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「幸せなら 態度で示そうよ」


 園長 釜土達雄

 いったいこれはどういうことでしょう。
 今年の春は、いつまでたっても温かくならず、春の気候になったかと思えば、冬のような天候に逆戻り。いったい春なのか、冬なのかと文句を言っていたのです。
 だからといって、今年の夏は、こんなにはっきりと、急に暑くなるなんて!

 考えてみれば、ここしばらくは天気のことで文句ばかり。暑いと言っては文句を言い、寒いと言っては文句を言う。雨が降ったと言っては文句を言い、雨が降らないと言っては文句を言う。反省反省。

 その点、幼稚園の子どもたちは、毎日の天候を、そのままに受け入れて喜んでいます。また毎日の生活も、本当にそのままに受け入れて喜んでいます。

 戸田さんのご厚意でさせていただいたブルーベリーの収穫。あれはみんな大喜びでした。だいたい、木の高さが子どもたちにぴったり。そしてしっかり安全の確保された環境。さらに、どろんこにならない木くずの土。本当に何もかもが子どもたちにとって、素敵な環境でした。
 そして何よりも、完熟したブル-ベリーのおいしかったこと。あの幸せそうなお顔は、一人ひとりの宝物でした。

 子どもたちにはブルベリーのお土産付き。自分でとったブルベリーを、お家に持って帰りました。自慢げに、お家の人に差し出すその手には、ビニール袋いっぱいのブルーベリー。きっとお家でも、その日一日の出来事を、いっぱいいっぱいおしゃべりしてくれたに違いありません。

 「ちゃんとお家の人にも分けてあげてね」と、お話ししておきましたが、どうだったでしょうか?

 






 七尾幼稚園にだって、作っているお野菜はいくつもあります。出来たばかりのミニトマト3個。それを20個近くに切り分けて、Aぐみさんに分けて、食べてもらいました。トマトが苦手だったお友だちが、なぜかパクン。だって、みんなでお世話したトマト、とってもおいしいよね。
 トマトには、失敗もありました。完熟して一番おいしそうな時に、そのトマトを狙って食べちゃう悪いやつ。カラス!みんなのがっかりしたお顔。本当に悔しかったね。

 カブトムシの幼虫を手に乗せてのまん丸おめめ。さなぎからチョウチョが出てきて、感動のおめめ。オタマジャクシがカエルになって、バイバイの悲しいおめめ。子どもたちの毎日は、新しい経験と、発見の毎日です。

 そうそう、七尾市港まつりのよさこい参加は、Aぐみさんの特権です。暑いさなかの出演の前に、Aぐみさんのお部屋で「お化粧」です。女の子は三野さんに、手作りのリボンまでつけてもらいました。

 七尾幼稚園での経験は、一人の子どもの経験ではありません。子どもたちがみんなでする経験です。一人でやっても楽しいけれど、みんなとやるともっと楽しい。喜びや楽しみは、みんなで一緒の経験になると、喜びが何倍にも増すのです。
 けれど七尾幼稚園の経験は、子どもたちだけの経験であってはなりません。ちょっと恐縮ですが、お家の皆様を巻き込んだ経験であって欲しいと願っています。お家の人が、子どもたちの経験を、一緒に喜んだり悲しんだり。そんな、家族共有の経験になってもらえたら・・・。そう思っていろいろ工夫をしているのです。



 私は7月5日と6日に、東京でちょっと大事な会議に出席してきました。木村利人先生の講演が1日目にあり、わたしがその講演の司会と進行を担当しました。
 木村利人先生は、早稲田大学の名誉教授で、現在は恵泉女学園大学学長です。専門はバイオエシックス(生命倫理)。「医療中心」の医学から「患者中心」の医学に大きく変わっていくきっかけとなったインフォームドコンセントを日本に紹介した先生として有名です。
 もちろんこの会議でのご講演は、この生命倫理のご講演を受けるためのものだったのですが、私には別の思いがありました。木村利人先生にお話をしていただくのなら、木村利人先生の前に「きむらりひと」先生にお話をしていただきたい。そう考えていたのです。
 どうしてかというと、木村利人先生ときむらりひと先生は同一人物ですが、きむらりひと先生は、あの「幸せなら手をたたこう」を作詞したきむらりひと先生だからです。

