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「こどもたちには叱られる権利がある」

 園長  釜土達雄

 

 五月二八日。七尾幼稚園ではずいぶんひさしぶりに「母親セミナー」が開かれました。
 もう何年も開かれていませんでした。わたしの記録では一九九九年六月十七日が最後。それより前は毎年開かれていたのですが、それから六年も開かれることはなかったのです。
 実はこの「七尾幼稚園母親セミナー」には特徴がありました。毎年開かれていたこのセミナーの講師はいつも園長のわたしだったということです。そしてもう一つ、内容はいつも「子どもの心を知るために」だったと言うことです。すなわち、いつも同じ内容の話が繰り返し語られていたのでした。
 もちろんこれは母の会の企画によるものでしたし、母の会からの依頼に基づくものでした。「七尾幼稚園と共に子どもたちと過ごしているご家庭の皆様が、必ず聞く内容である」という過分のお言葉をいただいて、基本に忠実に、子どもたちの発達の様子をお話ししていたのです。
 けれども、いくら聞くべき内容といえども毎年では飽きも来る。このセミナーの出席者がだんだん減ってきて、最後は役員の皆様だけが聞き手になってしまったのでした。それでは皆様にお気の毒なので、しばらくの間お休み・・・ということになったのでした。わたしが提案したのです。そしてそれは、普段からお母様方とはいろいろなお話しをしているので、セミナーの必要はそんなにないか・・・という思いもあったのでした。

 それにもかかわらず、ここ数年、あのセミナーの復活を望む声があり、今回復活したのでした。七尾幼稚園のセミナーとしては三十人という多くの方に集まっていただき、わたしとしてはびっくりいたしました。園長が何を考えて保育に携わっているか、まとまってお話しが出来て、とっても良かったなぁと思っています。
 あのあとすぐに保育参観がありました。保育参観では、その後園長の短い解説があります。そのお話しも、あのセミナーをふまえて聞いてくださった方がたくさんいて、わたしは大変嬉しく思いました。大事なことを、繰り返しお話ししておくのは大事だ・・・そう思いました。繰り返し語り続けることを、ためらってはならない・・・そうも思いました。わたしには新しい発見のあった。幸いなときでした。

 失敗もありました。おわりの時間を勘違いしていて、質疑応答の時間がとれなかったこと。大失敗でした。そして、質疑応答用に、講演ではお話ししなかったことをお話しするチャンスを失ってしまったこと。大失敗でした。質疑応答の時に必ず出る質問があります。「叱り方がわからない」「子どもたちをどう怒ったらよいのかわからない」。この必ず出てくる大事な質問の答えをお話しが出来なかったこと。悔やまれてならないのです。
 母の会の方が7月に一度懇親会を開いて下さるようなので、この時に少しお話しできたらなあと思っています。


 同じ悩みは、毎年来る教育実習生からも聞かされました。「ケンカの仲裁の仕方がわからない」「ケンカが起こったときに、どんな風に言えばいいのかわからない」。要するに「叱り方がわからない」「子どもたちをどう怒ったらよいのかわからない」ということでしょう。
 それに対して、七尾幼稚園の各教師は、あの手この手でいろいろ解説するのですが、なかなかその方法を伝えることは出来ません。「なんと言えば、いいのか」「どういうふうに言えばいいのか」そんな問いに、教師達は苦労しているのです。

 もちろん七尾幼稚園の教師達は、園長のわたしから聞いた不思議な言葉を知っています。ですから、その言葉を使って実習生達に解説します。するとますます実習生達は「?」「??」「???」となってしまって・・・。複雑な言葉遊びの中に入っていってしまうのでした。


 あの「母親セミナー」の時にお話ししたかった言葉。そして、七尾幼稚園の教師達が実習生に語っている不思議な言葉。「叱り方がわからない」「子どもたちをどう怒ったらよいのかわからない」という時に聞く不思議な言葉は、「怒ってはいけません。叱ってください」という言葉なのです。

 『怒る』と『叱る』は違います。言葉も違い、内容も違います。
 『怒る』時には、人は自分の気持ちを相手にぶつけています。頭に来ているのです。腹が立っています。感情がコントロールできません。怒っているのです。
 けれども『叱る』時には、人は冷静です。叱られる人の必要を知っています。その人の成長のために『叱る』ことが大事だとわかっています。自分の気持ちではありません。相手のことを考えています。叱っているのです。

 「こら!何やってんだ!」と叱ることがあります。「こら!なにやってんだ!」と怒ることがあります。言葉は同じ、言い方も同じ、けれども叱っている時があり、怒っている時がある。
 人間は不思議な生き物です。言葉の裏側にある「心」を読み取ることが出来る。
 「信じる」という時に使う「信」という字は、「にんべん」に「言」という字が続きます。「にんべん」は「人」という字です。「人」の「言」ったことが「信」じるという言葉の意味でしょう。
 「人」が心にもないことを「言」っているとわかる時がある。「不信」感をもちます。「心」のままに「言」っていると感じる時がある。その「言葉」に「より頼む」ことが出来ると感じる時がある。「信頼」することが出来るのです。

 「こら!何やってんだ!」と言われて、叱られているとわかる時がある。「こら!なにやってんだ!」と言われて、怒られていると感じる時がある。
 言葉の使い方ではないのです。どんなふうに言うかではない。その言葉を使う人の心が大事。そんな風にお話ししたかった。
 「言葉の使い方」を問う前に、「言葉を使う自分の心」を整えることの方が大事なのではないか。そんなふうにお話ししたかった。


 子どもたちを叱る第一のつとめは「叱られるべき現場を見つけた教師」にあります。次に子どもたちを叱るつとめは、「叱られるべき子どもたちと共に過ごす担任」にあるのです。そして、「叱る」事ができるのは、その子どもの事をよく知り、成長を心から願っている教師でなければならないのです。同じ言葉を使ったとしても、出会ったばかりの教育実習生が叱るのでは、子供達に伝わらないことがあるのは、当然なのです。

 教育実習が終わって教育実習生が帰って行きます。しばらくすると、その実習生達から感謝の手紙と共に実習の感想が送られてきます。
 ある実習生がこんなふうに書いてくれました。
 「わたしが七尾幼稚園で教育実習生として過ごした三週間、園長先生が子どもたちを叱っている時を、一度も見たことがありませんでした」。
 確かにそうだったかもしれない。けれども、それは、他の先生達がちゃんと子供達を叱っていてくれたからなのです。園長が直接子どもたちを叱らなければならない時は、そんなにあるものではないのです。むしろ子供達の事をちゃんと叱っているのか、怒っていたのではないのかと、教師達の方を見ているのが園長のつとめとしては多いのです。

 そしてわたしは思うのです。叱られる子どもたちは幸せだ。そう思うのです。怒られるのではなく、叱られる子どもたちは幸いだと思うのです。

 古くから語り続けられている大事な言葉があります。

 「子どもたちは、叱られる権利がある」。

 人として生まれ、人間社会の中で生きていくために、必要な知恵を得るために、子どもたちは、やってはいけないことをした時には叱られなければならない。それは、子どもたちを一人の人間として迎える大事な教育なのでず。だから、人間になるために、

 「子どもたちは、叱られる権利がある」。


(2005年6月30日 七尾幼稚園園だより巻頭言)

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