覚えていますか?六月二十二日のまだ誰もが眠っている時間に、
羽咋で震度4の地震がありました。

慌ててとびおきた人がほとんどだったと思います。
三月二十五日の能登半島地震以来、この地域の人達はみな、
目に見えないいつおこるともわからない天災に怯える日々が
続いているのではないでしょうか?

能登半島地震がおきた二〇〇七年三月二十五日、
この日は丁度日曜日でした。
私は家族と金沢方面へ行くために、車を走らせていました。

海浜道路を走っていた時、「今日は風が強いねえ。運転しづらい」と運転席の夫。
そんな会話をした後、しばらくいくと、
なぜかあっちにもこっちにも車が道のサイドに止まっているのです。
「なんでこんなに車が止まっているんだろう?」
「春は初心者の車が多いんじゃない?」
と、その時はトンチンカンな会話をしていたのでした。

そして午前十時頃、金沢片町を車で走っていた時、
町の大きな電光掲示板に『震度6の地震』という文字が輝いていました。
「地震だって!震度6はひどいね」「どこの外国だろうね?」と言い合っていたら、
次に出た電光掲示板の文字が、「能登半島で震度6」「え〜っ!能登?」
能登半島の地震のニュースが流れていました。
それでも信じられなくて、あわてて家にいる家族に電話をしたところ、
まったく電話がつながらない状態でした。
本当の事だったんだ!羽咋は?みんなは?家族は大丈夫なのだろうか?
と唖然としました。
地震の大きさを思い知ったのが、買い物に立ち寄った電気屋さんの
大きなテレビのブラウンカンに映し出されていた輪島の風景でした。

大きな瓦屋根の家が、ぺしゃんこにつぶれて映し出されていたのです。
この悲惨な光景に更に驚いたのでした。

家族とは、お昼過ぎにやっと連絡がとれました。
同時に園長先生から地震の事でメールがつながったのもその頃でした。

金沢での用事をすませ、夕方幼稚園の状況を見に行きました。
玄関とホールの電気のかさが下に落ちていたのと、
棚に置いてあったものが床に落ちて散らばっていた以外は
何もないように見えてほっとして帰ったのでした。
    
次の日は月曜日。何事もなかったかのように、いつもの幼稚園の朝が始まりました。
「恐かったね」「泣いたよ!」と子ども達から口々に報告がありました。
何にも知らなかった私は、恐い目に合わなくて良かったというより、
知らなくて申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

朝の明るい所でよく見ると、幼稚園の園舎のいたる所にひび割れがあったり、
壁が落ちていたりして、改めて地震の大きさを実感したのでした。
と同時に、今回は日曜日で、子ども達はお家の方々で守ってあげられたけど、
これが子ども達が幼稚園に登園している時だったら?
と思うととても恐ろしくなります。
こんな時どうしたらいいか?冷静に対応するためには?
などなど・・・新たにいろいろと考えさせられた今回の天災でした。
 
  

能登半島地震、あれから四ヶ月程経とうとしていますが、
今だに大きなつめ跡を残しています。

願わくば、もう恐ろしい出来事がおこりませんように!
そう思っていたのに七月十六日には
中越沖地震が起きました。
中越地震から三年で起きた今回の地震。
なんだかヘン!と思います。
こんなことがあってはならないよ、と思います。
被災された方達の報道を見ていて、胸が痛くなります。


けれど、順に電気は通じて、水道も復旧しつつあります。
都市ガスももうすぐ復旧との報道。日常が何よりも大事。
早い復興を祈っています。
 
そしてこんなときだから、長い夏の終わりに、
「こんな楽しい事があったんだよ」
と子ども達の声を聞くのを楽しみにしている私です。

ステキなステキな夏が、みんなのところに来ますように。