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「命を生きる」



 園長 釜土達雄


 去年から今年にかけて、七尾市の旧市街の地図作成が行われていました。金沢地方法務局による、正確な地図作成の為の作業でした。
 七尾幼稚園の土地も対象でしたので、七尾教会の土地と共に、測量が行われたのでした。その結果、約10uほど、今まで考えていた面積よりも広いことが分かりました。
 単なる登記上のこととはいえ、10uほどでも広いことが分かると、なんだか得をした様な・・・不思議な気分になるものです。
 そのことを教えてくださった担当の方に、「良かったですね」と言われて、おもわず「ありがとうございます」。けれども、実際の面積は変わらないのです。それなのに、なんだか嬉しい気持ちになるんです。



 七尾幼稚園が設立されたのは、大正5年(1916年)のことでした。場所は今の一本杉町。松本呉服店の場所でした。
 そこからこの馬出町に移ってきたのは昭和36年(1961年)のことでした。当時としては最新の、多くの人があこがれるような、新築の建物でした。
 その時には。幼稚園の玄関の階段はありませんでした。幼稚園の前の道路も、車が通る様な道路ではありませんでした。一本杉から人が歩いてやってくる路。それが、幼稚園前の路。道路だったのです。




 わたしが初めて七尾幼稚園の園舎を目にしたのは、それからちょうど20年後の1981年の夏のことでした。牧師になるための、また幼稚園の園長になるための実習生として、羽咋で研修を受けていたときだったのです。
 幼稚園の前にはすでに道路があり、車が通れるようになっていました。
 昭和36年当時は新築だったのに、時代の変化はずいぶんと早く、わずか20年しかたたないのに、ずいぶん古ぼけた園舎となっていました。昭和36年当時はあこがれの建築材だった「ベニヤ板」は、安物建築材の代名詞となっていました。駐車場は絶対の必要になっていましたが、昭和36年当時、自動車を持っている人なんて、ほとんどいなかったのです。
 20年という時は、あまりにも早く、時代が大きく変わってしまったのです。

 それから2年。1983年(昭和58年)、わたしは七尾幼稚園に着任しました。1983年3月31日木曜日。夕刻でした。
 七尾幼稚園の隣の七尾教会の伝道師として、また七尾幼稚園の副園長としての着任でした。
 出迎えてくださったのは、当時園長で牧師だった今村延次(いまむらのぶじ)先生。そして教会の方が2名と幼稚園教師2名。そのうちの1名がまだ名前が山田という堂脇先生だったのです。わたしが27歳の時でした。あれからもう、30年になります。

 今村先生は、七尾幼稚園と七尾教会に37年仕えてこられた、ベテランの先生でした。一本杉から馬出への移転新築を決断されたのは、この今村先生でした。
 とても愉快な先生で、当時の教会の塔には、鐘がついていませんでした。誰が考えても鐘が鳴りそうな教会の塔に鐘がないので聞いてみました。「なぜカネがないのですか?」。すると答えがありました。「カネがなかったんだ」。

 

 園児総数25名。熱烈なファンによって支えられていた幼稚園でした。今村ファンと称する人もいました。愛された園長先生の退任とともに、わたしが着任することになったのです。

 もう、30年になります。ずいぶんと時間がたったのです。

 もう誰も信じることができないかもしれません。
 当時はパソコンはありませんでした。携帯電話もありませんでした。スマホなんて、考えられなかった時代のです。
 FAXもありませんでした。初めてFAXが登場し、3年ぐらいかけて石川県私立幼稚園協会全園にに普及した頃、知り合いの園長先生から、同じFAXが二〇枚も送られてきたのです。なんだか変だと思ってその園に連絡し、園長先生に、「同じFAXがたくさん送られてきています」と言おうとしたら、電話に出た園長先生が言うのです。「かまどせんせい!うちのFAX、壊れているみたい。何度送っても出てくるの…!」「???」。FAXを通した紙自体が、郵便のように、送信されると勘違いしていらしたのです。

 コピーの機械もなかなか買えなくて、あこがれていたものでした。ファミリーコピアという、簡単で手頃なコピー機が出た時には、本当にうれしかったものです。

 今の園舎が建築されたのは1990年でした。昭和の終わりから、平成にかけて、建築された園舎が完成します。くみ取り式トイレから、水洗トイレに変わりました。
 その後、教会の土地であった幼稚園の底地を学校法人が購入します。また教会は、七尾市の道路整備計画で分割された北陸鉄道用地(七尾バス利用地)を購入し、駐車場とします。これが現在の七尾幼稚園が駐車場として使用してる場所なのです。

