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「今度はわたしたちが支えなければ」



 園長 釜土達雄

  二〇一一年三月十一日十四時四十六分ごろ、三陸沖を震源に国内観測史上最大のM9.0の地震が発生いたしました。津波や火災で多数の死傷者出ています。また福島第一原子力発電所で事故があり、その情報が刻々と伝えられています。
 津波のエネルギーはすごいものでした。テレビから流れる映像は、家の屋根を越えるような津波が、街並みを抜け、家を押し流し、たくさんの車を木の葉のように扱っていました。映画に出て来る映像のようで、この世のものとは思われない恐ろしさでした。津波の去ったあとは、がれきの山。地震の被害と同時に津波の被害。言葉を失いました。
 その後、福島第一原子力発電所で事故が起こりました。爆発音がした、煙が上がった、炎が見えた・・・。これもまた映像で刻々と情報が伝えられています。住民の避難も始まりました。
 原子力発電所の停止は、すぐに電力不足をもたらします。東京電力の範囲内で、計画的な停電がおこなわれる事になりました。情報が交錯する中で、生活に不可欠な公共交通機関の電車が止まる事になったのです。大変な混乱です。
 そして、余震が続いています。余震が続く有様は、通常の余震の数よりもはるかに多いということです。さらに、津波の起こった場所での余震だけではなく、遠く新潟や長野でも別の地震が起こっています。静岡県でも震度6強の地震が起こりました。


 わたしがこの地震の事を知ったのは、十一日の十五時三十分頃でした。本当は十日の日に引き渡しを受けるはずであった、教会と幼稚園の工事が一週間延びてしまい、まだ工事の打合せから逃れられない時だったのです。
 工事の細かな打合せと、幼稚園の通常業務との間を、行ったり来たりしながら過ごしていた時間に、牧師館の書斎に戻りました。仕事の続きをしようと思っ書斎に入ったのですが、たまたまついていたテレビに、信じられないような光景が映っていたのです。
 映画?と思ったのですが、妙にリアルで、不思議な時間でした。いくつもの家が波に押されて動き回っている。その間を、車がなすすべもなく流されていく。報道の方も、言葉を失っているようで、沈黙の中での放送だったのです。
 とても長く感じましたが、あとで考えてみれば、二十秒か三十秒、その程度だったのでしょう。大きな地震が発生したこと、津波が発生していること。その沈黙のあとに、淡々と事実だけが告げられました。わたしも、事実を受け止める事が出来ないまま、ゆっくりと歩いて幼稚園の職員室に行き、職員室から離れて、完成間近の工事現場の最終チェックをしていた蘭子先生に、事実を告げたのです。「大きな地震がおきたらしい」。

 幼稚園の玄関にもどり、玄関のテレビをつけてみると、リアルタイムの映像が続いていました。
 「一体何の映像?」
 「地震?」
 「これ、津波?」
 「地震はどこで起こったの?」
 「日本の事?
  日本のどこ?」
 状況がわからないままに、NHKのテレビを見続けたのです。

 玄関のテレビを見続ける教師の様子を、ちょっと不思議に思いながら声をかけてくださるお迎えのお家の方々に、「地震が起こったらしいんです」。「えっ?地震?どこで?」。そんな会話が続いたのです。

 それからすべてのテレビが、コマーシャルを飛ばしてニュースを流し続ける事になりました。おそらくは、わたしたちが知りうる日本の自然災害の中で、最大の被害となるに違いありません。日本のありようが変わるような、そんな自然災害になるに違いありません、衝撃の一日でした。そしてその衝撃が、今も続いています。


 能登半島にも地震がありました。二〇〇七年三月二十五日九時四十二分。能登半島地震です。七尾市でも震度6強が観測された地域がありました。大変大きな揺れでした。
 日曜日でしたから七尾幼稚園はお休みでしたが、七尾教会では教会学校の小学生の礼拝が守られていました。礼拝の真っ最中の時間に、地震が起こったのです。

 びっくりしました。最初は地震だとは思いませんでした。それくらい大きな揺れでした。揺れたのに、地震だとは思わなかったのです。地震がおさまって、ちょっと落ち着いて、そしてしばらく時間がたって地震だとわかったのです。子どもたちを大きな地震でも大丈夫だとわかっていた幼稚園のホールに導いて、お祈りをして、礼拝を終えたのです。

