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「卒業証書を、
  この礼拝堂で
   お渡しします」

 園長 釜土達雄

 七尾の町を車で走っていると、あちこちで工事をしているのがわかります。

 駅前のシンボルロードは、食祭市場の建設から始まって、駅前再開発があり、工事が最終場面となりました。二〇年になろうとする工事が、もう少しで終わろうとしています。
 シンボルロードを十字路で横切る川原松百線は、川原町の交差点から松任町へと向かう道路です。昨年末に最後の橋が完成し、川原町の交差点から、七尾市役所前を通り、シンボルロードを横切って小丸山公園に向かい、その横を通って、最後に完成した橋を渡れば、松百の交差点まで一本道。かつての七尾の街並みを知る者にとっては、別世界の趣となってしまいました。
 この川原・松百線に隣接して七尾幼稚園の駐車場があります。というよりも、川原・松百線の工事があったからこそ、七尾バスが使っていた駐車場は、半分に分断され、半分は、観光者向けの駐車場に、残りの半分が、七尾教会・七尾幼稚園駐車場にと、売却されたのでした。ですから、川原・松百線の工事がなければ、七尾幼稚園の今の駐車場は存在しなかったのでした。

 他にも工事はどんどん続きます。七尾市の南側には、七尾市の東側を北から南に走る道路があり、西にも同じように北から南に走る道路があります。その二つの道路を結ぶ道路も、現在建築中です。また、能越自動車道の七尾と氷見の間も、工事の真っ最中です。
 道路だけではありません。七尾幼稚園のすぐそばにある裁判所は、つい先日完成したばかりです。今は最後の仕上げの駐車場工事をしているところです。


 一九六一年(大正五年)創立の七尾幼稚園は今年で九四年の歴史を持ちます。創立に先立ち、大正三年から、金曜日だけの幼稚園、金曜学校を行っていたという記録がありますから、九六年の歴史があると言っても良いかも知れません。現存する能登で最も古い幼稚園でが七尾幼稚園です。

 その七尾幼稚園の歴史は、長い間一本杉町と共にありました。一本杉の幼稚園として知られ、今の松本呉服店のあった場所が、七尾幼稚園のあったところです。
 七尾幼稚園が、現在の馬出町に移ってきたのは一九六一年年(昭和三六年)の四月の事でした。当時の幼稚園は木造で平屋建て。斬新で画期的な園舎だったのです。

 当然の事ですが、わたしは一本杉の幼稚園を知りません。私が知っているのは今の園舎の前の園舎から。しかもずいぶん古くなってから知る事になりました。七尾幼稚園の副園長として着任したからです。
 この園舎が改築されるのは一九九〇年のことでした。本当にたくさんの方に支えられた工事でした。私にとっても初めての大きな工事。何もわからないで準備を始めた工事だったのです。だいたい、バザーなどで苦労してみんなで作った積立金が四〇〇万円。ところが当時七尾幼稚園には四〇〇万円の借金がありました。園舎の建築のために必要な資金は約一億円。どう考えても出来るはずのない工事なのに、はじめてしまった工事だったのでした。たくさんの方に助けていただかなけらば、出来ない工事だったのです。

 あのとき出来なかった工事がありました。それは、教会の礼拝堂の改築でした。幼稚園と一体になっていましたが、幼稚園は木造、教会はブロック造。改築できなかなぁと思いましたが、前任の今村先生の手による礼拝堂で、デザインもかわいく、すてきな礼拝堂です。改築の話も出来ないほど、みんな、この礼拝堂が大好きだったのです。
 そして今、道路工事が終わってみると、道路からもよく見えるようになり、ひときわそのデザインがすてきに見える礼拝堂となりました。

 通園バスでの登園の時は、礼拝堂を眺めながら幼稚園の玄関に止まります。おうちの方と一緒に来るまで登園の場合は、駐車場から礼拝堂の前を通って登園です。小丸山公園の駐車場の方から登園してきても、礼拝堂の塔はしっかり見えるのでした。七尾幼稚園のシンボルこそ、七尾教会の礼拝堂であり、教会の塔だったのです。

七尾幼稚園は、この礼拝堂を一年に四回使っています。六月の花の日。十一月の収穫感謝祭。十二月のクリスマス。そして三月の卒業式です。
 子供達にとってはめったに入らない礼拝堂ですから、ここに入る時はちょっと緊張。厳粛な気持ちになるとても大事な瞬間なのです