 さらに、2007年の能登半島地震の結果を受けて、全国の諸教会が献金を募り、七尾教会の建て直しを決定してくださいました。同時に、七尾幼稚園の改修と、厨房と子育て支援室の改築も決定してくださいます。そしてそれらのすべてが完成したのが、2011年3月だったのです。

 礼拝堂が完成しました。幼稚園の厨房や集会室が完成しました。教会の塔には「鐘」がつきました。フランスのパッカール社の製作によるスイングベルです。「カネ」はなかったのですが、教会の皆さんの祈りが、全国の諸教会の祈りとともに、結実したのです。

 喜びは喜びなのです。けれども、その完成を受けて、喜びとともに引っ越しをしていたのが、3月11日。3月13日の礼拝に間に合わせるために、また19日の七尾幼稚園卒業式に間に合わせるために、引っ越しをしていたのが、あの東日本大震災の当日だったのでした。

 ずいぶんと時間がかかりましたが、時間をかけて、今の園舎の姿になりました。そしてその間、あまりにも様々なことがありました。

 いえ、
 確かにいろんなことはありました。
 しかしそれらは、器に過ぎません。
 園舎も、土地も、様々な機械類も、
 人が生きていくための、道具に過ぎません。

 大切なのは、
 そこで生きてきた「人」
 人、その一人ひとりなのです。

 
 もう、30年になります。
 この30年の間。実にたくさんの子供たちに出会ってきたなぁと、思います。この30年の間。実にたくさんのご家族にお会いしたなぁと思います。実にたくさんの人に、支えていただいたなぁと、心から思います。

 卒業式が近くなると、目に見える卒業の準備とは違って、目に見えない卒業の準備も始まります。修了証書の手配や、卒業生名簿の記入、指導要録の作成など、本当にたくさんの作業があります。そうそう、Aぐみさんの卒業のための準備が、急ピッチで行われています。


 七尾幼稚園は、学校教育法で定められた「学校」です。学校としての幼稚園の課程を終えることを、「修了」と言います。教育課程を修了して、学校を旅立つことを「卒業」と言います。「卒園」ではありません。学校では「学ぶ」ことがあり、学び終えたので「修了」し、修了したので「卒業」する。教育課程の学びを終えたので、「卒業」するのです。小学校に行く年齢になったので「卒園」するのでは決してないのです。


 ではいったい何を学んだのか。
 「心身の健康」「人との関わり」「環境との関わり」「言葉の獲得」「感性と表現」という5つの領域があって・・・。
 いえいえ、要するに、それらをふまえて園長先生は子供たちに伝えたい大事なメッセーがあったのです。


 卒業するAぐみさん。

 人はひとりでは生きていくことができない。人はたくさんの人に支えられなければ、生きていくことができない。
 目に見えるものは、変化を感じるし、目に見えるものは、とっても大事だとみんな思う。せんせいだって、そう思う。だけど、もっともっと大事なものは、絶対に、目に見えないものなのだ。
 お母さんの愛は、みんなの目には見えないけれどもちゃんと感じることができるし、お父さんの愛も、みんなの目に見えないけれども、ちゃんと感じることができるよね。お兄ちゃんおねえちゃん、弟に妹、おじいちゃんにおばあちゃん、おじちゃんにおばちゃん、家族の愛だって、感じることはできるもの。お友達が大事だって気持ちも、目には見えないけれど、わかっているし、小さなお友達に親切にしなきゃって言う気持ちも、目には見えないけど、ちゃんとある。そして、そんな気持ちや心が、人が人間として生きていくためには、とっても大事なものなんだってわかったんだ。

 目に見える建物や土地やお金はもちろん大事。だって、お家がないと困っちゃうし、お金もないと困っちゃう。幼稚園だって、なかったら幼稚園に来れなかったんだもの。建物は大事だよ。だけど、もっともっと大事なものがあるんだよね。それが、目に見えないものなんだ。

 先生は、それを知ってほしくて、幼稚園のの玄関に、小さな色紙を書いて置いてある。


 「愛されていることを知り
  愛する者となるために」


 園長先生の願いです。

   卒業、おめでとう。

 

  
(2013年3月22日 七尾幼稚園園だより巻頭言)

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