 あれからまもなく四年です。

 能登半島地震での被害を知ったキリスト教の団体は、教会も、幼稚園も、保育園も、諸施設も含めて全面的な支援をしてくださいました。その支援があって再建が始まったのです。








 七尾幼稚園の震災復興工事は早く、地震のあった同じ年の2007年の9月には、その復興工事は終わりました。
 続いて同じ年の9月から、七尾教会牧師館の改築工事が始まり、翌年の1月には完了しています。それがわたしが今住んでいる礼拝堂の後ろにある建物です。

 そして今回の工事です。七尾教会の礼拝堂の改築工事は、同時に七尾幼稚園の厨房と2階の集会室の工事も含まれています。その工事がまもなく完了です。

 間違えてはいけません。これらの工事は、わたしたちの力でおこなわれた工事ではありません。全国の諸教会、関連園、関連施設の祈りによって支えられた工事だったのです。

 本当は三月十日に引き渡しを受けるはずだった建物です。けれども1週間延びてしまいました。完成間近でした。そんな十一日にあの地震が起こったのです。津波が発生したのです。原発事故が起こったのです。



 今日は三月十七日。わたしは,七尾教会礼拝堂で完成のセレモニーに出席しました。鍵の引き渡し式でしたが、Aぐみさんといっしょに出席したのです。
 礼拝堂でおこなわれたセレモニーでは、普通に鍵の引きわたしがおこなわれましたが、ちょっとわたしがお話をしました。子どもたちにちゃんと知っておいてほしい事があったのです。
 まず、設計の松尾さんを紹介しました。どんな形の礼拝堂にするのか、どのくらいの広さにするのか、考えてくださった人です。そして、ご挨拶をお願いしました。
 次に現場監督の小谷さんを紹介しました。お仕事をしてくださる人が、お仕事がしやすいように考える大切なお仕事。でも、礼拝堂を壊してもいいよって、言ったのが小谷さん。そしてちゃんと作ったのも小谷さん。大事な人でした。
 小谷さんの上司の和田さん、そしてその上司の戸田組の社長の戸田さん。そして今日はブルーベリーのおじちゃんではなくて、戸田組会長の戸田さん。それぞれにお話をしていただきました。みなさん一人ひとりがそれぞれの役割を果たしてくださったので、この建築が出来たのです。感謝です。

 とってもきれいな礼拝堂と、とっても素敵な台所を作ってくださった工事のみなさまに、ありがとうみんなで言いました。それはとっても大事な事でした。けれどもわたしには、どうしても子どもたちに、もう一つお話ししたい事があったのです。

 「忘れてほしくないことがあります。それは、三月十一日に起こった地震の事です。そして、津波の事です。とってもびっくりした、悲しい出来事でした。
 まだみんなが小さかった頃、この七尾の町でも地震がありました。七尾幼稚園がの建物にひびが入り、七尾教会の礼拝堂も傾いてしまいました。先生もびっくりしました。
 全国の教会の人や、幼稚園や保育園のお友だちも、びっくりして、何とかしようとお祈りをしてくださいました。良いお心を数えて、献金もしてくださいました。そして、送ってくださいました。
 その献金で、この礼拝堂も、七尾幼稚園の台所もきれいになったんです。
 人は、一人の人で生きているのではありません。たくさんの人に支えられて生きているのです。
 


 三月十一日の地震の時に、お家がなくなったり、幼稚園がなくなったりしたお友達がいます。その中には、この礼拝堂を建て直そうと思ってくっださった人や、七尾幼稚園を直してあげようと思った人がいました。その人たちが助けてくださったので完成しました。
 けれど、その人たちが今困っています。今度の地震でケガをしたり、お家がなくなったり、食べ物がなくなったりしています。
 新しい礼拝堂や台所は嬉しいけれど、それを作ろうと言ってくださった人が困っているのは、悲しい事です。今困っている大人の人や、今困っている子どもたちの事を、忘れてはいけません。
 今度はわたしたちの番です。今何が出来るかを考えたり、これから何ができるかを考えたりしましょう。そして、今度はわたしたちがお手伝いをしていきたいと思います。」


 今度はわたしたちが支えなければ。


 「愛されている事を知り、
    愛する者となるために」。
(2011年3月19日 七尾幼稚園園だより巻頭言)

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