「幸せなら 手をたたこう
 幸せなら 手をたたこう
 幸せなら 態度で示そうよ
 ほら みんなで 手をたたこう」

 木村利人先生としてではなく、まずきむらりひと先生として紹介した私の紹介を受け取って、昭和9年生まれの先生はこんな話からされました。

 「この『幸せなら手をたたこう』には『「態度で示そうよ』という言葉が入っています。学生時代、フィリピンで労働奉仕をした時、受け入れてくれたフィリピンの人々との交わりの中から生まれた歌詞です。第二次世界大戦で大きな被害を受けたフィリピンの人々が、加害者である日本人のわたしたちに対して、大きな憎しみを持っていることを知ったのでした。また殺したいという気持ちさえも持っていることを知ったのでした。それくらいの憎しみだったのです。それにもかかわらず、その気持ちを乗り越えて、親切にしてくれた。その気持ちを乗り越えて、態度で示してくれた。そのことが痛いほどにわかったのです。そして嬉しかった。
 夜、たまたま聖書を読んでいて、詩編の四七編2節『すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。』という言葉に出会った。そこから『幸せなら手をたたこう』という歌詞が、自然に生まれてきたのです。
 『態度でしめそうよ』。日本人は、これが苦手だ。だから論争になったこともある。『態度でしめそうよというのは、日本語的におかしい』。そう言われたこともある。そうかもしれないが、態度でしめすことは大事なことだと思う。『幸せならと浮かれている場合か』とも言われた。だけど、そんなつもりで、この歌を作ったわけじゃない。もっと深刻な思いを持ってつくったのです。」

 いろんな思いを持ってこのお話を聞きました。そして、一つの歌詞の言葉に込められている深い思いを、感じたのです。
 司会の思いをしっかり受け取って、その上で、生命倫理の話に向かっていく。楽しいひとときを過ごさせていただきました。


 ちょっと気になったのは、「態度でしめすことが、日本人は、苦手だ」という言葉でした。「だから論争になったことがある」。

 「きむらりひと先生。わたしは幼稚園の園長をしておりますが、幼稚園の子どもたちは、喜びも、悲しみも、全身で表現します。子どもたちの目の中に、喜びも、悲しみも表現されています。いったい日本人は、いつから、態度で示すことが苦手になるのでしょうか?」

 残念ながら、この質問をする時間はありませんでした。講演のあと質問があり、司会者が気にしなければならない深刻な時間はなかったのです。
 わからないから質問をするのではありません。知らないことを質問するのではありません。このような時の司会者の質問は、司会者自身が答えを知っている質問、講師の先生なら、こう答えるだろうなぁと予測の出来る質問をするものです。会場から質問が出ない時の、質問を促す問いと応えにならなければならないからです。


 そうそう、そうなんです。みんなわかっていることなんです。
 自分の喜びを、一緒に喜んでくれる家族や友だちがいたら、子どもたちは、いつまでも喜びを態度で示してくれること。
 自分の悲しみを、一緒に悲しんでくれる家族や友だちがいたら、いつまでも悲しみを態度で表してくれること。
 そして、自分の悲しみや悔しさや怒りを、ただそのままにしておかないで、本当はどうあるべきかを知っている家族や友だちがいたら、思いを超えて相手をゆるすほどの大きな愛で包むことが出来ること。

 幼稚園時代だけじゃなく、いつまでも、子どもたちの思いに沿っていてあげて欲しい。そう思います。
 そんな友だちと一緒の七尾幼稚園の子どもたちで良かったな。そう思います。
 お家の人の協力を得られる七尾幼稚園で良かったな。そう思います。
(2010年7月20日 七尾幼稚園園だより巻頭言)

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