七月七日、能登空港から羽田に向かって飛び立ちました。
土曜日から水曜日までの少し長めの東京出張でした。
その日は能登空港開港四周年の記念の日。
そのためのイベントがいくつも用意されることを知っていました。
ですから、チョッピリ期待していたのですが、
空港に着いたときにはすべてが終わっていました。
午後の便での出発で、イベントはすべて午前の便にあわせていたようなのです。
残念でした。

わたしが能登空港を利用したのは、今回が初めてでした。
便数が少ない上に、日帰りでは使えない。
時間をかかるのを覚悟すれば、JR利用の方が日帰りでも使えるからでした。
それでも、能登半島地震の後利用者が減っていると聞けば、
同じ能登に住む者としてほおってはおけないと考えて、
使ってみることにしたのです。
駐車場利用料金が無料なのは小松空港よりは得した気分ですし、
やっぱり何と言っても、飛行時間わずか四○分〜五○分というのは、本当に便利です。

なんと便利になったものかと、つくづく思います。
二〇年前、三〇年前には、どれだけの時間がかかったことでしょう。

先日の金沢からの出張帰り。
七尾線に乗っていたら、女子高生三人のおしゃべりが耳に入ってきました。
話題は携帯電話の機種変更をしたという話し。
一人の女子高生が、最新型に替えて、その機能を自慢していました。
わたしはほとんど使ったことにない機能の話をしていて、
そのほとんどはちんぷんかんぷんだったのですが、
その携帯電話の機能の自慢に目をぱちくりさせてしまいました。
 「すごいのはね、この携帯、電話が出来るんだ!」
携帯電話にメールの機能がついて、写真が撮れて、音楽が聞こえる。
ブログが読めたり、ニュースの配信を頼めたり、ラジオが聴けたり、テレビがうつったり。

ナビゲートも出来るようになると、もう電話か何か分からなくなってしまうのでしょう。

わたしが携帯電話を持ったのは、もうずいぶん前になります。
お弁当箱型の携帯から、家庭用電話の子機のような形になった頃でした。
重さが一キロを切ったということが話題になった電話でした。
もちろん通話のみで、留守番機能もありません。
誰からかかってきたかも分かりません。
バイブもなくて、電話のベルの音が三段階に切り替えられるのが最新機能だったのです。




わたしの携帯には、ワンゼグ機能がついていて、テレビがうつります。
それは嬉しいのですが、わたしにはテレビを持ち歩くという感覚が、
どうも今ひとつなじめません。

わたしは家に初めてテレビが来た時を知っています。
もうずいぶん前のことです。
わたしは街頭テレビも知っています。
わたしの生まれ育った町の商工会議所の前に、「街頭テレビ」と書いてあって、
お風呂屋さんの帰りにプロレスを見せてもらいました。力道山の時代です。


 


エアコンがお部屋にあって、パソコンで文字を編集し、文書を印刷する。
あたりまえのことですが、印字された文書を自由に扱えるなんて、
二五年前は考えもしませんでした。
デジタルカメラで撮してプリンターで印刷。
写真屋さんのお世話にならなくても良い時代は、考えもしませんでした。

インスタントラーメンが初めて登場したときの驚き。
レトルト食品のボンカレーの衝撃。
ティッシュペーパーを初めて見たときだって、とっても驚いたのです。
その一つ一つをあげればきりがありません。
わたしが生きてきたわずか五〇年少々の時代の中でも、
こんなにたくさんの新しいものがあたりまえになっています。
冷蔵庫も洗濯機も掃除機もなかった時代を知っている者にとっては、
時代の変化はありがたい。
けれども、あまりにも変化が大きいものについては、ついていけないのです。

IHがまだ納得できないわたしは、
料理にはやっぱり「火」が必要じゃないか?と思ってしまう。

おじいちゃんと子どもと孫。
おばあちゃんと子どもと孫。
その経験しているものは、本当に違います。
もしかすると、今までのどんな過去の時代よりも、
世代間の経験しているもが違うかもしれない。
そう思います。

本来ならば、会話さえも通じないほどの大きな世代間格差の中に、
わたしたちは生きているのではないか。わたしはそう思うのです。
 

けれども、とも思います。
たしかに変わっていく本当に多くのものの中にわたしたちは生きています。


春が来て夏が来て、秋が来て冬になる。わたしたちの周りでは、毎年のように繰り返される季節の変化です。種を蒔き、根が出、芽が出て葉が出て、花が咲く。そして種が出来る。中には違う流れの中にある植物があったとしても、おおよその植物はその順番です。
ものを落とせば下に落ちるし、丸いものは転がる。
 
あたりまえのことなのです。

あたりまえのことが、あたりまえのように営まれているのが、わたしたちの世界。
どんなに便利になり、新しいものがたくさん出てきても、
その基本になるものは決して変わらない。
そのことはとっても大事なことなのではないかと思います。
            
幼稚園の子どもたちはこのあたりまえのことが大好きです。
種から芽が出て感動し、お花が咲いて喜びます。
収穫の実りを見て嬉しくなります。なすの苗になすがなって大喜び、キュウリの苗にキュウリがなるのが嬉しいのです。

ボールが転がっては大喜び。
雨が降っているのを見て喜びます。
しゃぼん玉がふくらんで、感動する。

あたりまえを、あたりまえとして受け入れていく過程が大好きなのです。
大人にとってはあたりまえのことでも、そのあたりまえの中に、驚きと発見をしていきます。
自分たちが生きている世界が、どんな世界かを確認していくのです。
自分たちの生きていく世界が、どんなにおもしろい世界かを確認していくのです。
子どもたちはあたりまえが大好きです。
そのあたりまえは、テレビのなかった時代に幼少期を過ごした人であっても、
テレビを持ち歩ける時代に幼少期を過ごしていても一緒です。
普遍的な出来事なのでした。
子どもたちに伝えてみたいあたりまえはたくさんあります。
お月様も、お星様も、夕陽も、子どもたちとじっくり見てみることはとっても大事。
 
この夏休み、あまりにもあたりまえのことを、子どもたちと一緒に大いに楽しんでいただけたらなぁと思います。そんな機会をたくさん作っていただけたらなぁと思います。