 多くの人に愛され、親しみを持たれている礼拝堂ですから、このままこの礼拝堂を大事に使っていこう。みんなでそう願っていましたし、それが当たり前だと思っていました。大事に大事に使っていた礼拝堂だったのです。


 そう思っていたのに二〇〇七年三月、能登半島地震が起こったのです。これは大変な出来事でした。すぐに教会の教区が、能登半島地震の被害を調べるために専門家の方を送ってくださって、調査をしてくださいました。その結果、地震の被害が明らかになりました。
 礼拝堂の後ろにあった私が住んでいた牧師館は、危険建物と認定され、すぐに取り壊して新しいものを建てるようにと報告されました。全国の諸教会に呼びかけて、献金が募られ、一年もしないうちに今の牧師館が建ったのです。
 幼稚園も細かなひびがたくさん入っている事がわかりました。また、防水も一部だめになっている事がわかったのです。こちらの方も、全国の教会に呼びかけて募金が募られ、石川県の補助金と併せて、改修工事がなされる事になったのです。二〇〇七年の八月には、改修工事は終わりました。
 驚くべき早さでした。感謝の出来事でした。本当に早い段階で震災復興がなされる事になったのです。

 ところが礼拝堂の方の報告は、少々違うものになってしまいました。「すぐに取り壊さなければならないような状態ではないものの、このまま使い続ける事は好ましくない。改築をしてください」という報告だったのです。
 礼拝堂の改築は牧師館や、七尾幼稚園の改修とは違って、かなり高額です。しかも、じっくり考えて事を運ばなければなりません。時間をかけて献金を募るとともに、どんな礼拝堂にするか、少し時間をかけて考えてください。そういう風に教区や教団は考えてくださったのです。

 礼拝堂を新しくしても良い。しかも全国の教会が協力してくださる。それはとても嬉しい事だったのですが、七尾教会の信徒の方々の反応はかなり複雑なものでした。なぜなら、みんな今のこの礼拝堂が大好きだったからです。
 この礼拝堂をこのままにして、耐震補強工事は出来ないのか。そんな事を調査に来てくださった設計士とその事務所の方に聞いてみました。しかし答えは悲しいものでした。新築で同じものをたてるよりも三倍近い費用がかかる・・・。それは、不可能な事だったのです。

 紆余曲折。今の礼拝堂と、同じデザインで、新しい耐震構造の礼拝堂を建てる。その基本的な考えが決まり、準備が開始されたのです。教会の皆さんが納得してくださった結論でした。

 一本杉から移ってきた一九六一年建築の礼拝堂。たくさんの人が礼拝を守り、たくさんの人が讃美歌を歌い、祈り、祝福を受けた礼拝堂。たくさんの人が結婚をし、たくさんの人がおくられていった礼拝堂。
 そして、たくさんの子供達が、この礼拝堂で卒業証書を受け取って、幼稚園から旅立っていったのでした。

 今の、この礼拝堂で卒業証書を受け取りい最後の子供達が、今年のAぐみさんです。

 Aぐみさん。先生は、この礼拝堂で卒業証書をお渡しする事は、とても大事だと思っています。君たちが、自分一人で大きくなったのではない事を、何度も何度も聞いたこの礼拝堂から、旅立っていく事は大事だと思っているからです。
 君たちはお父さんやお母さんに愛されてきました。おじいちゃんやおばあちゃん、おうちの人たちに愛され、親戚のおじさんやおばさんに愛され、大きくなりました。社会のたくさんの人に見守られ、手助けを受けて、大きくなったのです。
 そして、目に見えない神様にも見守られ、助けていただいて、大きくなったのです。
 自分一人で大きくなったのではありません。決して忘れてはいけない大事な事です。
 そんなみんなの思いが詰め込まれた礼拝堂で卒業証書を受け取るAぐみさん。君たちは、自分一人で大きくなったのでないことを、よく知っていました。そして、お友達と一緒に生きるっていう事が、どんなにすばらしい事かを本当によく知っていたのです。この礼拝堂で卒業署書を受け取るAぐみさんとしては、
最もふさわしいクラスになりました。先生はとっても嬉しく思っています。

 Aぐみさん、卒業おめでとう。
 八月には取り壊して、この礼拝堂はなくなります。その礼拝堂で先生は心を込めて、卒業証書を手渡します。この礼拝堂での最後の卒業式。Aぐみさん、ご卒業、おめでとう。
(2010年3月18日 七尾幼稚園園だより巻頭言)

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