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「クリスマスはなぜおこったのか」

 園長  釜土達雄

 

  クリスマス。それは、わたしたちの知らないところで、わたしたちの日常生活と深く関わっています。

 今年は二〇〇五年。一体何から数えて、二〇〇五年なのでしょうか。
 クリスマス、イエス・キリストの誕生から数えて二〇〇五年なのでした。

 歴史の時間に紀元前をBCと記すことを習いました。BCはbefore Christの略。キリスト誕生のクリスマス以前を、キリスト以前として紀元前と記すことになりました。また、紀元後をADと記します。こちらの方はラテン語のアンノドミニの略。主の年(キリストの年)という意味でした。クリスマスから数えて何年、と言うわけです。
 もっとも、ヨーロッパ中世の時代に確定したこのような年数の数え方が、後になって詳しく調べてみたら、肝心のイエス様の誕生の年が違っていたのが判ったのでした。だからといって今更訂正するわけにもいかないので、定着した年数をそのままにすることになりました。そして逆にイエス様の誕生の方を訂正して、イエス様の誕生は紀元前四年頃としたのです。

 こんな話はどうでしょう。何故一週間は七日なのでしょう?一週間は何曜日から始まるのでしょう?

 一週間は聖書の中の旧約聖書、その最初の書物「創世記」に由来します。そこには世界が一週間で出来たという神話が記されています。一週間の初めは日曜日。神様が、六日間で世界とその中に住む全てのものをお造りになられて、七日目にお休みになられます。そこで七日目が安息日、お休みの日となりました。土曜日がお休みだったのです。
 ですから今でも、旧約聖書だけを聖典とするユダヤ教では。土曜日が安息日としてお休みとなっていますし、ユダヤ教徒が大部分を占めるイスラエルでは、しっかり土曜日をお休みにしている人がたくさんいるのです。

 では何故現在、多くの国で土曜日ではなく、日曜日がお休みになっているのでしょう?

 それはイエス様の生涯と深く関わっています。イエス様が公の生涯、神様のお話をなさる公の生涯を歩まれたのはだいたい三〇歳ぐらいからのことでした。そのイエス様は、自分を神の子として語られたという理由で、つかまってしまいます。裁判を受け、十字架に付けられ、殺されてしまいます。それが、三十三歳ぐらいのことでした。ところが十字架上で殺されたイエス様が、その後「生き返った」という噂が広まるのです。復活したというのです。イースターの起源です。
 十字架につけられたのが金曜日。その日を含めて三日目。金・土・日の日曜日の朝に復活された・・・ということで、神様を礼拝することになっていた土曜日の安息日が、イエスの復活の記念日として土曜日から日曜日に変更されたのでした。それで日曜日は、礼拝を守るために、安息日として、お休みになったのでした。
 一週間、特に日曜日のお休みは、クリスマスにお生まれになったイエス様と、深く関わっているのでした。

 ついでにこんな話はどうでしょう。なぜ一月一日は、一月一日として新年なのでしょうか?
 当然のことですが、今の元旦はキリスト歴と呼ばれる西暦、新暦です。日本古来の旧暦から、明治時代にこの新暦に変わりました。繰り返しますが、新暦は、二〇〇五年で表すキリスト歴です。ですからやっぱり、クリスマスにお生まれになったイエス様と関わりがあるはずなのですが・・・調べても何か特別な日が、一月一日であるというわけではありません。
 がっかりなさるかもしれません。実を言うとクリスマスを一週間お祝いしよう。それがそもそもの原点でした。そして、クリスマスが終わったら、新しい気持ちで新年をはじめよう。そうやって、一月一日は定められました。だから、クリスマスの十二月二十五日と一月一日は、同じ曜日なのでした。元旦も、クリスマスと深く関わっているのです。



 もっともっとついでに、こんな話はどうでしょう。子供達が心待ちにしているサンタクロースがやってくるのは、いったいいつでしょう?二四日の夜?それとも二五日の夜?どちらでしょう。
 正解は二四日の夜です。それは、今から二千年前のパレスチナの一日と関わりがあります。どういうことかというと、今では午前〇時をもって一日が始まっていますが、今から二千年前のパレスチナでは、日没から一日が始まっていたからです。(今でもユダヤ教でこの考え方をしている人たちがいます。) 
 日没から一日が始まる。夕日と共に一日が終わる。すなわち、二四日の夜は、日没の後ですから二五日となります。逆に二五日の夜は日没後ですから、二六日となってしまうのです。
 クリスマス・イブは、クリスマスの前夜祭ではありません。ちゃんとしたクリスマスです。ですからキリスト教の教会ではクリスマスを祝う「キャンドル・サービス」を、二五日の夜ではなく二四日の夜に守るのです。その日の夜にサンタさんは来ることになっています。二五日の朝に起きたら枕元にサンタさんからのプレゼントがあるというのが正解なのです。



 クリスマスをめぐる「どのように」を知ることは、決して悪いことではありません。
 カレンダーはどのように定められたのか。元旦はどのように定められたのか。一週間はどのように定められたのか。それぞれ知識を持つことは楽しいことです。
 クリスマスそのものについて、知識を持つことも楽しいものです。マリア様のことヨセフ様のこと、三人の博士、天使達、そして、そこに登場する一人ひとりのステキな言葉。クリスマスが「どのように」起こったのか。それらを知識として持つことは、とてもステキなことでしょう。

 けれども、クリスマスをめぐる「どのように」を知っても、またクリスマスそのものが「どのように」起こったのかを知っても、決してクリスマスが「なぜ」起こったのかを、知ることが出来ません。
 「どのように」と「なぜ」。この二つの問いは、本質的に違うことを問う、別の問いです。そして、物事の本質をちゃんと知ろうとするときには、「どのように」の問いと同時に「なぜ」の問いをしなければなりません。そうでないと、結果的に何もわからないということが起こるのです。



 聖書にはイエス様の生涯を記した四つの「福音書」という書物があります。その中の「ヨハネによる福音書」には、クリスマス物語が記されておりません。ところが、その「ヨハネによる福音書」には、クリスマスの出来事について、次のように記しています。


 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
      (ヨハネによる福音書三章十六〜十七節)

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」ここが大事です。「独り子」はイエス様のことであり、「お与えになった」はクリスマスのこと。クリスマスは、「神様がこの世を愛しておられる」証拠というわけです。

 クリスマスは、「なぜ」起こったのか。
 神様がこの世界を愛しておられたからだ。
 ヨハネによる福音書の語るクリスマスメッセージです。



(2005年12月15日 七尾幼稚園園だより巻頭言)

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