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「90年の歩みを顧みて」

 園長  釜土達雄

 

  七尾幼稚園の歴史は、一九一六年(大正五年)の一〇月一〇日、石川県知事の正式の許可を得てスタートします。
 もちろん数年前からの前史があります。一本杉通りにあった、七尾教会の場所で、カナダ人の女性宣教師デオルフ先生が毎週金曜日に幼児を集める集会をしたのがその始まりです。デオルフ先生は、宣教師の中の幼児教育の専門家で、上田保姆伝習所(東洋英和女学院の前身)の設立者の一人です。

 そんなデオルフ先生が大正三年に始めた金曜学校が、評判が良くて、毎日保育を行なう七尾幼稚園に発展することになりました。
 
 初代の園長は、プライス先生。この方もカナダからの宣教師でした。七尾に在住していたわけではありません。おそらく週に何日か金沢から七尾に来て下さっていたのでしょう。
 その後昭和初期までは、カナダからの宣教師の先生が園長を務めて下さいました。
 
 幼稚園に子ども達が通うなどということが、まだ当たり前ではなかった時代です。比較的進歩的で、幼児教育の必要性を感じてくださっていたお家の方が、七尾幼稚園に子どもたちを送り出してくださっていたのでした。


 やがて戦争の影響が七尾幼稚園にも及んできます。外国人宣教師達が、日本から国外退去となっていきます。ギリギリまで石川県にいらした女性宣教師もいらっしゃったのですが、そのほとんどが日本とアメリカの開戦を前に帰国されました。
 そんな事情があって昭和十六年には、日本人牧師の松本以策先生が園長となります。ところがその後すぐ、松本先生が転任され、七尾幼稚園・七尾教会の責任者がいなくなってしまうのでした。
 これはおそらく存続の危機だったでしょう。当時の資料はほとんど残っていませんから、推測するしかないのですが、この難しい時代を乗り切る為に、七尾幼稚園は地元の有力者を園長に立てました。その上坂鵬太郎先生は、昭和十九年〜二十一年の間、園長の任を負って下さったのでした。

 昭和二十年三月の卒業写真は、大きな日の丸の旗が背景にあります。他の時代とは違う時代の色がかいまみえます。また、その頃の子供達の制作帳が一つだけ残っているのですが、戦艦や軍服などの戦時色が色濃くあります。

 戦後、高桑守二園長先生をへて、わたしの前任者、今村延次先生の時代になります。
 戦後のベビーブームの頃ですから、園児の数も多かったのでした。


 さて、当時の七尾幼稚園は、現在の馬出町ではありませんでした。七尾の中心街だった、一本杉通りにあったのです。一本杉の幼稚園として親しまれてきた幼稚園でした。現在の松本呉服店の場所が、七尾幼稚園があった場所なのでした。けれどもそこは、三〇〇坪に満たない敷地。幼稚園としては、本当に手狭な感じがする空間でした。
 その幼稚園が、一九六一年(昭和三六年)に、現在の馬出町に移転します。小丸山公園に隣接しているこの土地は、当時はかなり辺鄙な場所だったのですが、総面積四一七坪と、約一、五倍の空間に新築移転したのす。
 今村先生時代の大きな決断でした。

 現在の園舎と違って、当時の園舎は平屋建てでした。けれどもサクラの木の場所は同じですし、建物の建っている場所も同じです。ついでに言えば、ジャングルジムも同じですし、太鼓橋も同じです。




 現在地への移転を決断し、三七年間、七尾幼稚園の園長を務めてこられた今村延次先生の最後の年は一九八二年度(昭和五十七年度)でした。実はこの年は、堂脇眞規子先生(旧姓・山田)が新任だった年なのです。


 そして、一九八三年四月から、わたし釜土達雄が今村先生に代わって七尾幼稚園に着任します。
 超ベテランの今村先生から二七歳の釜土へのバトンタッチは、誰が考えても無理のあるお話でした。当時の園児総数は、二五名。それが二年後には園児総数が、十三名にまでなりました。この頃はまた、存続の危機の時だったのでした。

 今では伝説となった「バザー」。金額的にも多額の売り上げを記録しましたが、それよりもすごかったのは、一人一人の幼稚園への思いでした。当時の母の会メンバーを中心にし、母の会OB、卒業生へと輪が広がっていきました。「七尾幼稚園を存続させたい」その思いが人々を一つにしていたバザーでした。


 そして、そのバザーのお金が原資となって、一九九〇年(平成二年)十一月、今の園舎が完成します。この園舎の建築の中心になって下さった方も、また卒業生でした。

 園舎が完成してからも順風満帆というわけにはいかず、いろんな出来事がありました。

 ある時、小丸山公園の整備計画によって、幼稚園を移転させるという話が持ち上がりました。その情報が新聞に出た日の朝、ある方から叱責のお電話をいただきました。戦前から長い間幼稚園の園医をしていただいた方です。長い間の自分と七尾幼稚園との関わりをお話された後で、「小丸山公園に隣接した、現在の場所から移動してはいけない、七尾幼稚園をなくしてはいけない」という内容でした。
 この出来事の後、「今の場所から動かない」事を機会あるごとに表明することになりました。七尾幼稚園は、小丸山公園に隣接して存在する。
 三年前、七尾市の道路計画と共に、隣接地を取得。駐車場となりました。これからもまだまだ七尾幼稚園の周辺の環境は変わることになるでしょう。けれども七尾幼稚園は、この馬出町の小丸山公園隣接のこの場所から、変わることはないのです。


 わたしが七尾幼稚園に着任して二十三年が過ぎました。七尾幼稚園の園長であることをお話しすると、「お父様がつくられたのですか?」と尋ねられることがあります。「もうすぐ創立九十年なのですよ」とお話しすると、「おじいさまがつくられたのですか?」と聞かれるのです。
 けれども残念ながら、七尾幼稚園は個人立の幼稚園として始まったのではありません。幼児教育に情熱を持っていた一人の女性によってはじめられ、幼児教育に情熱を持つ、理念を同じくする者を順次園長として迎えて今日に至っています。
 七尾幼稚園は、個人の所有物ではありません。七尾幼稚園は、そこで過ごす子どもたちのためのものですし、子どもたちにもっとも良いものを提供したいと願うご家庭のみなさまによって支えられてきたのでした。
 そして、そんなみなさまの願いに答えたいと願う教職員によって維持されてきたのです。

 七尾幼稚園は、子どもたちのものである。
 この歴史の中で証されてきた事実が、何よりも大切なのだとわたしは思います。そしてその事実こそが、多くのみなさまによって七尾幼稚園がお支えいただくことが出来た理由なのではないかと思います。

 だからこそ、これからも、子どもたちのために最も良いものを提供していきたいと思います。
 九十年の歴史を振り返りつつ、たくさんのみなさまに支えられてきたことに感謝しながら。 
(2006年9月29日 七尾幼稚園園だより巻頭言)

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