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「一粒の麦に感謝」


 園長  釜土達雄

 2月の3日の早朝、水谷歌(みずたにうた)という方が亡くなられました。
 2月5日にお通夜にあたる前夜式。6日に告別式とされた葬式が七尾のオークスセレモニーホールで行われました。七尾教会の役員として、また長老として、七尾幼稚園と深く関わってくださった大事な方でした。
 葬儀の一切を牧師としてわたしが取り仕切りました。能登の牧師達がこの葬儀のお手伝いをしてくださいました。それに加え、金沢から、富山から牧師が応援に加わりました。北陸学院の理事長で学院長の楠本史郎先生も、応援に駆けつけてくださり、葬儀の一切が行われたのでした。

 わたしが七尾幼稚園と七尾教会に着任したのは一九八三年の四月のことでした。当時はまだ牧師ではなく伝道師という役職でした。七尾幼稚園では園長ではなく副園長でした。そんなわたしが、初めての葬儀を司式することになったのは、水谷さんのご主人の水谷良庸先生でした。七尾市白銀町の水谷医院の院長先生だった、あの水谷先生です。

 その水谷医院はその後、水谷先生の娘婿に当たる砺波総合病院の副院長だった岡田先生が引き継ぐことになります。場所も変わり、岡田胃腸科クリニックとなりました。

 空いた水谷医院の四階に水谷歌さんはたったひとりで住んでいらっしゃいました。
 七尾幼稚園は一九九〇年に改築することになるのですが、園舎改築の時の仮園舎はこの旧水谷医院でした。水谷歌子さんのお申し出によるものでした。
 一階と二階が幼稚園の仮園舎になりました。二階の病室の大部屋がホールとなり、四人部屋が各クラスのお部屋となりました。そんなに広くはなくて、袖ヶ江公民館のホールなどを時々利用しながらの保育でしたが、子どもたちはこの旧水谷医院が大好きでした。特に四階に住んでいた水谷さんが、よく幼稚園の保育室にやってきてくださったので、子どもたちは(四階に住んでいるとは知らず三階から下りてくるので)「三階のおばあちゃん」と呼んでいたのです。

 そんな子どもたちの言葉に合わせてわたしが、「水谷のおばあちゃん」などと声をかけると、「わたしは釜土先生のおばあちゃんになったことは、一度もありませんよ!」とおっしゃって・・・自分の本当のお孫さんの名前を羅列するのです。この会話があまりにもテンポが良かったので、わたしはいつもからかうように「水谷のおばあちゃん」と、わざと呼んでいました。すると必ず同じように「わたしは釜土先生のおばあちゃんになったことは、一度もありませんよ!おねえさまとよびなさい!(笑)」とおっしゃるのです。小気味よい言葉のキャッチボールが出来た方でした。
 ある時、お孫さんの「ちあきちゃん」という方のことが話題になりました。わたしもその方のこともよく知っていたものですから、つい「かわいい方ですね」と言ってしまったのです。すると「わたしが若かった時はもっとかわいかったですよ」と、自分がいかに若い時にアイドルであったかという話しが二〇分も続いてしまいました。
 金沢の北陸女学校に進学したこと。そして、その時に写真屋さんに写真を撮りにいったら、その時の写真を写真屋さんが勝手に売っていたこと。そんな話しがとても自慢でお話しになったのです。

 この北陸女学校は北陸学院中学校になり、北陸学院高校になっています。今の北陸学院中学校・高等学校の校長は七尾の阿良町出身の堀岡啓信先生ですが、堀岡先生が子どもの頃のかかりつけ医は水谷良庸先生でした。ですから、「堀岡先生が北陸学院中学校・高等学校の校長先生になりましたよ」とお話しした時は、本当にびっくりなさって、「うれしゅうございます」。そんなお話しが大好きな方でした。

