました。救われたわたしたちは、この世界を見、自分自身を見て、こころから、こころを籠めて「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と信仰を告白することが出来るのです。その生き方こそ本当の人間の生き方なのだと、はっきりと言い表すのです。 
   In Christ

14

「イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか」(申命記第10章12、13節)。


 人間の知識にも経験にも限りがあります。知らないことは何もないなどという人はいないのです。それでもわたしたちは、例えば自分の子どもたちに、知っている限りのことを伝え、出来る限りのことをしてやり、決して、自分の思い通りに、ということではなくて、少しでも幸せになってほしい、と願うものです。しかし、それでも、幸いというのも人によって違うとか、何が幸いであるか分からないなど、わたしたち人間は、本当に不十分で、不確かな存在だ、と思えます。

 それでも伝えます、子どもたちに幸いを願って。子どもたちを守り導くために。子どもたちにとっては、ああ、五月蠅いな、と思えるだろうけれど。聖書もそうです。ただ、わたしたちの言葉と聖書の言葉の違いは、その力にあると思います。聖書の言葉は、不十分でも不確かでもない、神がそこに幸いを約束してくださっているからです。神の言葉だから。それが今や、キリスト教会の礼拝説教である、とも思います。
 聖書が教え勧める、わたしたちの幸いのために知るべきこととは、まず、聖書の主なる神への愛です。神を愛する。上記の言葉にもそれは明らかです。「今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し」と。もちろん、この言葉を最初に聞いた聖書の民には皆、その勧め、命令の言葉を聞かなければならない理由がありました。それは、自分たちのようなごく小さな、弱い者たちを選び分けて目を留め、こころを遣ってくださったのが、唯一その神だったから、ということと、この神は常にそうあり続けてくださるから、ということでした。聖書の民はそれを自分たちの経験として知ってきたのです。
 このことは、現代のキリスト教会において、また教会と関わる学校や施設、病院などでも、同じように信じられることではないでしょうか。そう信じるべく、教え導くことが大事でしょう。そこには、その個々人の事情を何らか用いて、神が集めてくださった人々がいるでしょう。それがもう神の愛によるものです。しかしそれは、ただ甘えられる、心地のよいものではない。神の戒め、神のご命令のお言葉を聞いて守り、それが堅く約束している神の幸いに生きるためなのです。それが神への愛です。わたしたちの思う不確かな幸い、ではなく、確かな神の幸いに生きるためなのです。
 
教会も教会関係学校や病院も、聖書の神がおられず、神の愛がそこに人々を招き集めなかったなら、存在しないものです。彼らには、自分たちが願うこと以上に神が彼らに願われることがある。彼らは皆、そのために選ばれ、集められているのだと思います。   
In Christ

15

「あなたの神、主が嗣業の土地として得させるために与えられる土地にあなたが入り、そこに住むときには、あなたの神、主が与えられる土地から取れるあらゆる地の実りの初物を取って籠に入れ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所に行きなさい」(申命記第26章1、2節
)。

 キリスト教会には特別のカレンダーがあります。今年11月23日は、そのカレンダーによると、謝恩日、収穫感謝日、と言います。聖書の神からいただいた恵みすべてにその日の礼拝の中でこころから感謝を献げるのです。
 神の恵みを知る、それに気付くというのは、わたしたち皆に許されています。神がわたしたちにくださるものはみなよいものばかりです。言い換えれば、あれもこれも、みなよいものだ、そのように、わたしたちの生活をよいもので、そればかりで満たしてしまうことが出来る、それは、聖書の神を信じてしまえばよい、ということです。
 キリスト教会の礼拝では献金が献げられます。献金とは普通、神に金銭を献げるのです。なぜでしょうか。それは、このお金も、いいえわたしたちの持っているものはみなよいものだけれど、それはみな、やはり神がわたしたちにくださったものだから、神がそのようにわたしたちをお恵みくださっていることを、献金という仕方で表す、ということです。しかし、聖書の神はわたしたちを大切にしていてくださる、間違いなくそうしていて、愛していてくださる、だから、この方が、こんなにもお恵みくださっている、どうして、そう言えるのだろうか。
 それが例えば、聖書の神の子、イエス・キリストのこんな言葉を知ってみると、よく分かります。「『自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか』」(マルコ8・35−37)。そう、神の、キリストの目から見ていただくと、わたしたちの、この一人ひとりの小さな命が、全世界よりも貴いものなのだ、というのです。神はそう見ていてくださる。神がそう見ていてくださる。だから、この神は、わたしたちに唯一の子であるキリストさえくださったのです。そのような神だから、わたしたちにいつもよいものをくださっているに違いない。神がくださったものはみなよいものに違いないのです。一人ひとりのいただいているものは異なって見えても、その一人ひとりに本当によいものが恵まれているでしょう。それで、わたしたちに求められることは、その神を知ることと、そしてこの方を信頼すること、です。それで、その神とキリストを知っている、そして信頼しています、あなたはわたしをこうしてお恵みくださっている、感謝いたします、これからもどうぞ助けてください、というしるしが、献金です。
 わたしたちは、聖書の神によいもので満たしていただいている自分たちの今日、そして毎日の生活に、本当に気付いていたい。そして、礼拝での献金に集約される生活を本当に大事に生きたいと、こころから願うのです。
                       In Christ

16

「すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(エレミヤ書第31章33b、c、34節)。


 これは、旧約聖書の中にあるけれども、新約、新しい契約を鮮やかに指し示すものとして知られている言葉です。イエス・キリストについてもう描いているわけです。
 昔、聖書の民、イスラエルの人々が神の与えられた土地を失い、神殿も失い、その土地と生活がみな崩れ去ってしまった時、そんな、神への罪が積もりに積もって最も大きくなってしまった時に、この言葉が預言者エレミヤによって語られました。これは神の言葉です。イスラエルは神に背いた、神は彼らを審かれる。しかし、赦されるのです。神が完全に赦して、新しい契約を立ててくださる、と言うのです。実はこの契約は、神とイスラエルとが、いやわたしたち人間とが結ぶ最後の契約になりました。神がわたしたちに幸いを与えようとしていてくださる、だから、その神と契約の手をしっかり握り、わたしたちもその手を決して離さないでいたい。聖書の神はわたしたちの神そしてわたしたちはその子どもたち。本当にそうありたいと思う。そうなるための神とわたしたちとの、これが最後の契約です。この次はないわけです。そしてそれが、キリストを指し示す、彼による契約なのです。聖書は神とわたしたち人間との契約についていつも書いています。旧約と新約。そしてキリストについては新しい契約に書かれています。上記の言葉はそこに向かっている、そこにしっかりと繋がっているのです。
 キリストの契約が立てられたのは、彼があの十字架に付けられる前の、最後の晩餐の時でした。その時にキリストは契約、新しい契約を立ててくださいました。それは、パンを二つに裂いて、そしてあなたがた一人ひとりにそれを分けよう、このパンがわたし自身だと思ったらよい、十字架に死んだ、神の子だと思ったらよい、わたしの命が皆の一人ひとりの命になる。それから、このぶどう液の杯をご覧なさいこれは、あなたがたのために、わたし自身が十字架に命を懸けて、その命も全て注ぎ出したしるしであり、わたしがそのようにしたから、わたしによって、神と人間はついに、本当の契約を結ぶことが出来るのだ。このようなものでした。キリスト教会では、その、パンを裂いて分け合うこととぶどう液の杯を分け合うことを、大切な祝い事として今も行います。キリストの時からそうし続けてきました。キリストが、彼だから結んでくださった、聖書の神とわたしたち人間との、新しい、最後の契約をいつも思い出して、決して忘れないために。クリスチャンという、キリストを愛し信じる人たちが、今も大切に行うのです。
 愚かな、罪あるわたしたちを間違いなく愛し、この世界を守り続けわたしたちの幸いを願い続けてくださる、わたしたちを決して離れずその幸いのためにどうしたらよいかも教えていてくださる、その神がおられる。これは本当のことです。神は、わたしたちが手を離し、契約を破棄してしまったような時にも、ご自分への罪が積もりに積もって、本当に大きくなってしまった時にも、その赦しによって、人間をまた新しくしてくださるのです。この神が確かにいてくださる。その証拠がキリストです。彼が立ててくださった契約のしるし、大切な、あのパンと杯の祝い事を見れば、それがよく分かるのです。神がみ子キリストによって立ててくださった新しい、最後の契約。このことばかりを、聖書の、新約の部分が書いている。その新約があるから、聖書も一冊の本として完成しているのです。そのキリストの降誕の記念のクリスマスが間近です                
In Christ

17

聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(テモテへの手紙 第3章16節)。


 聖書はわたしたち皆の、どの人の救いについても書いている、神の言葉です。この言葉が必要ない人はいない。神の愛と救いが必要ない人はいない、ということです。これは、もちろん人間の言葉で書かれているけれども、聖霊という神の力に助けられて、わたしたち人間にきちんと分かる言葉で書かれました。そして、聖書の言葉を書くことを助けてくださった神の力は、それを読む人たち、わたしたちのことも、助けてくださいます。そうして、わたしたちにそのお言葉を信じさせてくださる。だから聖書は、自分にもある神の愛と救いが分かるようにと祈りながら、読むことが大切です。
 聖書は旧約聖書と新約聖書で出来ています。旧約の約、新約の約は契約の約です。旧約聖書の中には39の書物が収められています。新約聖書には27の書物です。全部で66の書物で一冊の聖書、神と人間の愛と救いの契約について書いた書物になっています。そんな聖書の中で、神の愛と救いについて最も明確に分かるのは、やはり神の子イエス・キリストについて知る時です。特に新約聖書の中の四つの福音書を読んで、そのどれにもよく描かれているキリストについて知る時が一番です。
 神に感謝する、わたしを救ってくださり、感謝いたします、そう言う教会の礼拝を献げるためには、神が自分のことも愛し救ってくださったことがよく分からなければなりません。ですから、神の愛と救いについて書いている聖書を読むことと、その聖書の言葉を説き明かす説教は、教会の礼拝の中で一番大事なものです。すると聖書は、教会の礼拝の中で読まれるものだ、ということも分かります。
 
プロテスタント教会・福音主義教会は、聖書のみ、ということと、信仰によってのみということを、基礎としています。そのこともまた上記の聖書の言葉からもよく理解出来ると思います。聖書は、それを神の言葉であると信じて読む時、そのことを自ら証明してくれる書物です。あるいは、聖書に信仰の真理を求めて読み、聞いていると、聖書自身によって聖書が神の言葉であることを納得させられるのです。それこそ、特に教会の礼拝において読んでいたり、聞いていたりする時に、です。「御言葉が開かれると光が射し出で 無知な者にも理解を与えます」(詩編119・130)。このようにです
 わたしたちは皆、こうして救いに導かれる、また、救いの内に留められます。このように教会において聖書を学び続ける時、わたしたちは皆、真に救われた者、賢い者となることが出来るのです。

                                       In Christ

18

『人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は、三日目に復活する』」(ルカによる福音書第18章32、33節)。


 2月18日水曜日に、キリスト教会は灰の水曜日を迎えて、この日から、今年は4月4日まで、レントまたは四旬節と呼ぶ季節を過ごします。この季節は、これがわたしたちの救いであると信じる神の子イエス・キリストの十字架の死を、特に大事に覚える季節です。教会もクリスチャンもその生活の内に彼の苦しみの跡を一つひとつ残すようにして過ごす。上記の言葉はそのキリストの言葉です。「人の子」とは彼自身のことです。六つの言葉で彼の苦しみを言い表している。そしてこれは、永遠の命という、聖書の神に救われ、その神の命と一つになって生きる命を受けるにはどうしたらよいか、という、ある人からの問いへの、最終的な答えでした。

