十月十五日に印象的な出来事がありました。 それは、和倉温泉のホテルの結婚式場での事。私は、その結婚式場の司式をする牧師として招かれていました。 打ち合わせの時間に間に合うように結婚式場に到着した私を出迎えてくださったのは、七尾幼稚園の卒業生のお父様でした。 「あらお久しぶりです。今日は結婚式ですか?」 そう問う私に、「今日の司式の牧師先生は、先生ですか?」と、聞かれたのです。「はい、そうです」。 すると、 「結婚するのは、娘です」。 「えぇっ!○○ちゃんの結婚式?」 「まさか○○の結婚式の司式が先生とは・・・ちょっと待ってください」。 そう言って、控え室に戻られたお父様が連れていらっしゃったのは、お母様。 「先生・・・。」 チョッピリ涙ぐみながら 「懐かしい会堂で結婚式をお願いしようと思ったけれど、みなさまにご迷惑をかけてはいけないと思って、ホテルで結婚式を。でもキリスト教式でしたいと思って・・・。娘もそう言うし・・・」。 キリスト教の、教会での結婚式の場合は、事前にお二人にお会いして、日取り等を決めることになっています。婚約式をし、四回の結婚講座を受けていただく。それが原則です。 けれども、ホテルでの結婚式の場合は、当日お会いすることがほとんどです。事前にお名前は伺っていますが、どなたか全くわかりません。当日の一時間ぐらい前にお会いをし、事前の打ち合わせを行ない、注意事項をお話しし、結婚式に臨むのです。 出来れば丁寧にお話をして差し上げたいと思うのですが、キリスト教式での結婚式を希望される方が多く、すべての希望をかなえて差し上げることが出来ないのです。また、資格を持たずに結婚式の司式をする方に出会ってはいけませんから、ご依頼があった場合には、時間のゆるす限り、資格のある者がお手伝いしたいと思っています。そうするとどうしても、十分に時間を割いて差し上げることが出来ないのです。そこで、少しの時間での打ち合わせとなってしまいます。 それでも、結婚式は人生の一大事です。本人達はもちろん、家族・親族にとっても、また友人達にとっても一大事です。ですから、短い時間であっても、本当に良く話を聞いてくださいます。覚悟をして、結婚式の「誓約」に臨んでくださいます。私はそのような厳粛な場で、若い二人の司式牧師として立てることを、感謝をし、喜んでいます。そして、祝福を祈ることが出来ることを、誇りとしているのです。 人は、親を選んで生まれてくることは出来ません。 人は、親戚を選んで生まれてくることは出来ません。 人は、兄弟を選んで生まれてくることは出来ません。 そして、結婚によって、若い二人に新しいいのちが与えられるとしても、そのいのちを人は選ぶことが出来ないのです。 人は、多くの選ぶことが出来ない現実の中で生きています。 けれども不思議なことに、人は結婚相手だけは選ぶことが出来るのでした。 「この人でよいですか?」 それは、結婚式を司式する牧師の、もっとも大事な問いかけです。 「あなたは今この女子を妻としようとしています。あなたは真実にこの女子を妻とすることを願いますか。・・・・この女子を愛し、慰め、その健やかなときも、その病むときも、堅く節操を守ることを誓いますか。」 「あなたは今この男子を夫としようとしています。あなたは真実にこの男子を夫とすることを願いますか。・・・・この男子を愛し、慰め、その健やかなときも、その病むときも、堅く節操を守ることを誓いますか。」 愛は、信じるより方法がありません。 自分が愛しているということは、信じてもらうより方法がありません。 「信」という文字は、「人」の「言」と書く。心にもないことを言っては、「不信」となる。心のままであるときにはじめて「信頼」される。当たり前のことでしょう。 人は、言葉の裏側にある心を見出すことが出来る生き物です。 だから、誓約の言葉に、心を込めて、いつわりなく、はっきりと、語ってほしい。そう願うのです。 心に偽りがなく、誓えるのならば「誓います」。そう言ってほしい。そう誓ったら、この後の人生で「別れること」だけは考えないでほしい。けれども、心に尋ねて、誓えないと思うのならば・・・「誓えません」。そう言ってほしい。 私は、そうのように若い二人に語ってから、誓約の言葉を朗読することにしています。 長い人生の旅路を、この誓約の時の言葉を土台として、共に生きていくのですから、誓約が結婚式の中心となるのです。 若い二人のみならず、参列くださる多くのみなさまの息をのむような静寂の時が、この誓約の瞬間です。 「誓います」。 その短い言葉に、二人の、今までの、そしてこれからの、人生のすべてがかかっているかと思えば、身が引き締まる思いで司式をさせていただく幸いを感じるのでした。 十月十五日のあの日。とにかくビックリした私は、すぐに蘭子先生に電話しました。 「○○ちゃんが結婚するって」。 「どうしてわかったの?」。 「これからボクが司式する」。 「???」。 保育現場の教師達は、子供たちとの関わりが大変強いのですが、私や蘭子先生にとっては、子供たちよりも、ご家庭のみなさまとの結びつきが強いことがあります。時には、一緒に子育てをしてきた同労の友となることがあるのです。このご家庭は三人兄弟でしたから、十年近いおつきあい。その後も、時を得て、幼稚園に来てくれる子供たちだったし、お家のみなさまだったのです。一言二言で、いろんな思いが伝わってくるのでした。 若い二人との打ち合わせの時間になり、ウエディングドレスに身を包んだ花嫁さんがやってきました。まだ私が司式だということを聞いていませんから、 「あれ?先生、来てくれたんですか」。 その言葉を聞いて、 「今日は、先生が司式の牧師だからね」。 そう言ったら、ビックリ眼になってしまった。そのお顔は、幼稚園の時のまんま。 何が何だかわからない花婿さんに向かって私は言ったのでした。 「私は、今日の司式をする牧師ですが、彼女の卒業した幼稚園の園長です。この子がどんな子か、とってもよく知っています。自分を犠牲にしてもお友達の気持ちを大事にしようとしてくれる、とっても優しい子です。彼女を悲しませたら、先生がゆるしませんよ」。 びっくりはしていたけれど、園長先生が司式だとわかって嬉しそうな花婿さんに「はいわかりました」とちゃんと言わせてから、打ち合わせをし、結婚式が始まったのでした。 もちろん、牧師がお話しするところでは、いつもとはチョッピリおもむきの違うお話しになりましたし、誓約のところも、いつもよりもゆっくりめで、念を押すようだったのではないかと思います。けれどもちゃんと約束が出来て、二人をちゃんと祝福してあげることが出来て、良かったと思うのです。 いつもは決してしないことも、この時にしました。それは、ホテルの人にお願いして、結婚式の写真をデジカメで撮ってもらったこと。 七尾幼稚園で仕事を始めて二十三年。私が園長として卒業証書を手渡した卒業生達が、結婚しはじめました。風の便りに、赤ちゃんが生まれたと言う話も聞くようになってきました。 そんな時の、卒業生のためにする初めての結婚式の司式だったのです。自分が司式をしなかったら、チョッピリ悔しい思いをしただろうなぁって、思いました。ちゃんと、結婚にあたってしなければなならない決断を、ちゃんとさせてあげられて、良かったなって思いました。そして何より、祝福を祈ってあげられて、良かったなぁって思ったのです。 親は、わが子を結婚させて、子育ての責任を果たしたなぁって、実感できるものだとよく言います。結婚式の司式をして、家に帰り、私も何となく実感していたのです。 園長としての責任を、果たせたような気がする。それは、なんだか安らかな不思議な思いでした。 |