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「身体に痛みをかかえてわかる事」

 園長  釜土達雄

全くもって情けない話なのですが、この二ヶ月ばかり左ひざが痛くて痛くて、どうも具合が悪いのです。
 一ヶ月間がまんして、覚悟を決めて病院に行き、診断していただいたところ、関節に水がたまっているとの事でした。
 「抜きますか?」と聞かれたので、「痛いですか?」と聞いてみました。すると「少し太めの針を関節の間にさして・・・」。その説明を聞いているうちにそっちの方が痛く感じられて、「ほおっておいても大丈夫ですか?」と聞いてみたのです。すると「自然に治る事もあります」と言う事だったので、「今日はやめておきます」と、帰ってきました。いやな病気だといけないのでと、血液検査はしていただいたのですが、聞きに行く勇気もなくほおっておいたのでした。

 


 けれども、自然に治るという事も全然なくて、関節のあたりがもっともっとふくらんできたような気がするし、痛みも強くなるし、階段を上り下りするのにも苦労する始末。ついにあきらめて再び病院に行ったのでした。「覚悟ができましたか?」と聞かれて、「よろしくお願いします」。水を抜いていただいたのです。
 不思議なものです。痛い思いはしたものの、関節がスムーズに動くようになって、痛みも小さくなり、「こんな事ならもっと早くすれば良かった」と思いました。血液検査の結果も異常なし。すべてはめでたしめでたし。
 ただ、「何度か繰り返す事もありますよ」と言う事でしたので、気をつけているのですが、今でもなかなかすっきりとはいたしません。けれども少しずつ少しずつ痛みも取れて、良くなってきているように思います。

 この間の日常生活は実に不便でした。正座はもちろんできないし、あぐらをかく事も痛くてできません。階段の上り下りには手すりが必要で、畳に座ろうとしても踏ん張りがきかず、おしりからどんと落ちる感じ。どんな場所でも足は伸ばしていなければならなくて、とにかく不便で不便でしようがありません。普通の歩行にも苦労する始末で、まじめに、「杖を買おうかしら?」と考えたのでした。
 「原因は何でしょうか?」とお医者さんに聞いてみたのですが、スポーツをしているわけでもなく、どこかにぶつけたわけでもなく、「野球の松井選手と同じような症状だからと言っても、意味は違いますよ。老化じゃないかしら」と言われるしまつ。確かにわたしと子どもたちの様子を見ていた幼稚園の先生たちの目も、妙に優しいものでした。みんな、笑顔なのですが、わたしには不思議な笑顔のように見えました。だって、どの先生も口をそろえて言うのです。「先生、おじいちゃんになっていますよ」。
 特にこれが、堂脇先生の口からも出るのですからしようがありません。わたしが七尾幼稚園にやってきたのは今から二五年前、二七歳の時でした。東京神学大学大学院を卒業してすぐ着任したのですが、その七尾幼稚園に、わたしよりも一年早くいたのが、まだ二〇代前半の堂脇先生。まだ山田という名前だった時代です。お互い、まだ若かった時を知っています。そんな堂脇先生が、「先生、おじいちゃんになっていますよ」。自分の年齢を深く感じるときでした。

 もう、同級生の中にはおばあちゃんになっている人おじいちゃんになっている人が何人もいます。幼稚園に新しく入園してきた子どもたちに「おじいちゃん」と声をかけられても、違和感を感じなくなりました。
 お医者さんから、「膝の筋肉が衰えてきたから、足が痛くなるんですよ。治ってきたら少し歩いた方がいいですね」と言われても、素直に受け入れられるようになりました。
 人はいつかは老いるものですし、老いへの歩みを続けているものです。そのことをしっかり受け入れていかなければなりません。





 しかしそんな事よりも、今回自分の膝の不都合から、感じてきたのは、子どもたちの優しさや今までとの対応の違いだったのです。

 ゆっくりゆっくり歩いている園長先生のそばには、動きの激しいAぐみさんやBぐみさんも、ちょっといつもとは違った対応になりました。わたしのそばでの動きはゆっくりとなり、「せんせいだいじょうぶ?」と聞いてくれて、いつもよりもゆっくり目でお話しもしてくれるのです。
 自分の知っている知識の中で、「棒を持って歩いたらいい」とか、「手押し車っていうのを押したらいい」とか、「ずっと寝ていてもいいよ」とか。そこまでじゃないんだけどなぁと思っても、その心遣いは嬉しいものでした。
 自分の遊びにわたしを加えようというのでもなく、何かを教えてもらおうというのでもなく、手伝ってもらおうというのでもなく、わたしの動きを気遣いながら、足の痛みを心配してくれるのでした。

 
 逆に、こんなゆっくりの動きの園長先生のそばにやってきてくれて、すぐそばにいながら遊びを展開してくれるのは、Dぐみさんたちでした。べたべたとまとわりついてきて、痛いお膝の上にも平気でのってくる。けれど、体重が軽いのと動きが遅いのでこちらもうまく対応できて苦にならない。実に不思議な雰囲気でした。そんなようすが、「おじいちゃんしてる」と、いう風に言われるゆえんなのかもしれません。

 


 人はそれぞれ、その状況にふさわしい対応をしなければなりません。
 小さな子どもたちを受け入れるために手を広げてキャッチ!おいでというやり方は、幼稚園の子どもたちを受け入れる大事な愛情表現です。
 けれど、DぐみさんやCぐみさん、Bぐみさんは喜んでくれても、Aぐみさんの後半にもなると、「何それ!」という感じで、白い目で見られます。小学生になって、一年生や二年生になると、もう完全に無視されますし、それが五年生や六年生になると「エロ、オヤジ!」と言われかねません。中学生や高校生にできるはずもありません。
 人は、愛情表現さえも、年齢によって変えますし、変えなければならないのです。

 今までは自分の方が子どもたちに対していろいろと工夫しながら愛情表現を変えていたつもりだったけれど、身体に痛みを抱えて子どもたちに接してみると、案外子どもたちの方が気を遣ってくれている事がわかるのです。
 結構みんないいやつじゃないか。そんな風に思います。いろいろ気遣ってくれて、ありがとう。そんな風に思います。

 優しさには、相手の必要がわかる能力が不可欠です。優しさは、相手に対する限りない関心が不可欠です。自分の事と同時に自分の目の前にいる人への限りない慈しみがあってこそ、優しさは優しさになっていく。

 身体に痛みを抱えて気づく喜びもあるものだなと、ちょっぴり嬉しくなったのでした。





 
(2007年11月30日 七尾幼稚園園だより巻頭言)

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