 死ぬことのない、いや、死によって始まる永遠の命を受けるというのは、どういうことか。どうしたらそれが可能なのか。永遠の命。実はこれは、わたしたちの、日々何をするにしても、問題になることです。わたしたちは、人間の、肉の力で今生きているけれど、その命、地上の命はいつか終わる、死んでしまう。どのように生きても、どうしても、死というものからは逃れられません。けれども、キリストによる神の救いを信じたなら、神の力で生きる命、永遠の命がその死において始まる。わたしたちは死ぬために生きているのではないでしょう。いつか死ぬ、だから結局は、死ぬことが恐ろしいのです。いや、今本当に活き活きと生きていたい。それに、死んでしまったらみななくなってしまうようだけれど、聖書の神を信じたなら、なくならないもののために生きることが出来ます。永遠の命を受けるということはいつか必ず自分の死の時を迎える誰にとっても、真剣な、避けられない問題です。そしてこのことこそがわたしたちの人生を支えてくれる。だから、永遠の命を受ける、それを妨げるなら、それが何であろうと、捨ててしまえばよい、とキリストは教えます。他の何であれ、わたしたちを救うことは出来ないから。わたしたちの滅びのしるしである死の意味を逆転させてしまえる永遠の命の約束に並ぶほどのものは何もない。そしてその命は、キリストに追いていく、彼をこころから受け容れることで実現するのです。そう、この地上ででも、本当に必要なものまた本当の幸いは、キリストを信じたところにあるのです。
 キリストはいつでも、ご自分に従う者に、永遠の命を約束することがお出来になります。ただわたしたちには、自分が彼に救われ彼に従って生きることを選択する責任があります。しかし、それだけのことで救いが実現する。それだけでよいように、わたしたちの救いを妨げる最大の問題であるわたしたちの罪の問題を、キリストは、あのお言葉の通りにして、既に解決してくださったのです。     In Christ

19

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした(フィリピの信徒への手紙第2章6−8節)。


 一致ということを考えることがあります。ばらばらではなく、一つであること。一致ということの重要性は、特に説明がなくても、よく分かります。そのためにどうしたらよいのか。それはまず、皆が同じ思いを持つことです。利己心や虚栄心ではなく、皆が愛のこころを持つ、こころを合わせる、そうして一つ思いになる。ただ、言葉にするだけなら、簡単でしょう。だからもっと具体的に、説得力を持って、一致について、同じ思いを持つことについて、考えたいのです。遜ったこころで互いに相手を自分よりも優れた者と考えよう、自分のことだけでなく他者にも注意を払おう。そのために、どうしたらよいのでしょうか。
 そこで聖書は教えます。イエス・キリストにおいて抱いているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互いに生かしたらよい、と。キリストのこころをあなたがたのこころともしなさい、と。それならば、そのキリストとは、どのような方なのでしょうか。
 キリスト教会の最も古い言葉の一つに、キリストとは何者か、また彼は何をしにこの世に来られたのか、ということを簡明に語るものがあります。それが上記の言葉です。教会は礼拝においてこうした定型の言葉を唱えてきました。それも、キリストについてこれだけ簡明に具体的に言い表すというのは、特に洗礼入会式や聖餐式のためだったと考えられます。つまり、このことを信じることで教会の一員になる教会員になるということは誰でもこのことにおいては一致している、ということです。キリストは、真に神でいらしたけれど、当然神と等しくありながら、それを力の限り、すっかりお捨てになってしまって却って、自分というものを空っぽにしてしまわれて、真の奴隷となられ真の人間の姿になられました、それは正に人間の姿で、それほどに自分を進んで低くし、捨ててしまわれ、それも、死に至るまで、しかもあの十字架の死に至るまで、父なる神にひたすら従順であられたのです、そう言っています。聖書の神は、ご自分の子キリストによってわたしたちを救うことに、これほど本気でいらした。そのことを信じそのことを讃えます。だから正に教会の入り口となる言葉なのです。教会の一番教会らしいところだ、とも言えるのです。
 このことが誰の思いにもある、このことについて一致している。それがキリスト教会であるし、このことをそれぞれの人生と生活の根拠としているのがクリスチャンでしょう。教会はみなこのイエス・キリストを、その全生涯を模範として生きる、このキリストに服従しているものなのです。ここに教会の一致はあります。
      In Christ

20

「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた」(ヨハネによる福音書第20章18節)。


 キリスト教会は、この2015年のイ−スター、イエス・キリストの十字架の死からの復活の記念日を、4月5日に迎えます。これは、最初のイースターの前日との間で歴史ががらりと変わった、ということの記念日でもあります。これまでの歴史の中で人知の及ばないと言えるような出来事は幾つもあったでしょうけれど、それがわたしたち人間の救いのために起こったというのは、このことだけではないでしょうか。真に神が明らかになった出来事だ、と言えます。神がわたしたち人間の生活に明らかに介入してこられ、それで、歴史は決定的に変わりました。しかし、だからこそ、それはまず、誰もが理解出来ない出来事でした。復活の朝、最初に空の墓に来た人、マグダラのマリアもキリストの言葉と働きを見聞きし続けてきた弟子たちにも、分からなかったのです。
 人知の及ばないことだった。しかし、ただ、そういう不思議なものだった、というのではありません。人知の及ばないことであり、そのままでは理解出来ないことだったのに、どうしてマリアは、弟子たちは、キリストの復活を信じることが出来たのでしょうか。このことを知らずに、わたしたちがキリストの復活を信じる、がらりと変わった歴史の中に生きるようになる、つまり、神を信じて生きるようになることは、出来ないと思います。だからこの問いは、こんなふうにも尋ねることが出来ます。あなたもキリスト信仰を持ち、それで神をこころから信頼することが出来るようになるのは、どうしてですか、と。
わたしたちはどうしたらクリスチャンになれるのか、ということです。
 キリスト信仰はわたしたちの選択や納得によるものではないのです。わたしたちの都合によるのではない。むしろこの信仰、この救いは神に係っています。わたしたちが救われるとしたら、救いを受け容れることが出来るとしたら、神が救ってくださるからです。神が主導権を取ってくださるからです。マグダラのマリアも弟子たちも、現実だけを見ました。キリストの墓を塞ぐ石が取り除けてあること、彼の遺体を覆った布だけがきれいに置かれてあったこと、従って、遺体そのものはそこになかったこと。そうした現実だけを見たのであって、そのことが示す神の救いの真実については、分からなかったのです。人知では真実に達することは出来なかった。現代のわたしたちは、空の墓を見ることさえなくて、なぜ信じ、救われることが出来るのか。
 キリストの復活、甦りを信じることが出来るかどうかは聖書の福音の急所だ、と言われます。命の神、生きておられる神がわたしにも関わってこられているのを信じることが出来るかどうか、ということだからです。神を信じることとキリストの復活を信じることはイコールなのです。しかし人知、人間的現実では、出来なかった。だからと言って、分からないならそのままで済まそうとして、済むことでもない。キリストの体がないということがどういうことか、真正面から問われているわけですから。だからやはりキリストの復活という出来事を、その、わたしたちの救いのための出来事を、神が主導権を取ってわたしたちに信じさせてくださって初めて、わたしたちはその出来事に生かされ、変えられた歴史の中で、その歴史の証人として生きるようになるのです。
 わたしたちの罪によって滅びて終わるのではないか、と思われるこの世界の歴史が、その罪の償い、その罪の赦しと救いが行われた歴史に変えられた。その歴史の転換は、例えばこのようなことにも見られます。教会は、日曜日を、週末に数えず、週の初めの日と呼びます。ここからすべてが始まる、と。わたしたちのその週の全生活がこの日日曜日に起こったキリストの復活の出来事に係っているからです。
 このキリストの復活によって、わたしたちが、子どもも大人も、正しい教会の信仰、キリスト信仰をいただいて、真実に活き活きと、相応しい歩みをしていくことが出来るよう、切に願って止みません。イースター、おめでとう。                
In Christ

21

「『このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる』(ルカによる福音書第11章13節)。


 上記のイエス・キリストの言葉を含む新約聖書ルカによる福音書第11章1節以下は祈りのカテキズムと呼ばれることがあります。問答体のようにしてキリストが祈りを教えてくださっている箇所だ、ということです。そうしてキリスト教会の祈りである主の祈りが与えられてきました。この祈りはそもそも、神の子キリストご自身の祈り、その写しでした。だから、聖書の神に必ず、そのまま聞き届けていただける祈りです。
 主の祈りは教会で、その集会では必ずと言ってよいほど祈られます。しかしそれは、ただ暗記してしまった型通りの文章ではなく、執拗なほどの熱心さで、必死の思いで、こころを籠めて祈るものです。そして、そのように祈るこの祈りに応えて神がくださるのが、ご自身のお力である聖霊だと、キリストが教えてくださいました。主の祈りは聖霊を与えてくれる。これは、本当に完成された祈りなのです。
 教会はこの2015年の聖霊降臨日・ペンテコステを5月24日に迎えます。この記念日に教会は、神が聖霊を注いで満たし、その力をもってこの世界に教会を造ってくださったことを祝います。聖霊によって造られ、聖霊によって生かされている教会には、聖霊を求める主の祈りが不可欠です。ですから、繰り返し、いつでも、そして活き活きと、この祈りは祈られるのです。主の祈りはまず教会の祈りです。
 この祈りは不安を取り去ります。むしろこの祈りが喜びになります。進んで祈るものになります。この祈りがわたしを生かしてくれる。わたしたちは、こんなわたしたちのためにあのみ子イエス・キリストをくださった方に、なおそのキリストに手解きしていただいて、真実に祈ることが出来ます。この祈りをいつも穏やかに祈ることが出来るかどうかは分からない。激しく祈ることもあります。徹夜の祈りということもある。キリストもそうでした。そんな激しさも含めて、徹底して、神に身も魂も委ねます。そんな祈りに約束されているのが聖霊、神のお力です。必ず神のお望みを果たしてくださる。それぞれの生活においても、この祈りを祈る人を用いて、教会を立ててくださいます。
 祈りやその言葉を学ぶのはこの主の祈りによります。この通りに祈ります。この祈りは決して空しくない。この祈りを祈れるようになったことこそ救いの確信です。この祈りこそそんなクリスチャンの生活の言葉であるし、あるいは、この祈りの言葉が、その生活の言葉になっていなければならない、と思います。
             In Christ


22

「『わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない』」(出エジプト記第20章2、3節)。


 キリスト教会には聖書を信じるために重要な文章が三つあります。使徒信条、十戒、主の祈りです。教会の正しい信仰を使徒信条に知ることが出来、これを信じて生きる生活は十戒を重んじる生活になる、そしてその生活には主の祈りが不可欠なのです。今特に、信仰生活を具体的に形造る十戒を知りたいのです。十戒は正に神の言葉です。教会はこれを畏れ敬い、これによく聞いて、何でもその通りにしたくなるのです。その前文と第一戒が上記のものです。ところで、聖書の神の子でわたしたちの救い主であるイエス・キリストは、十戒という十の神のお言葉を僅か二言にして示してくれました。その最初のお言葉に十戒の前半部分が纏められ、第二のお言葉にはその後半部分が纏められています。そのお言葉はどちらも愛を命じるものでした。神への愛と隣人への愛です。その二つで一つの、完全な愛。それが十戒の求めることだ、ということです。

 わたしたちは皆罪人です。けれども、幸いを願っているし、何より愛を求めている。何が幸いで、何が愛なのかを知らない内から、それを求めています。それがなくてはならないからです。聖書はわたしたちについて、愛されまた愛し返して生きるものだと、愛するものだと言います。だから、愛することを求めることは、まず、自分の罪から解放されることを求めることです。罪赦され、罪から救われて、それをよく自覚させられて、初めて求めることが出来るのが、愛です。だから、罪の赦しという救いを告げる使徒信条を信じる時に、愛の十戒に初めて繋がるのです。
 愛には三つの対象がある。神、隣人、そして自分自身です。わたしたちがまず知らなければならないことは、自分自身を神が愛してくださっている、ということです。そしてその神を、他のどんなことよりも優先し、愛する。自分のすべてを神のものにしていただく。それは神がわたしたちをそのように愛していてくださるからです。神はキリストさえくださったのだから。この神の愛に応える、そしてその愛に導かれ、促されて、隣人にも愛を働いていく。これが十戒に生きることです。
 十戒という神の愛のご命令は、正にその通りになさったキリストによって支えられています。キリストはわたしたちの本当の救い主であり、力です。キリストは本当に愛の人でした。この方のおかげでだけわたしたちは愛を知り、愛して生きることが出来る。すると愛は、恵まれ、与えられてくるものです。わたしたちとって愛は、恵みの賜物であって、同時に、命令であり、道標なのです。神はついにこれを贈り物として与えてくださり、そこに生きさせてくださる。この意味でキリスト教は愛の宗教なのです。愛を与えてくださった聖書の神、もう当然、わたしたちの神はこのお方だけなのです。    
In Christ

