この指と〜まれ」
 --羽咋白百合幼稚園が
          移転しました--

                                  園長 釜土達雄

 もうよいでしょう。ようやくきちんと報告できる時期が来たのだと思います。
去る十月二日付けで厚生労働省が、羽咋市が所有する「旧羽咋市立さつき保育所」の施設を「学校法人羽咋白百合幼稚園」に無償譲渡することに同意してくださいました。これにより、長い間契約が出来なかった「羽咋市」と「学校法人羽咋白百合幼稚園」との間で、「旧羽咋市立さつき保育所」の園舎の無償譲渡の契約が出来ることになりました。

また、その敷地一九〇六u(五七八坪)が無償貸与されることになったのです。
もちろん今はその準備の真っ最中で、正式に決まったわけではありません。けれども十一月上旬には正式に契約書が取り交わされる予定ですし、ようやくこのような形で正式にご報告してもお許しがいただけるのではないかと思います。

そもそも何が発端だったかと言えば、二〇〇〇年十二月五日の北国新聞の記事でした。
能登版に「羽咋市 粟ノ保小を改築」という大きな見出しと共に「公設民営保育所を新設さつき、桜ヶ丘、摩耶 3カ所統合、十五年開所」と言う文字が躍っていたのでした。
「コスモアイル羽咋の敷地内に新設」「平成十五年四月に開所」「定員百五十人、敷地面積五千平方b、建築面積千三百平方b」等という文字に、比較的近くに大きな保育所が誕生するんだなぁと、心中穏やかではなかったのでした。


当然の如く職員会議の時にこの新聞記事を持ち出し「このこと知ってる?」と聞いてみました。すると、先生たちの反応はわたしの予測とは違ったものだったのでした。
「さつき保育所を壊すのはもったいない」。
「あそこは自然に恵まれたステキな園庭のあるところ」。
わたしはあまりよく「さつき保育所」知りませんでした。ですから、それではとこっそり「さつき保育所」に行ってみました。

園舎・園庭の中にはいるわけにはいきませんからその周りを歩いてみました。園庭の使い方は制限されているようでしたが、確かに自然に恵まれたステキな園庭。
 「ここはいろいろ工夫が出来る」。
それがわたしの第一印象でした。

園舎も古くはなっているけれど、充分に使用に耐える。そうも思いました。
何と言っても「広さ」が魅力でした。それに羽咋白百合幼稚園からそんなに離れているわけではないのも魅力でした。
「だめもと」という言葉が頭をかすめたのでした。

「ダメでもともとなのだから・・・」と年が明けてから開かれた「羽咋白百合幼稚園理事会」で、わたしはこの話を持ち出しました。新聞の切り抜き記事を元に説明をし、「話題」といたしました。
今でもよく覚えています。その話を聞いていた理事の全員がにこやかで、「もしそうなったらいいね」と話が盛り上がりましたが、報告でもなく議案でもなく、記録にもとどめない「話題」に過ぎませんでした。

要するにだれも、今あるような状況を思い描いてはいなかったのです。わたしはこれでこの話は終わりかな?と思っていましたが、鈴木リデヤ先生が「本当にあそこ、もったいないわよね」とおっしゃったのが、妙に心に引っかかっていたのです。

わたしは本町の羽咋白百合幼稚園の活気に満ちていた時代を知っています。
今から二十年前、佐伯恒道という牧師・園長が、活気に満ちた幼稚園教育をしていらっしゃいました。その先生が転任される前年に新卒の教諭として羽咋白百合幼稚園に採用されたのが繁在家先生でした。

またあの場所に思い入れのある多くの人がいることも知っています。川原町、的場町、旭町と転々とした羽咋白百合幼稚園が本町に移転したのは一九三八(昭和十三)年のことでした。大正十五年から園長だったテート先生やその同じ時代を教諭として過ごしたレリヤード先生の時代のことでした。

 戦時中を含めて昭和二十三年までこのお二人の先生は本町の羽咋白百合幼稚園で奉仕されたのです。テート先生やレリヤード先生との想い出を持つ人も、佐伯先生との想い出を持つ人もその多くは本町コ一一八の場所なのです。

