直線上に配置

「イエスの母 マリア」



 園長 釜土達雄

  クリスマスは、誰もが知っているとおりイエス・キリストという方の誕生の記念日です。イエス様の誕生をみんなで演じるページェントは、世界中の子どもたちが演じるすべての物語の中で、もっとも多くの子どもたち演じている物語として知られています。七尾幼稚園でもその設立の時から、クリスマスにはページェントが演じられてまいりました。

 クリスマス物語には、そんなにたくさんの人物が登場するわけではありません。三人の博士や羊飼いさんたち。ヘロデ大王とその家来たちに、聖書の専門家としての律法学者たち。宿屋の女将さんやご主人たちも大事な登場人物です。そして、天使ガブリエルにたくさんの天使たちや、羊たちに、お馬さんもクリスマス物語には不可欠ですし、もちろんイエス様のお母さんであるマリアさんにその夫ヨセフさんがいないとクリスマス物語はなり立ちません。
 けれども、本当の主人公は、この日生まれたイエス様。それなのに、演じられるのは、その周りにいる人々や天使たちです。子どもたちは、そのイエス様の周りの人物を一生懸命演じています。
 わたしは、子どもたちが演じる幼稚園のページェントを見ていていつも思います。そうそう、そこが大事なんだよ。イエス様の誕生を巡る一人ひとりが、大事なんだよ。いつもそう思います。









 クリスマス物語の大スターは、マリア様です。イエス様のお母さんとなるマリア様は、女の子の人気の的です。
 ところがその人気者のマリアの人生は、波乱に満ちたものでした。

 イエス様を身ごもったと天使ガブリエルから告げられたマリア。そのマリアの年齢は、よく分かっていません。ごく普通に考えられているのは十三歳ぐらいです。当時はそんな年齢で女の子は結婚していきました。まだまだ若い、本当の少女です。そのマリアに、天使ガブリエルが、男の子を身ごもっていることと、その子をイエスと名付けるようにと伝えます。そしてさらに、その子がどんな子になるかを伝えるのです。

「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
      (ルカによる福音書1:32〜33)

 けれどもマリアはそんな天使ガブリエルの言葉は耳には入りません。その子がどんな子になるかよりも、自分に子どもが出来ることの方に驚くのです。とまどうマリアに天使ガブリエルが一喝します。
 「神に出来ないことは何一つない」
      (ルカによる福音書1:37)
 マリアは慌てて言葉を続けます。
 「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
      (ルカによる福音書1:38)

 ページェント前半のもっとも大事な場面の一つです。


 クリスマス当日の出来事は、次のように記されています。

「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出たこれは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」
      (ルカによる福音書2:1〜7)

 天使が登場します。三人の博士が登場します。羊飼いたちが登場します。マリアは、それらの様子を、母マリアとしてみていました。クリスマス物語の中心人物として体験したのです。

 ところがしばらくすると二人マリアとヨセフ、そして赤ちゃんのイエスはエジプトに逃げなければならなくなりました。イエスの命を狙う人々が出てきたからです。

 「占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。』ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。」
(マタイによる福音書 2:13〜15a)














 自分の産んだ子どもが、どんな人生を歩むのか。マリアはそれなりに理解することが出来たでしょう。それは、言葉だけで告げられたのではなく、実際に体験できたこともありました。クリスマスの夜の出来事ばかりではなく、遠くエジプトで身を隠す生活もしましました。「この子を捜し出して殺そうとしている」。それは、身も凍るような恐怖だったはずなのです。

約二年の後、イエスの命を狙っていたヘロデが死去します。マリアとヨセフは、そのふるさとであるガリラヤのナザレに戻ることになります。それはようやく家族にとって、平和な生活が始まることを意味していました。


 ヨセフの仕事は大工でした。家を作る大工ではなく、小さな船や家具を作る大工だったと考えられています。ナザレは山の中腹にある町でした。食べ物に困ることはなかったかもしれませんが、豊かな町ではありませんでした。
 ヨセフの家は子だくさんだったようです。イエスには、弟や妹が何人もいたようです。伝説ですが、ヨセフはイエスが十五歳ぐらいの頃になくなっています。母親と、弟や妹を抱えて、家族の生活を支えるのはイエスの仕事になりました。小さな時からの手習いで、ヨセフの大工の仕事を継いでいたのです。
 生活は苦しかったかもしれないし、悲しい出来事はあったかもしれないけれども、マリアにとっての幸せな日常生活が、このナザレの町にはありました。