23

「『あなたはいかなる像も造ってはならない』(出エジプト記第20章4節a)。


 クリスチャンの信仰生活を具体的に形造る十戒、これは正に神の言葉です。キリスト教会もクリスチャンもこれを畏れ敬い、これによく聞いて、何でもその通りにしようとしているのです。その十戒、十の戒めの言葉の第二のものが上記の言葉です。これを言い換えれば、偶像を作ることとそれを拝むことの禁止命令です。
 偶像というのは、何かの像に仕立てた神のことでしょう。あるいは何かの像に刻んだ神のことでしょう。神はこんな方だろうか、こんな方であってほしい、と、わたしたち人間が自分の思いの通りに神を像に仕立てる。これは、実際に何かの像である場合もあるでしょうし、こころの中で、こんな方であってほしい、こんな方であるはずだ、とわたしたちが自分たちのために作ってしまう神のことも指します。偶像を作る、これは実に身近で、危険な罪です。そして、ついそのようなことをする時に、わたしたちはもう真の神でもなく、神以外の何かを求めて、拝み始めているのです。真の神以外に神はいないのに。偶像の神など初めからいない。このことをきちんと理解することは、最初の頃の教会にもなかなか出来ないことでした。使徒パウロという人が伝道、宣教をして歩き回り、そうして建てていった教会は元々、異教の神々、つまり偶像を礼拝していた人々を含んでいたからです。彼らにはその習慣があった。それが例えば食生活にも影響していた。それほど身近なものと決別して、真の神への礼拝に生きるようにならなければならなかったのです。これは、日本というこの国に生きるわたしたちにも同じことでしょう。真の神を礼拝することへと、混じり気なく、誤解することなく、きっぱりと方向転換する。それは、本当に大事な、キリスト信仰の命に関わることです。偶像信仰からは自由だ迷信からは自由だ。だからむしろ、真の神を礼拝することによって偶像信仰とは徹底して戦うのです。神は天地創造の神お一人であり、救い主もその神の子、イエス・キリストお一人です。もちろん、このためのきっぱりとした方向転換をするためには、必要な時間があるのだから、忍耐強く、もちろん妥協などせずに、戦い続ける。そうして教会は、健全に立ち続けます。
 わたしたちが教会の正しい信仰を信じて正しく礼拝をするためには具体的には、まず聖書の言葉とその礼拝説教を大事にすることによります。そのことでだけ、十戒の第二戒を守り実践することが出来るのです。その上で、教会と異教文化とのきっぱりとした違い、区別をきちんと理解して、ただ教会に生きます。十戒は、わたしたちの、プライベートを含む全生活についての戒めです。あの使徒信条は、わたしたちの生活の隅々まで救う出来事を教えている。だから十戒は、わたしたちがその生活の隅々まで使徒信条に生きるように、助け導いてくれるのです。
                        In Christ

24

「『あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない』(出エジプト記第20章7節a)。


 クリスチャンの信仰生活を具体的に形造る十戒、ですから当然、キリスト教会もクリスチャンもこれをこころから喜び、重んじます。十戒に支配された人生と生活を選択します。その十戒、十の戒めの言葉の第三のものが上記の言葉です。ここで命じられているのは、主という神のお名前の正しい呼び方、これを呼ぶ真実の姿勢だと言われます。

 つまりこれは、神を信じる者が、共に生きる人たちに悪いことがあるように願ったり、嘘や見せ掛けの、あるいは、必要のない誓いをすることに、神のお名前を用いたりしないことを命じています。他の人がそのようなことをするのを黙って見ていることもいけないと。なぜなら、そのようなことをする時、わたしたちは、神のお名前を、ただ自分の好き勝手に使ってしまっているでしょう。自分のものであるかのように、自分の都合で言ってしまっている。すると、そのように自由に、好きに名前を呼ばれている神と、そうしているわたしたちとでは、どちらが神なのか、主人なのか、分からなくなってしまうでしょう。神を自分の言いなりにしてしまっている。この恐ろしく、無意味な事態が、最近の世の中では本当によく見られます。神のお名前を口にするというのは、神そのものを言い表しているお名前に触れる、元元、本当に恐ろしいことなのです。
 神のお名前を口にしたり書いたりする時には本当に大切にそうしなければならないし、そうせずにはいられません。どんなに大切にしても、し過ぎることはない。神のお名前を呼ぶことの出来る意味を知らずにいたくありません。イエス・キリストをわたしたちにくださった聖書の神、この主という神は、本当に救いを行ってくださいました。この方は真実です。その名は聖なる、救い主のお名前です。この方は自らお名前を明かしてくださいました。ご自分のことをすべてお知らせになりました。ですから、この神に相応しい、正しい呼び方が、最初からあるのです。そうして教えていただいた真実の、救い主のお名前を大切にしないことほど、この神がお怒りになることは他にないのです。
 
本当に大事にしよう、大切にしようとして、例えば教会が、聖霊という神の力に助けられ、こころから願って必死に、しかも正確に、神とキリストのお名前を呼ぶことは、許されるでしょう。その時には、キリストのおかげで、聖書の神を、わたしたちの父と呼ぶことさえ許されるのです。それが教会で教えられる祈りに明らかです。それはむしろ、神から求められていることです。そのように祈ることが、わたしたちを神の子とし、明るく、素直で、信頼も希望もある人生と生活を造らせるでしょう。神のお名前が告げられ、それを正しく呼ぶところには必ず、祝福があります。それは何より教会の礼拝、正しい礼拝の中で起こる。神を信じる者の生活はいつもその礼拝から始まります。するとこの第三戒も、全生活でのこころに、言葉遣いや行動に関わり、それがみな清められ、導かれ、重んじられるのです。わたしたちは、神に救われ神に従う時に、その全生活が軽くもなく、無意味でもなくなるのです。
                     In Christ

25

「『安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない』」(出エジプト記第20章8−10節a)。


 十戒は、キリスト教会の正しい信仰の使徒信条にも明らかな聖書の神の愛によって愛されていると信じる者が、どうしてもそこに向かい従わずにはいられないものです。ひたすら十戒に生きる、それが、この神に愛され救っていただいた者たちからの神への応答になるのです。救いの証しになる。使徒信条を自分も信じて生きるなら十戒に生きる他にありません。時代が移り、いろいろなことが便利になり、同時に、物事の価値まで変わってしまい、時に本当に大事なことまでそうでないように思えることがある、そんな今でも、わたしたちに、決して変わることのない神の言葉を聞かせてくれているのが十戒です。上記の言葉はその第四の戒めです。これは、神がわたしたちに、聖書の学びをいつも、自分の家でも、家族の中でもすること、そしてもちろん、日曜日には教会に集い、そこで礼拝をきちんと守り献げること、こうしたことを命じているのです。さらに、そんな日曜日と同じこころで週日を過ごすなら、七日間毎日、神が喜んでくださる生活が出来る、そうしていつも救われ、祝福されて生きるように、とも、強く勧め、命じているのです。
 今安息ということをよく確かめてみます。神の子でわたしたちの救い主であるイエス・キリストは、ご自分を指して「『人の子は安息日の主なのである』」(マタイ12・8)と言われたことがあります。キリストは、聖書において待望の救い主の呼び名でご自分を指しながら切実に待ち望まれた救いのために一切を成し遂げてくださいました。彼がしてくださったことが救いです。安息と聞けば、まず、休むということを思い浮かべるけれど、するとキリストは、真実の休息についても教えてくださったことになるでしょう。だから安息は、キリストが示された神のみこころを正しく知ることから始まる、ということです。この方にこそ、この方にしか、神のことは分からない。だから教会ではこのキリストについていつも聞いて、学びます。そうして礼拝を献げる。つまりそれが本当の安息、ほっとすることなのです。救われた、真実の人生と生活をそこで与えられる。キリストは言われました、こう教えてくださいました。「『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである』」(マタイ11・28−30)
 こういうことですから、特にクリスチャンにとって、日曜日の教会の礼拝が毎日の生活の揺るがぬ中心です。クリスチャンこそこの第四戒に当然、正しく従います。そこに自分自身の救いが大きく関わっているのだから。愛され救われた者には、その愛と救いに相応しい生き方が、どうしてもあるのです。               In Christ

26

「『あなたの父母を敬え』」(出エジプト記第20章12節a)。


 十戒という聖書の神の直接のお言葉は、前半と後半に分けられます。その後半部分が上記の言葉から始まります。後半のお言葉は六つで、それをもし一言で言えば、「『第二の掟は、これである。「隣人を自分のように愛しなさい」』」(マタイ12・31a)ということです。前半四つの言葉は、聖書の主という神へのひたすらの愛を命じていました。それで神を愛して神に礼拝を献げる者は、今度は、お互いにどう生きたらよいのかということを教えられ、命じられてくるのです。隣人への愛を命じられてくる。ここに隣人愛があります。わたしたちに救い主イエス・キリストをくださった神だから、愛を教えてくださる。神の言葉には愛がある。わたしたちは、自分が愛されていればそれでよい、のでもない。自分も本当に人を愛して生きなければならないのです。

 この第五戒は、わたしたちが、父や母も、そして目上の人皆を、いつでも、悲しい思いをさせられた時にさえ、本当に大切にすることを命じています。彼らは、神がしてくださるように、わたしたちにしてくれているはずだから。すると、そのように敬うことは、神を、またキリストをこころから大切にすることと繋がっていることになります。
 ただ、親を敬いなさいと言われても、それは不可能だ、とてもそうは思えない、ということもあるでしょう。けれども、そこで気付きたいことは、もし自分がそのような境遇だとしても、自分も将来大人になり、親になるということは、あるでしょう。その時に、大人である親である自分は、自分の子どもたちにどう接するか。もし自分が愛されてこなかったとしても、自分も愛さないというわけにはいかない、と思います。愛ということ、自分も人を愛するということは、それが自分の経験の中になかったとしても、正しいことです。なぜなら、それが神のお言葉であり、命令だからです。愛はわたしたち人間のものではないのです。すると、神の言葉に従って自分も愛することで、愛されること、尊敬されることも知るでしょう。「あなたの父母を敬え」ということもやはり、聖書の神からの、わたしたちを救う方、救ってくださる方からの、約束と命令の言葉なのです。この「あなたの父母」は、実の両親に限らず、養父母や義理の両親も含みます。その人たちを敬うこころがなければ、人は皆、物事を破壊的に考える生き方を選んでしまい、命の尊さを実感出来ないでしょう。その人たち、特に両親を軽んじると、与えられた命という考え方も薄れる。わたしたちの命は、ごく当然のこととしてこのように生きているのではなくて元々両親を通して与えられてきました。それが分からないなら、他者の命を大切にしなければならないというこころも、分からないでしょう。命は神から与えられるということを教えてくれるのが親であるはずです。親を通して、主なる神の創造のお働きを学ぶ。親は神の救いの物語の語り手、証人です。人が誕生して成長するには、そのような意味で、親の献身と犠牲がどうしても必要です。親は自分たちの語る聖書の言葉で子どもたちを育てる。するとこの第五戒は、子どもたちに教えられているだけではなく、親たちにも教えられているわけです。十戒は、家庭での生活、親子のあり方、子育てについても教えてくれています。わたしたちはこれらのことも教会で教えられ、学び、その通りに生きるのです。もし結婚はしなくても、親子でない、ということはない。だからこの第五戒は、わたしたちに一番身近で、親しいはずの人間関係の内から、それを確かな事実だと知って受け容れることが人間として生きる基本なのだ、と言うのです。もうそこから、救いの信仰がなければ成り立たないわけです。しかもそれを神が命じてくださっている。子どもにとってその両親は、自分の肉体の命の通路になっているだけでなく、神の恵みの通路にもなっているのです。
 十戒の後半の言葉には、どれも、難しいものはありません。分かり切ったことが言われています。しかし、本当にそれを聞き、こころに素直に収め、そしてその通りに生きていくというのは、信仰がなければ出来ない。このことを決して忘れず、この後半のお言葉をみな、大事に学んでいきたいのです。
                In Christ