 水谷さんにはこんなエピソードもあります。
 七尾幼稚園の園舎改築の時、七尾幼稚園では七尾市に補助をお願いするために陳情に出かけることになりました。母の会(今の保護者会)として陳情に行くことにしていたのですが、当時、能登選出のある代議士の後援会の婦人会長であった水谷さんは、自分も一緒に行くと言って、この母の会の陳情団に加わってくださったのです。当然、系列の市議会議員の方が何人も加わって、一大陳情団になりました。当時の市長は石垣宏先生。この陳情団の先頭を切って市長室に入って行ったのは当然水谷さんでした。これはまずいと、座る時にはわたしが先頭になりましたが、わたしの横で、一緒に頭を下げてくださったのは水谷さんだったのです。
 一通りの陳情が終わり、市長室を出ようとすると当時の石垣市長がこんな風に言葉をかけてくださいました。「水谷さんが一緒だと、冷や汗が出ますね」。
 何気ない会話だったはずなのですが、わたしの前を歩いていた水谷さんがその言葉を聞いてくるりと市長の方に向き直り、市長を指さしてこう言い放ったのです。
 「市長!冷や汗出さんと、お金、だしてくだい!」。
 石垣市長は一瞬固まり、水谷さんは、「へへへェ」と笑って、(たぶんうまいこと言ったと思いながら)、その部屋を出てしまったのです。わたしは申し訳なくて、深々とお辞儀をしてその部屋を出ることになりましたが、身体は小さかったけれど、迫力満点のおばあちゃんだったのです。

 大正3年生まれの水谷さんは、和倉温泉の老舗の旅館のお嬢様でした。「若い時には、付き人がいつも二人いた」とおっしゃっていました。時代の人ではありましたが、新しいものに興味津々の方でもありました。
 回転寿司にはじめて水谷さんをお連れしたのはわたしでした。何人かと一緒に、ある会議に向かう途中で昼食をとるために回転寿司に入ったのです。はじめて見る光景にびっくりした水谷さんは、なぜかお寿司には目もくれず、プリンの上に乗っていたサクランボがほしいと、いくつもプリンをとるのです。そしてサクランボだけをとって、あとは「先生に差し上げます」。
 吉野家の牛丼にはじめてお連れしたのもわたしでした。座って、注文をして、一分もしないうちに牛丼が出てくるのにびっくりした水谷さん。感激なさったのでしょうけれど、いろんな会でのスピーチで「皆さんは吉野家の牛丼をご存じでしょうか」とお話しになるのには赤面でした。「座って一分も立たないうちに出てくる」というご本人が感心した話しなのですが、たぶん、そのスピーチを聞いているほとんどの人は知っていたと思うのです。


 北陸女学校時代に洗礼を受けた水谷さんは、わたしが七尾に来てからは、ほとんど礼拝に休むことのない方でした。聖書の言葉に耳を傾け、ひとり礼拝堂で祈るそんな素朴なキリスト者でした。

 ある時「聖書の中でどんな言葉が好きなのですか?」と問うたわたしに、首をちょっと傾けて「一粒の麦なんって、好きですよ」とおっしゃいました。

 「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」(ヨハネによる福音書十二章二十四節 口語訳)

 一粒の麦が、一粒の麦のままであろうとして、自分を守っていたら、それは一粒のまま。
 けれども自分を捨てて芽を出し、自分の生きる場所をしっかり確保して根を出し、自分の命を一生懸命生きて成長し、葉を茂らせ、花を咲かせ、実をつけようと努力する。
 暑さ寒さに耐え、水の多い時や水の少ない時にも耐え、病気や害虫にも耐えて生きていく。
 その時はじめて多くの実を結ぶことになる。
 ただその時、その引き替えに、親の麦の自分の命は、なくなっている。

 あなたは自分の命を、何に用いているのか。
 考えさせられる言葉です。

 こんな言葉が大好きだった水谷さんは、自分のことだけではなく、自分の周りに自分を必要とする人々をしっかり見てくださっていたに、違いありません。そして、七尾幼稚園のことを大切に思ってくださり、必要に応じて助けてくださったのも、水谷さんのこんな生き方が原点だったのかもしれません。


 七尾幼稚園が幼稚園としてその役割を果たしていくとき、たくさんの人に支えられてはじめて、その役割を果たしていくことが出来るのだと、心から思います。多くの人々の祈りに支えられ、具体的なご支援をいただいて、役割を果たしていくことが出来るのだと思います。

 一粒の麦に感謝。
 そしてわたしたちも、
  一粒の麦になりたいと思います。
(2009年2月25日 七尾幼稚園園だより巻頭言)

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