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「人生で確実なことは2つだけ」

 園長  釜土達雄

 

 去る二月十五日、志賀町の高浜高校で授業をしてきました。こころの教育の時間で、一〜二年生一〇二名の前でした。題は「生きる力」ー幼稚園の園長として感じてきたことー
 この授業に招かれたのは、一年前に田鶴浜高校に招かれて授業をしたからでした。その時の題は、「死を見つめて生きる」ー幼稚園の園長として感じてきたことー。とっても重い題をいただいて、悩みながら考えて、工夫をしたお話でした。ところがそのお話が、決して重くなかったというので、そしてまたおもしろかったというので、それを聞きつけた高浜高校からお電話をいただいたのです。題は違いましたが、どちらもほぼ同じ内容でお話する事になったのです。
 どちらの高校生達も不思議なくらいにお話に聞き入ってくれました。寝ている子なんてほとんどいなくて、みんな顔を上げながら、ある時は笑い、ある時は笑顔で答え、ある時には真剣なまなざしで考え、聞いてくれました。それはとても楽しい時間。みんなの心に何かが届いてくれることを期待する、とってもステキな時間だったのです。

 どんなお話をしたのかといえば・・・特別な内容ではありません。副題が「幼稚園の園長として感じてきたこと」なのですから、七尾幼稚園の関係者ならば、誰でも知っているあの話とあの話が、中心です。
 それは、七夕の時には必ず出てくる「お星様にさわれる話」。そして、クリスマス前に母親セミナーがあると必ず聞くことになる「サンタクロースが偽物だと分かったときに」。長い間七尾幼稚園に関わっておられる保護者の皆様ならば、自分でお話ができるくらいにきっと有名な釜土先生の持ちネタです。
 ちょっと視点を変えてみると見えてくる、とっても大切なことに気付いて欲しい。そんな願いからお話ししているあの話と、あの話だったのです。

 けれどもそれですべてが終わるわけではありません。これから長い人生を生きていく高校生達に、自分の人生をしっかり見つめて生きてもらうために、ちょっといろんなことを考えてもらうそんな話も加えました。
 そんなお話の一つが「人生で確実なことは二つだけ」。わたしがとっても大事なことだと考えて、チャンスがあればしているお話です。


 わたしは、人生に確実な事などほとんどないと思っています。不確実な事ばかりで、自分がこれは確実だと持っていても、他の人から見たら違うという事ばかりだとも思います。けれども、誰からも「それは違う」と言われない人生で確実なこともきっとあると思っているのです。どんな哲学者にも否定されない、どんな宗教家にも否定されない、どんなおじさまからもどんなおばさまからも否定されない人生で確実な事は二つだけあると思っています。それは、
 @今自分が生きていること
 そして
 Aその自分がいつか確実に死ぬこと
 この二つです。

 今このお話を読んでいるあなた。そのあなたは、今きっと生きている。生きている「はず」です。もし「いえ、自分は今生きているようですが、実は・・・」なんてことだったら大変です。そんなことはありえません。今このお話を読んでいるあなたは「@今自分が生きている」ことを、きっとそれはその通りだと言ってくださるに違いないと思うのです。

 そしてその時、もう一つのこと。その今生きている自分が、「Aいつか確実に死ぬ」ことも、その通りだと言ってくださるに違いない。悲しいことで、触れたくないことで、誰もがそんなことなどないように振るまっていますが、本当は誰でも知っていること。それは、「人は誰でもみんな死んでいくのだ」という事実です。
 もし誰かが、「自分は死なない」などとと言っていたとしたら、その人の気持ちは大事にしながらも、そんなことはないとみんなが思うはずなのです。

 人生で確実なことは二つだけ。
 @今自分が生きていること
 そして
 Aその自分がいつか確実に死ぬこと
 この二つです。


 「命」はとっても大切なもので、その命を他のものにたとえることはゆるされないのだということはわかっています。「命」を「命以外のもの」にたとえることはゆるされません。けれども、もしみなさまのゆるしをいただいて「命」を「命以外のもの」にたとえさせていただけるならば、わたしは「今生きている自分」が「いつか確実に死ぬ」その時までの「時間」に置き換えることができるのではないか。そう思います。

 今自分が生きています。その自分が何時か確実に死んでいく。その間を命といっても良いのではないか。そう思うのです。

 三〇年先かもしれません。四〇年先かもしれません。五〇年先かもしれません。逆に、二〇年先かもしれません一〇年先かもしれません。今生きている自分が、いつかかむかえるその死までの時間が、命なのではないか。

 その時間を、キャベツの千切りのように、切り刻んでいく。一〇年、一年、一ヶ月、一週間、一日、一時間、一分、一秒。
 今生きている自分が死んでいくまでの命の時間を切り刻んでいくのです。一〇年、一年、一ヶ月、一週間、一日、一時間、一分、一秒。
 この一分一秒が、わたしたちの命そのものなのではないか。一日一日、毎日のささやかな一時間一時間が、命そのものではないか。そう思うのです。

 人を恨んで生きても一時間。愚痴を言い、文句を言っても一時間。逆に、人の悩みに耳を傾け、悲しみを共にし、優しさに生きても一時間。

 わたしは思うのです。わたしたちは、自分の時間、自分の命の時間を、どのように使ってもゆるされています。それほどの自由の中に生きている。だから、自分の時間、自分の命を、どのように使うか決めておいたらよいのではないか。そう思うのです。

 わたしは、幼稚園の園長として子どもたちの前に立っています。子どもたちに、どのように生きて欲しいかを語っています。
 お友だちをたたいちゃいけないこと。お友だちのものを勝手に持っていってはいけない事。お友だちの気持ちになって考えること。「かして」「いいよ」。譲り合うことは大切だ。そんな一つひとつを、当たり前のように語っています。
 幼稚園の先生達と共に、毎日毎日、それこそ飽きるほどに同じことを語り続けています。そして子どもたちも、自分の言葉で、お友だちや小さなお友だちに、その同じ事柄を、語り続けてくれています。自分の身に付くように、それが当たり前になるように、日々過ごしているのです。それが幼稚園の生活です。

 自分の命を、どのように使うのか。人が人の間に生きていく「人間」となるための道筋。それは、自分がどのように生きる者となるかを決める道筋。自分の命の時間を、どんなふうに使っていったらよいのかを学び考え、感じる大事な学びの場。幼稚園は、人間が人間になるための教育の場です。安全で安心な場をであると同時に、大事な大事な学びの場なのです。

 幼児期に何となく学んで身につけた大事な生き方を、今度は大人として、自覚的に、決断しながら選び取って欲しい。

 わたしはそんなことを、高校生を前に語ってきたのでした。



 人生で確実なことは二つだけ。
 @今自分が生きていること
 そして
 Aその自分がいつか確実に死ぬこと
 ある一定の年齢になり、自分の人生の終着点を考えながら生きるようになると、この二つの間を生きる命の時間は、ますます宝物となってきます。そして、自分の時間をどう生きるか、とどまって考えてみようと思うようになるのです。

(2007年2月21日 七尾幼稚園園だより巻頭言)

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