27

「『殺してはならない』」(出エジプト記第20章13節)。


 あの有名な十戒は、旧約聖書に書かれた言葉ですが、旧約聖書だけのものではありません。むしろ、キリスト教会でイエス・キリストを伝える礼拝説教を伺い、それを信じるこころを造っていただいた人が教会の洗礼を授かることが出来たなら、そのことに相応しい生活をする。それが十戒に従って生きる生活です。十戒で命じられていることが正しいと分かる、だから十戒を拠り所とし、命綱とする人生と生活を生きようとするのです。十戒は教会にこそ深い関わりがあります。

 ところで、教会は愛を訴えます。その愛は、自分が愛される、人が自分を愛してくれる、ということよりも、むしろ、自分が人を愛することを言うのです。それなら、特に教会の人は誰でも、こころの中でも、言葉や行動によっても、人を憎んだり傷付けたり命を奪うようなことを、きっとしないでしょう。いつか仕返ししてやる、などと考えるはずがない。それが、自分にも、そして人にもある神の愛を知って自分も人を愛せと命じられているからです。それが神のご命令だからです。だから教会に当然あるはずの愛の関わりは欲望などではないし感情的なものでもない。むしろ、誠実で、理性的なものです。そのために、自己中心的な思いと、いつも戦います。
 人を羨ましく思ったり、妬んだり、憎んだり、怒ったり、仕返しをしようと考えて、ついには人の命を奪うことさえ起こってしまうことが自然なことであるはずはない。そんな時に明るいこころでいる人はいないからです。するとわたしたちは、すぐに暗い影の掛かるこころで、友人やすべての人と生きることにもなるでしょう。実際の行動に表れなくても、こころの中でもう人の命を奪ってしまう。けれども神がそんなことをわたしたちに望まれるはずがないのです。むしろ、明るく、皆共に生きるのが本当だ、と言われます。それには我慢が要ることもある。しかし、いつも明るく、優しく、助け合って生きるための我慢、忍耐なら、わたしたちはそれを望むのではないでしょうか。誰かが何か悪いことに遭いそうなら、出来るだけ守ってあげたらよい。そうでしょう。そんなことは余計なお世話だ、いや、そんなお人好しの生き方でよいか。よいのです。神がわたしたちを、そうしてごらんなさいと、いつも励ましてくださる。
 「殺してはならない。」あなたがそんなことをするはずがないと、どんなにうっかりでも、我を忘れていても、ふと浮かんだその思いが間違っているのだから、してはならないと、わたしたちに訴えます。衝動のような、仕方がないとも思えるそんな思いを、神が叱ってくださる、禁じてくださっている。神は生きて、わたしたちを愛してくださっています。わたしたちは本当にその愛のままに生きるものなのです。神の愛と救いを知って、この愛によってお互いに生かし合おう。そのように命を与え合おう。
 「殺してはならない」と命じられているのは、神が命を造ってくださった方だから、すべての命はこの方のものだから、神が造ってくださった命、人格を、他の人、わたしたちが、自分の勝手で殺し、奪ってしまうことが殺人なのだから、それは駄目だ、ということです。神のものである命を、わたしたち人間が自分たちの好きにしてしまうなら、人間が神になってしまう、神のように振る舞ってしまう。だから殺人は罪なのです。神は、愛をもってわたしたち生きる命を造ってくださいました。その愛があるから、あなたが人を殺すはずがないだろう、と言うのです。自殺もまた、そんな神の愛に背くことです。わたしたちは、自分を神にしてはいけないのです。
 わたしたちが皆幸いに生きるという時に当然の生き方を、今本当によく学びたいと願います。               
In Christ

28

「『姦淫してはならない』」(出エジプト記第20章14節)。


 十戒は、これこそ聖書の神の言葉、特別な、宝のような言葉です。その前半の第一−四戒は、神への愛を命じている、つまり礼拝について教えています。後半の第五−十戒は、礼拝を献げた者たちが、礼拝を献げたからこそ、今度は彼ら同士で、お互いにどう生きたらよいのかということを教え、命じています。つまり、隣人への愛を命じているのです。今、その第七戒、「姦淫してはならない」という隣人愛の戒めを学びます。
 これは、神がわたしたちを男と女に造ってくださったことを大切にして、わたしたちもお互いに大切にし合う、ということを命じています。だから、結婚すれば、男性は結婚したその女性をこころから大切にするし、女性も結婚したその男性を本当に大切にするのです。結婚するということは聖書の中では非常に大事な約束事です。男性も女性も、結婚しても、こころから神に感謝し神を讃える生活をするのです。第七戒はその生活を命じているのです。
 ところで、姦淫とはそもそも夫婦の問題です。特に他の人の妻の、または他の人の妻との、許されていない関係を持つことを言います。昔、聖書の民、イスラエルの人々が住むことになった土地では、きちんとした、当然の夫婦の関係を壊してしまうような関わり方をすることが、しばしば見られました。しかしイスラエルにはそれは許されなかった。聖書の神がお許しにならなかったのです。極刑をもって報いました。姦淫は、普通の、当然の結婚の約束を破ってしまい、結局、秩序が崩壊してしまうからです。
 姦淫はイスラエルの人々にとっては特に宗教的な問題でした。旧約聖書では神に背くことが姦淫の罪に譬えられています。すると、夫婦の関係を軽んじることは、神との関係を軽んじることにもなる。イスラエルには、神に背き、裏切って、他の神と関わりを持つことなどはあり得ませんでした。それに、結婚も出産も、家庭を持つことも、すべては神の恵みです。姦淫の罪はこの恵みを壊してしまう。だから姦淫は決して許されないのです。姦淫は神の創造に反し、神の愛を否定してしまいます。夫婦の関わりはついにはキリストとその教会との関わりの譬えにもなりました。聖なるものであるのです。
 
結婚が聖なるものであり、それだから重んじられるという時、姦淫が正しい夫婦の関係、結婚の関係を壊してしまう罪であると聞く時、同時に気付いていたいことがあります。それは、結婚において初めて許され、意味を持つ男女の関係は、結婚以外のところで許されてはならない、ということです。なぜ許されないか。それは、結婚と未婚の区別がなくなるから、です。教会の礼拝において行われる結婚の約束は誠実で聖なるものです。一人の男性が一人の女性に、一人の女性が一人の男性に、きちんと責任を持つことを、神のお名前において約束します。それは結婚の関係以外に責任の取れることではありません。今は子どもたちの間でも性の問題がとても自由に考えられてしまい、乱れてしまっているようです。子どもたちが肉体関係を持ってしまうこともあるようです。しかしそれは、聖書から見れば、教会の信仰から言えば、大変な間違いであり、罪です(ヘブライ書13・4も参照)。聖書では男女のそうした関係を結婚後と決めている。結婚後に初めて許される、結婚の意味である、と言っています。だから、もし男女が恋愛の関係にあっても、その関係の持ち方は許されません。聖書や教会の信仰においては、それは祝福されないことであり、罪です。このことをぜひ知っていてほしい。このことを間違えないでほしい。それは教会では、つまり神には、許していただけないことなのです。
 この第七戒は、わたしたちが自分の頭で、自分の力で、考えたり、これを守ろうとする時に、その正しさも、大事さも、分からないでしょう。そうして、どこまでもわたしたちの生活は基準と秩序を失い、乱れてしまうでしょう。取り返しが付かなくなる。しかしそうではなくて、聖書の神に教えられ、命じられ、いつもこの神の見ておられる前でわたしたちが男であることや女であることを、きちんと知るならこれがどんなに大事で、わたしたちを守ってくれる戒め、命綱であるかが分かるはずです。わたしたちは、神がわたしたちにくださる救いと幸いの中を、男性として、女性として、結婚したらその大事な約束をした夫婦として、生きるのです。むしろ、それが当然のことなのです。
                             In Christ

29

「『盗んではならない』」(出エジプト記第20章15節)。


 「盗んではならない」というこの戒めは人の行動の自由を守ることを命じています。この戒めも隣人、人への愛を教え、命じています。ところで、十戒はそのすべての戒めを守ることが大事でまた当然のことです。一つを守っていればその他のものを守れなくてもよい。そんなはずはありません。十戒のすべてを聖書の主という神、イエス・キリストをくださった神が教え、命じてくださっているのです。
 「盗んではならない」、これは、人のものを盗んだり、力ずくで奪ったりすること、もちろん、嘘を吐いて人のものを自分のものにしようとすることもみな禁じています。わたしたちの持ち物はすべて神が一人ひとりにくださったものです。そこに違いがあっても、自分のものも人のものも、大事にしなければならないのです。
 
さて、盗むと聞くと、わたしたちが連想するのは、物を盗むことです。ただこの第八戒も、人間同士、どう生きたらよいのか、ということを教えている戒めだから、人に関わること、つまり、誘拐を禁じるものであったようです。奴隷として売ってしまう目的で人を盗むことを禁じたのです。これを最初に聞いたイスラエルの人々も昔、奴隷にされていました。彼らは、聖書の神の救いの力で奴隷の家エジプトから導き出されたのです。奴隷にする、奴隷にされるということがどれほどひどいことなのか、自分たちの体験でよく知っていました。だから、それならまさか、一緒に生きる人を奴隷にさせてしまうようなことを、するはずがないでしょう。イスラエルの仲間を。今は自由になっている、その人から再び自由を奪うな、と言っているのです。もしまた奴隷にさせるなら、自分たちへの神の救いを否定してしまいます。人を盗むとはそういうことで、こんなに大きな罪はない、と言えるほどです。人もその持ち物もみな神のものです。神がお造りになり造られたその人に、それぞれお与えくださったものです。そんな人間を、物を盗むなら、それは神のものを盗み取ったことになる。神が救いを与え、自由を与え、それをお互いに守って、共に、健やかに、救いの神のお言葉通りに生きるように、と命じるのです。他人の物を自分のものにすることは出来ないでしょう。まして神のものであれば。人間が神のようになって、人や物の支配者になることは決して出来ないのです。わたしたちが、共に生きているお互いを、自分の思うように利用してしまおうという、その人を人として重んじることをしないのではなくて、本当に、お互いに、神が命じてくださる救いと自由と信頼に生きるように、したらよいのです。
 この戒めの言葉を聞くと、わたしたちの、共に生きる人やその人たちの持ち物を見る目が、本当に潔められます。わたしたちが自分に出来ること、しなければならないことを一所懸命に、正しく行っているということが、それだけでもう人を助けるようになることにも気付かされます。このお言葉がわたしたちに、どんなに明るくて、満ち足りた、自由で、積極的な生き方を命じてくれているか。清々しく、生き甲斐のある人生を与えてくれるか。そしてそれが、聖書の神の救いの力であるわけです。
                     In Christ