しかし、と思います。確かに歴史もあり、みんな努力もしてきた。けれど、あの本町では充分な保育環境を整えることが出来ない。これも本音でした。
敷地総面積は八五三平方b(二五九坪)。園庭は四七〇平方b(一四二坪)。工夫も限界でした。園舎の手狭さはご存じの通り、限界でした。かつてならば許された園舎園庭であっても、現在の各園の恵まれた環境から見れば、かなり見劣りのするものとなっていたのです。

もし許されるならば、もっと自由に保育環境を設定できるところで、保育をしてみたい。そんな願いは、教職員にも、理事会にもあったのです。 ただすべては、夢のまた夢でした。
それが、あの理事会のあと、あの話が不思議な方向に展開していきます。

理事の一人鈴木リデヤ先生が、羽咋市の責任ある立場の何人かの方に「羽咋白百合幼稚園の園長がさつき保育所に移転したいと言っている」と話してくださったのです。
 何人かの方が羽咋白百合幼稚園に直接足を運んでくださいました。だからこそ、私たちも羽咋市の担当課にお話をすることが出来るようになりました。

二〇〇一年三月二二日。羽咋市長本吉達也殿宛の陳情書をもって、川原理事長とわたくしが羽咋市を訪ねます。その時から一気に状況は変化するのです。
無償譲渡・無償貸与の内示。市議会での本吉市長の説明。石川県の同意。厚生労働省内での議論。二〇〇三年六月十六日の実質的移転。そして、十月二日の厚生労働省の同意。様々の経緯を経て、今に至っています。
        多くの人が愛した本町の土地と園舎は、学校法人の法人本部としてそのまま残ることになりました。「ゆりっこ児童クラブ」として、学童保育も開始いたしました。
もともと保育所として0歳児から受け入れをしていた「旧さつき保育所」に移転した羽咋白百合幼稚園は、本町の園舎ではお受け入れすることが難しかった未満児の子供達を受け入れるようになりました。
施設が整っているからでした。

けれども間違えてもらっては困るのです。羽咋白百合幼稚園が、学童にも手を出し、未満児保育にも手を出して、事業を展開していっている、のではありません。羽咋白百合幼稚園の保育を愛し、羽咋白百合幼稚園を愛してくださっている方が、ご家庭の事情で羽咋白百合幼稚園を断念し、他の幼稚園・保育園に大切なお子様を入園させなければならないとしたら悲しい、そう思っているのです。

もし、羽咋白百合幼稚園が、ほんのちょっと努力することて、そんな私たちの保育を愛していてくださる方と共に大切なお子様の子育てのお手伝いが出来るのなら、出来ることを少しがんばってみよう、そう思っているのです。
「延長保育」「通園バス」「給食」もそうです。お家の方が便利だからではありません。
「夏期保育」「冬期保育」「春期保育」もそうなんです。便利のためではありません。「ゆりっこ児童クラブ」も「羽咋白百合幼稚園のひよこぐみ」も同じです。

羽咋白百合幼稚園の保育を、そして羽咋白百合幼稚園そのものを愛してくださる方のために、私たちが出来る努力の一部です。羽咋白百合幼稚園と一緒に子供達を育てたいというご家庭の皆様のために整えているのであって、便利だからとご利用になる方のお子様をお受けしているわけではありません。

だって、そうでしょう。もっとステキな園舎、もっと広い敷地、もっと保育士の多い保育所が、すぐそばにあるではありませんか。わたしたちが他の保育所や幼稚園とサービスやお稽古ごとで張り合ってもしようがないでしょう。

 わたしたちは、遊びを中心とした古典的な幼稚園に過ぎません。
子供達の興味と関心を大事にし、遊びの中からいろんなものを発見していってほしいと願ってる古典的な幼稚園です。
そんな羽咋白百合幼稚園を愛してくださる方のために整えているに過ぎないのです。

「私たちはこんな保育をするんだけど、
    一緒にやる人、この指と〜まれ!」

 「と〜まった!」

そんなふうに、「と〜まった!」と言ってくださったご家庭の皆様と共に、一緒に幼稚園を作っていきたいと考えているます。今までの園舎でやってきたことを、新しい園舎を使って、もっともっと工夫をしながらやり続けたい。そう思っているのです。そして、そんな私たちの思いが、羽咋市にも石川県にも、そして厚生労働省にも通じたのだろうと思うのです。

 多くの皆様に感謝。
 そして何よりも、この羽咋白百合幼稚園の保育をそして羽咋白百合幼稚園を、
愛してくださるご家庭の皆様に、多謝。





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