 事態が激変するのは、イエスが三十歳の頃。
 イエスはナザレの町を捨て、荒野に向かいます。家を出て、修行の時を過ごします。その後、バプテスマのヨハネと出会い、ガリラヤに行って弟子を集め、天使ガブリエルが預言していた道を歩み始めることになりました。

 イエスの母マリアは、そのすべてを聞いていたはずでした。
 天使ガブリエルから、概要は聞かされていました。この子の命を、時のイスラエルの王が狙うほど、その生涯は特別のものになることを知っていました。
 もちろんその公の生涯が始まるまでの間、マリアとヨセフには幸せな家族としての生活が与えられていたことも知っていました。小さな命を育てる責任と喜びが与えられていることを知っていたのです。しかしいつかイエスは本来の役割のために親元を離れることを、覚悟していたはずなのです。

 ところが聖書は、とてもおもしろい物語をわたしたちに伝えています。
 イエスの噂があちこちで広まり、イエス様が有名になってきた時のことでした。

 「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。」
(マルコによる福音書3:20〜21)

 この身内の中に、イエスの母マリアがいたことが分かっています。
 母マリアは、心配で心配でしようがなかったのです。いくつになっても子どもは子ども、大切な宝物です。その子の悪い噂が広がって、世間を騒がせている。しかも家の仕事をほったらかしにして、人々に「神の言葉」を語って聞かせている。母マリアはイエスの弟たちを連れてきて、兄を説得し、連れ帰ろうと考えたのでした。

 「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。『御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます』と知らされると、イエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とはだれか』と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。』」
(マルコによる福音書3:31〜35)

 「わたしの母、わたしの兄弟とは誰か」。イエスの言葉です。「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」。イエスの言葉です。
 イエスのことを心配してやってきた母を、ばっさり切り捨てるイエス様がここにいらっしゃる。「あなたは、わたしの役割を知っていたのではなかったのか。何を心配してやってきたのか」。そう語られるイエス様が、ここにいらっしゃるのです。

 いつの時代でも、親は我が子のことを心配します。けれど、どんなに我が子がかわいくて、心配でも、子どもは独立し旅立っていく。そんな時がきっと来る。来てしまうのです。

 イエスが三十三歳の時のことでした。イエスとその弟子たちがエルサレムに向かいます。
 エルサレムの入場の時には、熱狂的に迎えられました。新しい王が入場するかのような熱狂でイエスは迎えられました。
 ところが大変なことが起こりました。その五日後には裁判にかけられてしまいます。ムチ打ちの後に、十字架につけられててしまうのです。殺されていくのです。

 人々が熱狂してイエスを迎える時、その母マリアはイエスの弟子たちと共に、イエスに従っていました。最後の晩餐の時、その群れの中にも母マリアの姿がありました。そして、弟子たちが逃げ出してしまった裁判の時にも、遠くから心配そうに見ていたのです。死刑の判決が出た時のも、その様子を遠くから見ていたのがマリアです。ゴルゴダの丘へ向かう道すがら、イエスが十字架を担いでいるその様子も、マリアは遠くから見ていたでしょう。
 そして何よりも、十字架につけられ、槍で刺され、苦しみのただ中にあるイエスの十字架の傍らにイエスの母マリアの姿がいたのでした。。愛するわが子が死んでいくその時に、その十字架の傍らで、ただ見つめることしかできなかった母マリアがいたのです。
 けれどもそれが、イエスの母マリアの姿だったのです。


 「親」という漢字は、すてきな漢字です。「親という漢字をよく見なさい。立木のように見守ることしか出来ぬ。それが親なのだ。」そう習いました。その通りだなと思います。イエスの母マリアも「親」の一人でした。わたしたちと何も変わらない、「親」の一人だったのです。何も変わりませんでした。だから、すてきだなと思います。よく味わいたいなと、思います。

(2011年12月16日 七尾幼稚園園だより巻頭言)

トップ アイコン今月のトップページへもどる

直線上に配置