30

「『隣人に関して偽証してはならない』」(出エジプト記第20章16節)。


 キリスト教会の洗礼を授かり、クリスチャン・教会員とされて、どんな生活をしたらよいか。相応しいのか。それは、その人自身が責任を持って選び取るべきもので、しかも、既に明らかです。それが十戒に生きることです。これだけを日々追求したらよいでしょう。上記のものを含むその後半部分は、教会の礼拝を献げる者たちが、礼拝を献げたからこそ、今度は彼ら同士で、互いにどう生きたらよいのか、ということを教え、命じています。隣人への愛を一言ひとこと命じています。上記の第九戒は、あなたがたは隣人の名誉を守らなければならないのだ、と命じています。そう、わたしたちが、嘘を吐かず、いつも本当のことを言うこと、だから、人の言葉を伝える時もそのまま伝えること、その人がいないところででも誰かを悪く言ったりもしないこと、そうしたことを教え、命じています。神が嘘や誤魔化しをなさらないのだから、同じように、いつも正しいことをするのです。聖書に書かれた正しいことをいつもして、何か言う時にも正しいこと、本当のことを、素直に、きちんと言う。理解し難いことではないと思えます。
 偽証とは裁判用語です。裁判を開いて善悪をはっきりさせなければならないようなところで、故意に嘘の証言をし、人を罪に決めてしまうことを言うのです。聖書の民、イスラエルの中でさえ、例えば欲張りな人や力の強い者たちが裁判に関わってきて、そんな偽証によっていつでも自分たちに有利なように裁判を操作してしまい、不正に財産を積んでしまう危険などがあったようです。人間はそれほど弱く、罪深いものです。平気で、わざと、嘘を吐く。本当に残念なことだけれど、人間の罪が、むしろ罪を裁くべき裁判において現れてしまうことが、実にしばしばあるでしょう。そしてその心裏にあるのはいつも、自分の利益のために、ということに違いないのです。
 証拠を言うべき人が真実の言葉をきちんと語るのは当然です。わたしたちが皆一緒に生活をするために、本当に基本的なことです。だから神が教え、命じてくださっているのです。それに背く人間の、彼自身の欲望が隣人を愛するこころをなくさせ、無視させる。ついそうしてしまった、ということでも、どうしても自分のために、自分を守りたくて、人を押し退け、人を傷付け、裁こうとする。イエス・キリストの十字架刑を決めた裁判も、そのような思いによるものでした。わたしたち皆に分かる、皆が持っているその思いが、キリストを十字架に死なせたのです。それは正に悪魔の業です。神を知らないこころと行動です。
 
この第九戒も、聖書の主という神に救われた人たちの間でのことですから、神の名前において裁判でも誓い、証拠を述べることを考えています。そこでもし嘘を吐くなら、自分は神に呪われてもよい、捨てられてもよい、ということも含んでいます。偽証というのは神を騙そうとすることでもある。嘘や悪口は神に対してのものになる。それは結局、裁判だけでなく、家庭でも、学校でも、職場においても、どんなところででも、自分が何かを言わなければならない時には、いつも当てはまることでしょう。そこでわたしたちはどうしたらよいか。隣人についての偽証を防ぐなら、どんな場合でも、公正と真実を守ることが出来るでしょう。隣人への真実の言葉を常日頃語っている人こそ裁判の場においても真実を語ることが出来るでしょう。いつも真実でありたい。わたしたちが人についてそれぞれのこころの中で持つ思いに本当によく注意していたい。こころが、言葉と行いに現れてくるから。
 この戒めも、本当に当たり前のことだけれど、人間の考え、判断によっては、どれほど簡単に壊されてしまうのか、と言えるものです。だから、わたしたち皆の救い主の言葉として、聞き直したいのです。この神に救われ、教えられ、命じられるから、わたしたちはそれをしなければならない。だからそれが神の救いの力なのです。わたしたちは皆「心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」(エフェソ書4・23、24)。 
            In Christ


31

「『隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない』」(出エジプト記第20章17節)


 キリスト教会の洗礼を授かり、クリスチャン・教会員とされて、どんな生活をしたらよいか。それはもう一つしかないのです。十戒に生きることです。十戒は聖書の神からの直接の戒めの言葉です。クリスチャンが神の目に適って生き続けるための、神からのガードレールなのです。
 特にその後半の六つの戒めは、教会の礼拝を献げる者たちが、礼拝を献げたからこそ、今度は彼ら同士で互いにどう生きたらよいか、ということを教え、命じています。隣人への愛を一言ひとこと命じている。そこで、上記のように、あなたがたは人の財産を守らなければならない、とも言われています。この戒めはわたしたちの欲望を禁じ貪欲を戒めています。あれがしたい、これがしたい、あれがほしい、これがほしい。そればかりであることを禁じています。だから当然、隣人の持ち物を羨ましく思い、ほしがり、それを自分のものにしようとする行いなどを禁じ、戒めます。この戒めを破り、これに背くところでは必ず、隣人との関係も壊れます。上記の第十戒は、これが罪だという状態を見せてくれています。まだクリスチャンでない人も、今よく考えてみたらよいと思います。
 十戒はこの戒めで完成します。この第十戒は十戒全体を纏めているとも言われます。わたしたち人間が自分中心で生きようとすれば、どんな時も自分の思いだけを貫こうとするでしょう。そうして、貪欲の思いに駆り立てられて、結局は十戒のすべての戒めを破ってしまう。それが偽証になるか、盗みとなるのかは分からない。しかしわたしたち人間は、そんな生き方をするものではないのです。十戒がいつもそう教えてくれる。神が、救われて幸いに生きるために、わたしたちを戒めてくださるのです。わたしたちがしたいことでも、神がよいと思われないことはしない、わたしたちがしたくないことでも、神がよいと思われるなら、したらよい。実にシンプルです。
 第十戒が最後の、十戒を纏める言葉です。結局、決して自分ではなくて、神を、イエス・キリストを第一にすることを命じているからです。キリストの弟子たちは彼に従うために、自分の持ち物を捨てるように命じられました。いや、捨てさせていただいた、献げさせていただきました。すると、そのことが第一にあって、それで初めて、そこから与えられてくるすべてのもの、それが何でも、掛け替えのない、愛すべきものであることが、分かってくるのです。それを愛そう、大事にしよう。それが分かった時に、貪欲とはもう別れることが出来るのです。本当の意味で神に恵まれた人になる。隣人を愛することが出来るようになります。それならもう、他のどんな生き方をする必要もないのではないでしょうか。
 
               In Christ


32


「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」(テサロニケの信徒への手紙 第4章13、14節)。


 キリスト教会は3月27日に、西暦、つまり主の年2016年のイースターを迎えました。この日はイエス・キリストの十字架の死からの復活を記念して祝う日だと最近はよく知られています。もちろん、教会とそのクリスチャンがこの日ほど聖書の神からの祝福と喜びに溢れる時はありません。復活がキリストだけのものではなく、彼を信じる者も皆、死んでも生きる、地上の命に生きている今既にキリストの復活の命の中に捕らえられ、彼のように、彼と共に、死を越えてしまうと信じることが許されるからです。

 さて、最初の教会の時代の伝道者・牧師であったパウロという人がキリスト信仰における希望と慰めを、彼だからこそ語り掛けるのに、やはり同じように、語り掛けました。それが上記の言葉です。イエス・キリストの復活を根拠としたクリスチャン・教会員の復活についてです。彼は、既に逝去したクリスチャンたちはキリストが再びこの世に来られるという、世の終わりの時に、どうなるのか、また、その日、その時はいつ来るのか、ということを教えています。確認させています。
 今日でももちろん、そして当時既にそんな問いがありました。終わりの時が差し迫っているというのは、キリスト信仰の大事な側面です。しかしそれでも、その終わりの日再臨の日以前に死んだクリスチャンたちがもういたわけです。それなら、どういうことになるのか。またその日その時まで生き残る者たちにはどうなのか。しかし急所はここでも、キリスト信仰にあるならば、キリストと同じように死んで彼と同じように復活させられる、ということです。クリスチャンの人生の本当の時間表は、命から死へ、ではなく、死から命へ、です。命、永遠の命に生きることです。その祝福を知ったなら、人生が死をもって終わりではなく、永遠の命の流れの中の歩みだと信じて生きることが出来るようになります。すると、永遠の価値あるものによって自分の人生を造ろうとするでしょう。愛や希望も初めて有意義なものとなり、人生に生き甲斐が見出されます。初めて、大切に生きるとはどういうことか分かる。そして、それはすべての人が与えられるべきものです。教会はそのことを知らせてくれます。キリストを信じた時にあなたも復活を約束される。キリストの復活が事実である以上、このことがわたしたちの将来を左右するのです。パウロはこうしたことを確認させているのでしょう。

 わたしたちは、命から死へと生きるのか、死から命へと生きるのか。地上の死を迎えても、それは一時の眠りであって、終わりの時にキリストと同じように復活させられることを約束される。このことが結局人生最大の慰めであり、希望でなくて、他に何があるでしょうか。                             In Christ

33

「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」(エフェソの信徒への手紙第2章22節)。


 キリスト教会の古くからの信仰の言葉に使徒信条があります。その中に、「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」を信ずる、という言葉もあります。父と子と聖霊という、聖書の証しする三位一体の神を信じる中で、特に聖霊を信じる中で、「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」も信じます。短く言い換えれば、神を信じることと教会を信じることは分けることが出来ない、ということです。教会も普通、それが立てられている土地の人々がそこに礼拝を献げに集まっているでしょう。人間の集まりには違いないでしょう。けれども、その人々によらず、教会は元より聖なるものであり、聖なる人々の交流が行われるところなのです。各教会が聖なるものでも、聖なるものにならなければならないのでもなくて、教会とは聖なるものであり、聖なる人々が集められるところです。大体、聖なる、という言葉は聖書の神だけに当てはまる言葉です。だから、みな神によって建てられた教会であり、神によって選ばれ集められた人々だから、「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」と言い、信じることが出来るわけでしょう。
 教会には様々な人々が集められています。教会でなかったら一緒にいることはないのではないか、と思える人々が、一緒に、同じように集められています。なぜそうして一緒に、共にいるのでしょうか。いられるのか。様々な、違った人々が一緒に教会を建てようとするならむしろばらばらになってしまいそうです。ではどういうことでしょうか。それは、聖なる神が、ご自分の聖なるご計画によってご自分の聖なる教会を造るために、様々な人々をお選びになり、集めてくださった、皆同じ、一人の聖なる神によって集められた、同じ、一人の救い主イエス・キリストを信じる信仰によって集められたキリスト教会、ということです。同じ、一人の神が集め、同じ一人の救い主を信じさせていただいている、だからそこで一つだ、ということです。誰もが聖なる教会に、聖なる交流を持つために、集められるのです。聖なる交流とは特に、教会の信仰による洗礼と聖餐です。これらのことが本当に大事なことです。教会に集められた人々は、それを守る義務と責任を果たす時、聖なる者、聖徒と呼ばれるのです。
 ではその義務と責任をきちんと果たすために、求められることは何でしょうか。それは、平和の実現ということでしょう。
 平和を実現する。言葉にするのは簡単です。けれども、何が平和であり、どうすればそれを実現出来るのか。丁寧に、そして積極的にそう考え出すと、とても大きなことについて考えていることがすぐに分かります。何もなければ平和なのだ、ということはないのです。むしろわたしたちは、誰も平和に過ごしていない。誰かと、何かと関わりを持とうとすると、すぐ争いになり、憎しみ、敵意、悪意を持って、果ては戦争にまでなり、家族の間でも、友人だと思っている人との間でさえもそうなりそうなのを、何とか避けている、というのが事実ではないでしょうか。しかし結局、そうしたこともみな、それぞれの自己中心的な考え方、生き方の結果でしょう。自分の都合、自分のために、ということがいつも一番にあるからでしょう。悪意も、敵意も、そこから生まれる。だから、平和を実現することが出来ません。わたしたちはそんな罪人です。実は誰もが争いに、戦争に、あの人がいなければ、と思うこころと行動に傾いてしまうのです。そんなわたしたちが平和を実現する、どうしたらよいのでしょうか。
 だから、聖なる神が、ご自分の聖なるご計画によって、ご自分の聖なる教会を造るために、様々な人々をお選びになり、集めてくださるのです。そこに集められる人々は同じ、一人の聖なる神によって集められる。同じ、一人の罪からの救い主キリストを信じる信仰によって集めてくださいます。同じ、一人の神が集め、同じ、一人の救い主を信じさせていただいている。だからそこで一つです。教会に集められる人々は皆、聖なる教会に、聖なる交流を持つために、集められている。わたしたちではなく、神が、キリストが、聖霊によってそのように導いてくださるのです。教会に招かれ、導かれて、集まるということが、平和を実現することになるのです。言い換えれば、教会に集まるということは、わたしたちが皆、自己中心、自分の都合、自分のために、という考え方や生き方をきっぱりと捨てること、捨てさせていただくことなのです。
 教会は昔から、初めから、そうでした。それは各教会のことではなく、教会というものはそういうものだ、ということです。
 In Christ

34

「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです」(エフェソの信徒への手紙第6章1節)。


 キリスト教会は6月に、花の日・子どもの日と呼ぶ日曜日を過ごすことがあります。この日の礼拝で特別に花を飾り、その花と共に、子どもたちを神に献げる思いで、彼らに聖書の神が祝福を注いでくださることを祈り求めます。さて、子どもたちがその祝福に生きるとはどういうことでしょうか。一つ確実に、上記の聖書の言葉のようなことが言えると思うのです。
 子どもがその親から理不尽な扱いを受けることもあります。けれども、その父を、母を、そして彼らの目上の人皆を、いつでも、本当に大切にしなさい、と言われます。これは単に倫理、道徳の問題ではなく、親や目上の人たちは神がしてくださるように、子どもに接してくれているはずだから、ということなのです。すると、親を敬うことは神を敬うことと深い関わりがあることになります。
 親を敬いなさいと言われても、それは不可能だ、とてもそうは思えない、という場合もあるでしょう。親を知らない子、親に捨てられたような子もいる。親を恨む子どももいるでしょう。けれども、そこで気付きたいことは、もし自分がそのような境遇だとしても、自分も将来大人になり、親になるということは、あるわけでしょう。その時に大人であり親である自分は、自分の子どもにどう接するのか。もし自分が愛されてこなかったとしても、自分も愛さないというわけにはいかないのではないでしょうか。愛ということ、自分も人を愛するということは、それが自分の経験の中になかったとしても正しいことです。なぜなら、それが神の言葉であり、命令だからです。むしろ、神の言葉に従って自分も愛することで、愛されることや尊敬されることも知るでしょう。
 また、実の親に限らず、養父母や義理の親も含めて、彼らを敬うこころがなければ、人は皆、物事を破壊的に考える生き方を選んでしまい、命の尊さを実感出来ないのではないでしょうか。親を軽んじると与えられた命という考え方も薄れます。わたしたちの命は、ごく当然のこととしてこのように生きているのではなくて、元々親を通して与えられてきました。それが分からないなら、他者の命を大切にしなければならないというこころも分からないでしょう。命が神から与えられるということを教えてくれるのが親です。親は、神に造られた人間が人間として他者と一緒に生きる実際の生活について教えます。親を通して、神の創造のお働きを学ぶ。親は神の救いの物語の語り手、証人です。人が誕生して成長するには、そのような、親の献身と犠牲が必要なのです。親は自分の語る聖書の言葉で子どもを育てる。だから根拠がある。親もそのことを学ばなければなりません。親が子を虐待死させてしまうなど、あってよいはずがないのです。
 わたしたちは、もし結婚はしなくても、親子でない、ということはない。わたしたちには、自分に一番身近で、親しいはずの人間関係の内から、それを確かな事実だと知って受け容れることが人間として生きる基本です。親にとっても子にとっても。もうそこから、救いの信仰がなければいけない、成り立ちません。子どもにとってその父と母は、自分の肉体の命の通路になっているだけでなく、神の恵みの通路になっているのです。
                    In Christ

35

「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」(申命記第30章14節)。


 旧約聖書申命記第30章は、直前に主なる神の審きを描き、だからこそ再び主を愛し主に忠誠を誓うことで、神の民イスラエルの繁栄の回復がある、将来への見通しが立つ、という希望を語っています。言い換えれば、イスラエルは、彼らが命であり祝福であることを選び、神の愛を改めて受け容れて、その声に聞き従い、幸いへの決断をすることが求められるのです。神に帰って生きよ。これは聖書の読み方だとも言えるでしょう。そこには切実な響きがあります。
 自分たちの不従順と背きという罪の結果としての神の審きが呪いの只中で自覚された時、再び主に立ち帰る。そして再び全身全霊で、呪いの真只中でも、主の声に聞き従うなら、繁栄は主によって回復され幸いは再び与えられるのです。自ら招いた呪われた現実から、神の憐れみと赦しにより、完全な従順へと帰ってくることが出来るように励まします。本当に不義な者たちを義とし、そうして彼らを潔めることが神の愛によって言われてくる。この神への信仰は、昔のイスラエルも後のキリスト教会も、同じです。
 主なる神の戒めを守ること、主を愛することが出来るようになるその主導権を、主ご自身が取ってくださいます。これは極めて重要なことです。主がご自分の戒めを守らせご自身を愛させてくださる。感動的なことです。広く人間皆に、その戒めを守り主を愛することがもう出来ないことをよく分かっているのです。わたしたちが皆罪人であることをよく知っている。人が立ち帰ることは、神がそうさせてくださるのでなければ不可能なのです。罪は必ず審かれます。けれども審かれて、呪われて終わる、のではない。罪による真っ暗な現実が一切の終わりなのではない。その審きの向こうに、赦しと正に主なる神によって罪人が立ち帰らされるということがあります。救いはすべて主に係っています。わたしたちは自分の罪の深さをこころから認める時、認めさせられる時、このような救いに強く動かされ、強く感動させられて、感謝するでしょう。回心と繁栄の回復は主なる神の賜物なのです。
 その上で、神の言葉を聞いて学び、これに従って生きるということが切に願われ、しかもそれが本当に可能だと強調されています。人がどんなに弱く、罪深くても、その人を憐れんで、主なる神が彼にご自分の戒めを守らせ、ご自身を愛させてくださる。主がご自分の懐に帰らせてくださいます。そうして、主なる神のご意思に生きることは難しいものでも遠いものでもない。そして「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」のです。神の言葉があることによって認められるその確かな近さも、神ご自身によって実現されるのです。
 主なる神の憐れみによって、神の言葉は「あなたの口と心にあるのだから」、教えられ学ばれ、習得され得るものであって、それは実践されるでしょう。この神に生きることは、どこか余所にあるものでも他人事でもないのです。主の憐れみによれば、罪人には最早、真に神の言葉は近いのです。そして、その言葉に聞き、神に服従し、幸いをいただくのは、常に今日のことです。今日がその選択と決断の時です。
                                    In Christ

36

「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように」(ローマの信徒への手紙第15章5、6節)。


 聖書、とりわけ新約聖書の中には、手紙の形で書かれた文書が21あります。新約聖書には全部で27冊の書物が入っています。その内の21が手紙です。その中のローマの信徒への手紙という文書の中に上記の言葉があります。元々ローマという街で暮らしていたキリスト教会の人々に書き送られた手紙です。そんな手紙が、時代も場所も移って、現代の日本の教会でも読まれている。もう二千年近くの間ずっと読まれ、またあちらこちらで読まれるようになったこの手紙、その終わりのところにも、わたしたちもぜひ知りたい、受け取りたい事柄が、書かれてあるのです。
 上の言葉の直前にイエス・キリストについてはっきりと書かれています。そしてそこで、教会の信徒たち、クリスチャンたちに、あなたがたはあのキリストを思い出しなさい、彼は、自分のではなくて、自分と一緒に生きて暮らしている人の救いと幸いを、いつも求めておられた、神の子であるご自分の命を十字架の死に捨ててしまわれた、それほどまでに、と言いました。それはわたしたちの一人ひとり、どの人のためでもありました。誰のためにもなってくださった。だから、どの人も、同じように、そのキリストをこころに思ってほしい。そうしてどの人も同じ、一つの声と一つのこころで、そのキリストをくださった聖書の神を、喜ぶことが出来るようになってほしい、と。
 誰のためにも、どの人も、同じように。わたしたちの中には、例えば強い人も強くない人もいるでしょう。何かについてそれが出来る人と、出来ない人がいる、と言ってもよいかもしれない。いいえ、信じることが出来る人と信じ切れない人、ということでもあります。しかしそこで大事なことは、そんな、強い人も、強くない人も、今一緒に生きている、ということです。そうして一緒に生きているのにはやはり、強い人は強くない人を思い遣ることが必要でしょう。同時に、強くない人は、だからと言って、それに甘えていたらいけない。特に強い人がまだ強くない人のために、相手のために、その人を喜ばせ、お互いの向上に努めるべきだ、ということになるのです。相手のために生きる、ということ。それは結局、強い人も強くない人も、お互いに支え合って生きる、ということになるでしょう。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くように。それがよいことであるのは、もちろんのことでしょう。正にキリストがそのような方でした。
 その上で大事なことが出てくるのです。それは、そのように一緒に生きるのは、何のためか、ということです。ただ一緒に生きるためというのではなくて、それは、やはりどの人も同じ、一つの声と一つのこころで、わたしたちにあのキリストをくださった神を喜ぶことが出来るようになるため、ということです。そのためにこそ、そうして、一緒に生きる、と言っているのです。これが大事なことです。
 一緒にいるようで、しかしすぐにばらばらになってしまうようなわたしたちでも、神は、神が、ご自身においてそんなわたしたちを本当に一つにしてくださる。それが神の願いであり、救いだ、ということでしょう。                   
    In Christ


37

「イエスはお答えになった。『わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ』」(ヨハネによる福音書第5章17節)。


 これは、エルサレムという街で起こったある出来事を結論付ける聖書の神の独り子、イエス・キリストの言葉です。その出来事の中で、会話が交わされ、重ねられていく度に事の真相に迫り、そうしてはっきりと、キリストは何者かということを、わたしたちにも明らかにしてくれています。38年間病で苦しむ人がそこにおり、キリストは彼に近付かれ、関わられて、ご自分のお力によって癒してくださいました。ただそれが、安息日という、ユダヤ人の間で特別の日に行われたことだったために、論争の発端となりました。けれども、その論争が結局、キリストはどなたであるのかという真相に迫る入口となりました。ただそんな彼を、ユダヤ人たちは当時信じなかった。その様子にユダヤ人に限らず、わたしたちの罪ということがはっきりと示されています。それは、イエス・キリストを信じないことです。キリストを拒む、そのお言葉を拒む。それは救い主の言葉です、救い主の働きです、そんな、わたしたちの命の救いを担う方を受け容れないのだからそれこそが罪に違いない。今も昔も、キリストへの無関心も、疑いや異議、非難と憎悪と殺意さえありました。そこに人間の本当に悲惨な姿がある。しかし、むしろそこで、キリストがどなたであるかが明らかにされたのです。癒された当人もこう言われました、キリストを拒むな、拒むなら神の審きを招く、と。これは、あなたにも神から与えられた、人間を生かす、罪の死から永遠の命へと移す、そのお力を働いたその方をあなたは拒むな、信じなさい、ということでしょう。
 キリストはどなたなのか。これは極めて重要な問いです。これに正しく答えることが出来るでしょうか。クリスチャン・教会員にとっては、自分の受洗準備の学びを想い起こしましょう。それはまた、キリストに留まる、繋がっている、ということです。留まるということは出て行かないということです。繋がっているということは離れないということです。キリスト教会の洗礼・バプテスマを授かった経験、それは救われた経験です。その救われた時に、確かにキリストを得た、いいえ、キリストに自分自身を捕らえていただきました。その時に、もう他の何のものでもない、誰のものでもない、自分のすべてがキリストのものとされ、そうしていただいたのです。
 救いに無関心であるというのは、救いが必要ないと思っているか、あるいは、救いなどありはしないと思っている、ということでしょう。後者の方が深刻です。もう自分には救いがないことを暗黙の了解として生きている。希望はもう失われ、他者への信頼もない。キリストはそんな人を見詰め、よくなりたいか、本当に救われたいだろう、と言ってくださいました。罪人であるわたしたちには弱さがある。それが時に病として現れます。その罪によってもう絶望と滅びに生きる以外にないのに、その人を、神の独り子キリストは、その栄光を現わして、救ってくださいました。それは確かに、人間を滅ぼす罪の現実からの解放であり、進んで罪と戦う苦悩と重荷を担って歩むことさえ出来るようにしてくださる救いです。一方、彼を知ることのない者たち拒んだ者たちのこころの闇はどんどん深くなると聖書は描きます。キリストは、その闇の中でも、神と等しく振る舞い、最後まで神の独り子としての本領を発揮してくださいました。神の愛のためです。わたしたち罪人の世に、神そのものとして来られて、その愛の働きをすべて果たしてくださいました。だからこの方にだけ神を知ることが出来ます。この方のところでだけ、わたしたちはよくなる。教会はいつでもそれを知らせています。        
       In Christ

38

「『ベツァルエルとオホリアブ、および知恵と英知を主から授けられ、聖所の建設のすべての仕事を行うに必要な知識を与えられた、心に知恵のある者は、すべて主が命じられたとおり、作業に当たらねばならない』出エジプト記第36章1節)。


 ナンバー・ワンよりオンリー・ワンということが世間でも言われてしばらく経ちます。聖書の中でも、一人ひとりの罪からの救いが本当に重んじられていると思います。ナンバー・ワンだから救われるのではなく、オンリー・ワンだから救われるのだ、その必要があるのだ、ということでしょう。
 さて、わたしたち人間は、どうでしょうか。自分がこの世界で、その歴史の中でオンリー・ワンの存在であると自覚した時に、生き甲斐を確かめることが出来る一方で、もしかすると、自分勝手にもなるのではないか、と思います。わたしはこれでよいのだ、わたしはわたしあるがままでよいのだ。しかし、どうでしょうか。皆があるがままで自己主張をして生きていたら、この世界はどうなってしまうのか。結論から言えば、結局自分のためでしかないオンリー・ワンの意識は、却って非現実的ではないか、ということです。わたしたちは確かにオンリー・ワンの存在です。だから、それが誰にとってオンリー・ワンなのか、それで何のためにオンリー・ワンなのかということを、考えてみたい。するとやがて気付かされるのは、それは自分ではない他の誰かにとって、また自分ではない他の誰かのために、オンリー・ワンの存在なのだ、ということです。その時に初めて、オンリー・ワン=独り善がり、独りぼっち、でなくなることが出来るでしょう。ただ、そうして自分に、わたしたちにオンリー・ワンの価値と意味を付けてくれるのが、わたしたちと同じ人間では、心許ない。なぜなら、価値や意味を付ける、あるいは評価するのが人間なら、それは変わり易いものだからです。人間は変わるからです。
 そこで聖書が教えてくれるのは、聖書の神の視点から自分を、自分たちを、見させていただく、ということです。神という本当に確実な存在から見て、自分は、わたしは、オンリー・ワンの存在なのだ、すると、その神によってわたしはオンリー・ワンの存在なのだ、だからその神のためにオンリー・ワンの存在なのだ、こういうことになるでしょう。
キリスト教会は、その意味で、自分たちは神に選ばれた者たちだと信じています。そこでは、自分たちが立派だ、とも、その資格がある、とも、言っていない。そうではなくて、こんな自分たちを選んでくださった神にのみ拠って立つ、と言っているのです。そうして神の愛を本当に信じ、自分たちが神のものだと信じているのです。そんな教会は、怠けを知りません。挫けることを知りません。甘えることを知りません。それが出来ないのです。こんな自分たちを選び、今日も愛していてくださる神に生かされることを本当に大事にするからです。それこそ本当のオンリー・ワンの存在であり、生き方ではないでしょうか。その時、そう、あなたにはこの役目がある、あなたにはこのことをしてもらわなければ困る、そう、これがあなたの使命なのだ、という神からの、神の保証付きの生き方が造られてくるのです。独り善がり、独りぼっち、当てもなく彷徨うオンリー・ワンではなくて、神が自分に、一人ひとりに用意してくださった使命のための、ジャスト・ワンの存在、生き方が造られてくるのです。正にこう生きるのだと分かってくる。それは当然、ナンバー・ワンを目指すような比較や競争、人の評価のために生きる生き方とは、まったく違います。ここにわたしたちの本当の生き方があるのだと、本当に思います。

                                       In Chris
t

39

「総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。『今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。』民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた」(ネヘミヤ記第8章9節)。


 聖書の中に仮庵祭という行事についての記述があります。これは、秋の収穫感謝の祭りです。キリスト教会はこの11月20日に、今年の収穫感謝日・謝恩日を迎えます。教会のカレンダーでは一年最後の日曜日です。そして上記の言葉は、旧約聖書中のある仮庵祭での出来事の記述です。それは紀元前398年頃のことでした。
 旧約聖書ネヘミヤ記第8章には皆が涙を流している礼拝の様子、涙して聖書の神の言葉を聞くという様子が描かれています。それが神を拝むということの大事な要素です。言い換えれば、涙するほど礼拝を慕う。しかし、それはなぜでしょうか。
 聖書の神の民、イスラエルの歴史がそれを明らかにしてくれています。彼らはかつて神によって王を与えられ、建国し、しかしその国が北と南の王国に分裂してしまい、やがて北王国が、そしてついに南王国も滅ぼされるに至りました。神の民の敗北、神が建てさせてくださった国の滅亡。しかしそこで、彼らは、イスラエルの、昔からの、正しい信仰に気付いた人々は皆、こう信じたのです。我々は確かに戦争に負けた、しかしこの敗北と滅亡は、自分たちの罪が招いたことだ、自分たちはこの痛み苦しみ、悲惨によって、神から審きを受けたのだと。神はその戒めをイスラエルに与えていてくださいました。神は、預言者という、ご自分の言葉を伝える人々を彼らにお送りくださいました。だから、イスラエルの人々はいつでも神のご意思を知ることが出来たはずでした。しかし、自分たちの都合のために、自己中心的な生き方のために、それに背き、ついに神の怒りと審きが彼らに圧倒的に襲い掛かるまでになってしまったのです。神に背いて罪を犯すとはそういうことです。わたしたちはもしかすると、そのことを随分軽く考えてしまっているかもしれません。とんでもないことです。神は、ご自分の宝物になさるとまで言われたイスラエルを、その分厳しく懲らしめになりました。そうしてイスラエルは、神からの約束の土地さえ失ったのです。
 民族とその国の危機、ではない。もう滅ぼされ、自分たちは他国の支配の下にある。しかし、そのような出来事を、神からの審きと信じた。自分たちの痛みも苦しみも、悲惨も、神が変わらずに自分たちを支配しておられ、この神こそが唯一神であることには変わりがない。この方だけが力ある、本当の神なのだ。だから、自分たちの罪に対する審きの中で、罪をこころから悔い改め、神に帰ろうと願いました。自分たちを滅ぼした国も、新しい強国に敗北し、滅ぼされました。しかもその国は、イスラエルの信仰を認めた。さあ、神に帰ろう、としました。加えてイスラエルの国の復興も許可され、進められた。そんな中、まず、都であったエルサレムの、またそこにある神殿という礼拝の場所の復旧と復興が目指されました。まず都の城壁が完成した。戦いに負け無惨な姿だった都が建て直されてきました。それはどんなに嬉しいことだったでしょう。崩れ落ちた自分たちの信仰生活も建て直されるような思いだった。そうして、神と共に生きてきたこの民族の、滅びと、復興のしるしに、都の城壁が完成し、最初の礼拝を献げることになったのです。神の言葉である律法が語られ、その翻訳と解説がなされて、イスラエルの人々は進んでそれを聞きました。子どもから大人まで、立ったまま、実に6時間もの礼拝でした。皆が自分たちの罪をよく知りました。改めて、自分たちの罪の大きさ、重さ、自分たちこそ罪人であるのを知ったのです。だから涙を流しました、神の前で。それを悔い改めと呼ぶのです。それが礼拝を造りました。しかし、罪を知る、認めるということは、罪があるというだけでなく、それがついに赦され、神が自分たちを憐れんでくださることも知ったのです。涙するほどの罪人の自覚とそんな自分を、その罪にもかかわらず生かしてくださるのは神だけだ。神はご自分が立ててくださった契約に、どこまでも誠実でいらっしゃる。だから自分たちも、皆で新しく契約を結ぶ。ここに礼拝を造るこころがありました。そこで皆が一人の人のようになりました。それがこのネヘミヤ記の礼拝を造りそして今も、教会の礼拝を造るこころであるはずなのです。
 イスラエルの人々はその礼拝を再び献げることが出来た時に、それが神の喜びであることも知りました。このことも今日の礼拝についても同じです。このような内容を持って神に感謝を献げる。それが聖書的な感謝です。それを明らかにする礼拝は、このようなことだから、すべてのことに優る価値を持ち、涙するほど慕わしいものなのです。

                               In Christ

40

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネによる福音書第1章1節)。


 「初めに言があった」と言われています。この「初め」とは、何のこと、いつのことでしょうか。それはおそらく、天地創造の時ということです。すると、聖書の神が「『光あれ』と言われた」(創世記1・3b)時に天地創造が始まったから、「初めに言があった」と言うなら、この「言」は、あらゆるものが造られるより先にもうあったということになります。突然、非日常的なことを突き付けられたように思えます。そんなことを考えたことも、考えることもない。ただ、聖書の語る天地の創造も、わたしたちの生きるこの世界の創造について語り聞かせて、それも、その救いについて語り聞かせています。だからそれは、何も非日常的、無関係の話しをしているのではないのです。わたしたちの生きているこの世界、そしてもちろんその一人ひとりの造られる以前に、救いの神の「言」があったのだ、むしろ、そこからすべてが始められたのだと、そう言っているのです。
 すると、この「言」とは何のことなのか、と思います。それは次第に、この「言」が神と呼ばれ、その「言」は人となってこの世に住まわれた、そしてそれが神の独り子の神、イエス・キリストであり、この方が神を示されたのだ、と語られます。「言」は神である、「言」はキリストである、それで、キリストは神である、ということになる。人間であられたキリストが神だ、ということをはっきりさせています。キリストが「言」であり、創造よりも前にもうおられた、つまり創造されたものではない、神が創造に際して語り掛けられた時にはもちろん神と共にあり、そもそも神と等しい。聖書の神は語り掛ける神です。関わってこられる方です。わたしたちにその愛のゆえに関わってこられました。最初から。その方の関わりこそ、その「言」こそキリストだ。天地万物がこの方によって造られた。そうでなければ成り立たなかった。わたしたちにとって聖書の救いの神がどんなに身近で、なくてはならない方であるか、分かってきます。
 
天地万物の始まり、根にこの「言」、キリストの働きがあったからその万物天地を生かす力、その命は、この「言」にある。特に、わたしたち人間は神に似せて造られたと言われるから、この命によって本当に生きるのです。これを離れては、生きられないのです。人間を見詰めれば見詰めるほど、そう思える。聖書の神とその「言」を離れては、わたしたちはまるで、暗闇の中を歩いているようです。どう生きたらよいか、どうしたらよいか、分からないから。だから罪を犯します。しかしそこに光が与えられる。救いが与えられる。罪を犯さなくてもよくなる。「言」は命であり、光である。
 初めに何があったのか、いいえ、最初からあったものは何か。それが、神が愛と救いをもって語り掛けることであり、そこに神は本当に明らかであって、そこにわたしたちの始まりもある。だからそこにわたしたちの命の源はあり、そこに暗闇の中の光、希望の光がある。天地創造の時、神の最初のお言葉も、「光あれ」でした。聖書の言葉が今もわたしたちに向かって、どんなに救いの光を照らしていてくれるでしょうか。わたしたちの暮らすこの世の光である「言」、イエス・キリスト。この方が命の光である、正にこの世の闇の中に輝き、闇に対抗し、闇を追い払う。この方が最初からわたしたちの光でいてくださった。この、世の光、人間の光は、輝くことを決して止めない。わたしたちのどんな時にも。わたしたちを引き込み、わたしたちも自分からそこに傾く暗闇に、初めからの命の光が照り輝いた。それが聖書の語るクリスマスです。
 命の光に溢れる「言」を、教会の礼拝の中ではっきりと聞き、しっかりと学び、信じたいのです。命の「言」そのものであるキリストの恵みをいよいよ深く知りたい。わたしたちのこの世に、この罪と死の闇の中に輝き出た光だけは、本当の信仰の目をもって見、また、いつも振り返って仰ぐことが出来ますように。
          In Christ

41

「『あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない』」(マタイによる福音書第5章13、14節)。


 キリスト教会は上記のイエス・キリストの言葉を繰り返し学んできました。それはもちろん恵みであり、それなら、必要だということでしょう。そこでは「地の塩である」「世の光である」と言われていて「地の塩」になるとか「世の光」になるとは言われていません。そのことが恵みであり、そして、それを繰り返し覚える必要が教会にはあります。ここにはこの世における教会の立場が言い表されている。教会はこの世で「地の塩」「世の光」だ。これからそうなるのではなくて、教会であることが既にそうだ。すると当然、教会は決してそうでなくなることがないように、ということでもあるのです。
 教会も罪人のままであるなら、自ずと、この世も、自分自身も、腐らせてしまい、いよいよその闇を深めていく、ということになります。ついに腐り切り、真っ暗闇になってしまう。そこで迎えるのは絶望だけです。そんなわたしたち罪人には思いも寄らないことが起こったのです。それがキリストの福音、聖書の神の愛です。それは、キリストのおかげで正しいことが分かるようになった、神の言葉によってこの罪と誘惑の世に耐えこれをついに克服すべきことが分かった、それは自分の力ですることではなく、神に救われてなすことであり、キリストご自身がそこに救い主としていてくださる、彼を信じ頼るのだ、ということです。罪があり、ついに腐り切り、真っ暗になってしまうところのわたしたちが、一転、このような生き方を造ることが出来る。その逆転のための全責任をキリストがあの十字架に負ってくださいました。そしてそれが正しいことだから、彼は復活させられました。罪を問題にして生きて、するとこの世では苦しみに塗れて生きる他ないのに、その人生と生活こそが正しいことだから、神のご意思に適うことだから、キリストは復活させられた。彼を信じて自分も彼と同じ道を行く上で苦難さえ味わう時に、それが復活と天国へ迎えられることの保証です。それが教会とそのクリスチャンの使命であり、存在意義です。それが神の救いです。
 このことを台無しにするということが、「地の塩」「世の光」である教会がその本質を自ら失う、ということです。上記のキリストの言葉の内に暗示されているのはそのことです。教会は「地の塩」「世の光」であり、これからそうなるのでも、これからそうならなければならないのでもない。「地の塩」「世の光」であることを止めるな、台無しにするな。教会とクリスチャンも週日、様々な出来事を目にし、耳にし、体験します。その只中にいる。けれどもそれを、キリストの福音に従って、それでこころを整えられ、潔められて、見詰める。キリストの福音が教会をその通りに造り変えてしまっている。それを決して台無しにしてはならない、無意味にしてはならないのです。
 本当は、すべての子どもたち、大人たち、すべての人々が、教会に礼拝のために来るべきです。だから神が、キリストによって建てられた教会を「地の塩」としてこの世に与え、「世の光」としてすべての人の救いを今日も明示させられます。教会がキリストではありません。また教会はほんの小さな灯りです。けれどもその教会を、それが教会である限り、「世の光」として、「地の塩」としても、神が用いてくださる。教会はただそのことに信頼し切って、日々前に、前に、歩き続けるだけです。                
 In Christ

42

「祭司長や下役たちは、イエスを見ると、『十字架につけろ。十字架につけろ』と叫んだ。ピラトは言った。『あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない』」(ヨハネによる福音書第19章6節)。


 エルサレムのユダヤ人が皆、イエス・キリストではなくて、強盗であり人殺しだったバラバという人の釈放を願った結果、キリストの裁判に判決が下されました。力があるようで決してそうではない、時の権力者の下、神の民であるはずだったのに、ユダヤ人たちは、真の王であり聖書の神の独り子であるキリストを受け容れることが出来なかったのです。キリストはそれまでに、神の独り子として、父なる神のご栄光をここそこで現されました。それは正に公のもので、この人間の社会においてはっきりと、彼にしかお出来にならない救いの働きをしてくださいました。それにもかかわらず、エルサレムの人々は、そのキリストを受け容れることが出来なかったのです。ところで、それならわたしたちは、どうでしょうか。
 神の独り子、真の王は拒絶され、捕らえられて、鞭で打たれました。さらにローマ帝国による仕打ちが続けられました。茨で冠を編んでその頭に載せた。それは当然、帽子を被らせるのとはわけが違う。皮膚も肉も引き裂いて、食い込むわけでしょう。血は流れる。その上ユダヤ人への侮辱のシンボルとして、鞭打たれひどく痛め付けられた体に王の身なりをさせて、さらにまた平手で打ち、侮辱に侮辱を重ねたのです。キリストは、真の王、神の独り子なら、なぜこれほどの仕打ちを受けられたのか。それは、本当に罪深いこの世とわたしたちをそのすべてをご存知でいながら、その罪のゆえの仕打ちを甘んじて受けてくださったからです。それがお出来になるのは、正に神の子、救い主だけでしょう。そこでキリストは、神からのわたしたち人間への罪の報いを、全部代わりに引き受けてくださっていました。彼が苦しまれた以上の苦しみは他にない。皮肉なことに、当時、ユダヤの人々が自分たちの救いの歴史を最も大事に記念する過越の小羊が献げられるその日に、神がくださった、真の小羊、キリストが、十字架に死なれ、その命が献げられたと、新約聖書ヨハネによる福音書は描いています。
 この世の、人間の、ポンテオ・ピラトの下での裁判はなおも続けられて、見せしめのように、キリストの侮辱された姿が、彼を拒絶した民に晒され、総督ピラトは、見よ、こんなにも無力な男だ、ローマの権力、威力の前でまったく無に等しいではないか、と言ったのです。こんな男が王であるはずがない。キリストは、その意味では、その通りでした。この世の権力、その政治的、社会的な王である皇帝の友だと言われて、半ば脅されるようにして、ピラトはついに、キリストを十字架刑に送ります。彼はもちろん、そして、そんな裁判の場に、誰一人、神を信じる人はいませんでした。その時に、人々の、この世にいつでも見られる悪意と不信仰は、一段と明らかだったのです。
 イエス・キリストによって明らかにされるのは、いつも、わたしたち人間の罪です。虚ろな権威の上に立ち、空威張りをする人がいる。自分の立場を守るために信仰さえ利用し、逆にその信じる神によって自分を罪に定めてしまっている人がいる。それは偶像崇拝であり、そこに陥っている時、わたしたちは正に、呪われている、と言えます。神から離れてしまっているから。神が分からなくなり、生活のすべてにおいて、神に背いてしまっているのだから。キリストが十字架に死なれたのは神がキリストにお委ねになった救いのお働きを貫かれたからです。ただそのためです。するとそこで、わたしたちの罪もまた、こんなにも嘯いた権力と不信仰に代表されて、本当に明らかでした。
 わたしたちの生活の様々の場面で、全場面において、この偶像崇拝と不信仰が問われています。特に現代は、その誘惑が本当にいろいろな形で、また巧妙に、忍び寄ってくる。しかしむしろ、わたしたちは本当に畏れ敬いつつ、このキリストを見詰めていたいのです。見よ、この人だ、「わたしはこの男には罪を見いだせない。」その通り、ここに、ご自分により全人類の罪を贖うことの出来る唯一の方がおられる。このイエス・キリストを見詰めることがわたしたちの生活をよく見詰めることなのです。
                  In Christ

43

「『父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください』」(ルカによる福音書第22章42節)。


 イエス・キリストの使命、神の子キリストがわたしたちの世に来られたのは、十字架に掛かって死なれるためでした。キリストのその使命の持つ本当に厳しい様は、例えば新約聖書ルカによる福音書第22章39−46節の彼の物語が、弟子ペトロの裏切りの予告とまた弟子ユダの裏切りという、二重の裏切りの出来事の間に挟まれて置かれていることからも、窺えます。またその厳しさ、孤独さは、上記の祈りが、弟子たちは近くにいるけれども、この祈りの直前の晩餐の席では自分たちの内で誰が一番偉いかと議論したほどの彼らが、今は皆寝入ってしまっている、ということに、一層深刻に表されています。それは、弟子たちからは何の反応も応答も、助けも期待出来ない、ということです。だからキリストは、ご自分の使命を、まったく独りで、誰の助けも理解もなしに、果たされたのです。その使命は神から与えられたものです。キリストは十字架の死を神のご意思の実現として受け取られました。上記の祈りはその使命を受け取るためです。キリストが、わたしの願望や意志ではなく、と言う場合、それは、十字架の死が彼にとっての自己実現、自己主張、自己追求ではないことを示しています。
 わたしの願望ではなく、そうではなくてあなたのものが、実現するようにしてください。わたしの願望ではなく、そこには自己否定があります。彼の十字架は自己否定なのです。しかも、単なる自己否定ではなく、何も考えず、もう無責任に、されるがまま十字架に付けられたのでは、なかった。もぬけの殻が十字架に架けられたのではない。それでは、意味がない。ここにあるのは、自己否定による他者の願いの実現です。神のご意思が、自分自身とは別のところでではなく、本当に自分自身を通して、実現するように、との祈りです。クリスチャンとして生涯信仰に生きるというのは、この祈りに生涯与り続ける、この祈りに生かされ続ける、自分もこのように祈る、ということです。わたしは、わたしは、ではなく、むしろ、わたしではなく、わたしではなく、という選択をして生きる、ということ。
 そう祈るキリストの姿について、神からの自分の使命に到達するための格闘とも言える様子が描かれています。祈りにおいて、体力のすべてを注いで、格闘していた、と。激しい苦痛にもだえ、悩み、苦悶し、死の苦しみをしていた、と。キリストは、神のご意思の実現のために、身もだえて祈られました。それも、ますます熱意を籠めて、ますます真剣に。そして、傷口から血が固まりとなってぼたっぼたっと落ちるように、汗を流して、祈られた。その祈りは、ただ一時、一度のものではなく、止まることなく、いつまでも身もだえしながら、格闘しながら、熱烈の度を加えて、ただ一つのことを、祈り続けられたのです。自分のことのためではない、神のご意思の実現のためです。わたしたち人間の罪の贖いという救いのためです。それがキリストです。
 イエス・キリストの十字架を信じる時、それが彼にとって極めて当たり前の出来事だったというように考えることは出来ません。わたしたちは十字架に甘えることは出来ない。十字架に縋るのです。その出来事の背後にあるこのキリストの苦闘を、使命実現への誠実で真剣な格闘を、いつも新しく思い出すべきです。キリストは、判断を中止して、無責任に、何も感じることなく、なるようになれ、と仰ったのではない。本当に、苦悶の極みに、身もだえと格闘の果てに、自分の全責任を持って、自分の意志全部で、進んで、積極的に、自分のすべてにおいて、十字架という神のご意思を受け止め、受け取られました。この祈りなしに彼は十字架を負われたのではない。この血の汗にまみれた祈りなしに十字架が立てられ、わたしたちの救いが成し遂げられ教会が今日もそれをその基礎とし、宣べ伝えているのではありません。聖書も教会も、そしてわたしたちの人生と生活もすべて、この祈りによる十字架を除いては成り立たないのです。改めて、わたしたちが、固執し、譲ることが出来ないのは、何でしょうか。
  In Christ