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「本当の先生は君たちだった」

園長 釜土達雄




 春になり、今年もAぐみさんが卒業する季節となりました。
 毎年毎年繰り返されることなのですが、今年は七尾幼稚園にとっても、わたし自身にとっても、特別の特別の卒業生になるAぐみさんでした。

 七尾幼稚園は大正五年一〇月一〇日の創立。前身はその二年前から始めていた、一週間に一日だけの「金曜学校」としての幼稚園でした。県による正式の認可を大正五年一〇月一〇日受けて、「七尾幼稚園」の活動が始まりました。
 戦後になって、「学校法人」による設置が法律で決まり、学校法人立になったのが昭和二七年四月五日。今年は学校法人になってから五〇年目の年です。

 けれど今年が特別の卒業生と言うのは、丁度五〇年目になったということではありません。学校法人になってから五〇年目の今年、学校法人になってからの卒業生が、一〇〇〇人目と言う番号の子が出たということです。七尾幼稚園の卒業生が、学校法人になってから、一〇〇〇人を超えたのでした。
 わたしが七尾幼稚園に着任したのは一九八三年四月のことでした。わたしが七尾幼稚園に着任してからの卒業生は今回で三二九名。この子供達は、わたしが七尾幼稚園に着任してから、ちょうど二〇年目の卒業生なのです。

 一口に一〇〇〇人。一口に二〇年。そんな「切りの良い数字」を並べてもあまり意味がありません。数字の切れの良さよりももっと大事な一人ひとりの人生がそこにはあるからです。


 わたしは、今から二〇年前の一九八三年に七尾幼稚園に着任しました。七尾教会の牧師として着任し、隣接する七尾幼稚園では副園長でした。七尾幼稚園の園長となるために、羽咋白百合幼稚園の佐伯恒道園長の指導のもと、幼稚園の仕事をしておりました。
 当時の通達により、園長となるには五年の日数が必要で、七尾幼稚園の園長となったのは一九八八年だったのです。

 わたしよりも一年早く七尾幼稚園で仕事をしていた人がいます。現在の堂脇先生で、当時は山田先生と言いました。
 わたしは、この山田先生と山田先生と同年齢の山下先生と二人から七尾幼稚園の持っている毎日の生活リズムを学んだのです。同時に、北郁美という新卒の先生を採用し、山下、山田、北の三人と私と四人で、七尾幼稚園の二〇年前は始まったのです。

 今から思えば無謀だったと思います。
 前任の今村延次先生は、三七年のベテランの園長・牧師で、多くの方の信頼を得て園長をしておられました。その方が主任の奥様ともども隠退し、わたしが引き継いだのです。

 当時の園児総数は二五名でした。けれど、このような状況で人々の信頼を得られるはずもありません。次の次の年には園児総数が十三名にまで落ち込みます。
 注意して読んでください、園児総数が十三名になったのです。幼稚園の全園児で十三名だったのです。これでは先生方の給料も出ません。廃園を覚悟しながら、今はもうなくなられた当時七尾幼稚園の理事であった北陸学院院長の番匠鉄雄先生に相談に行ったことがあります。
 番匠先生にことの次第を丁寧にお話しして、幼稚園の窮状を訴えたのに・・・番匠先生の返事は「すごいね、十三名もいるのかね。キリストの弟子より一人多い」と言う言葉でした。びっくりしました。そして、何となく不思議な気持ちで七尾に帰りました。
 ところが、その後何人もの入園者があって、その後、園舎の建築へと向かっていきました。

 そうそう、今から十三年前に七尾幼稚園の園舎を立てた時にも、いろんなエピソードがあります。
 当時の七尾幼稚園は、石川県の幼稚園の中で唯一の「水洗トイレではない幼稚園」でした。老朽化園舎の代名詞でした。それにもかかわらず、六十名を超える子供達が七尾幼稚園に在園していました。石川県では、何とか七尾幼稚園の園舎を新築しようと考えてくださいましたが、補助金というものは限られますし、だいたい七尾幼稚園自体にお金がない。そこで、石川県私学振興会からの借入を準備してくださって、七尾幼稚園の母の会の皆様がバザーをしてくださったりして、何とか園舎建築に結びつくのです。

 ところが次の年に有名な台風十九号が吹き荒れます。あの台風はすごくて、ご父兄の方から幼稚園にプレゼントしていただいた鉄製の鶏小屋が、園庭の滑り台を飛び越え、フェンスに当たってやっととまったほどの強風でした。幼稚園の象徴だったイチョウの木が、根こそぎ倒れて隣の家の壁を一部壊してしまいました。
 次の朝には台風がすぎ、県庁から早速電話がありました、「幼稚園つぶれていないですか!」。「去年新築したので大丈夫でした」。その時の係の方の一言が忘れられません。 「あっ、忘れてた!」。
 新築前の状況を思い浮かべて、まっ先に電話して下さったのですが、新築の園舎はびくともしませんでした。


 二十年、ひとつの幼稚園で過ごしていると、いろいろなことに出会います。
 七尾教会で結婚式の司式を牧師として行い、そのお子様と幼稚園で共に生活する幸せも味わうことが出来ています。
 そうかと思えば、子供達を通して出会ったご家庭の皆様の不幸にも、出会いました。卒業生の「死」にも出会いました。
 すべてが幸いというわけではなく、すべてが不幸というわけでもない、複雑な出会いの中での二十年だったのです。


 先日、この二十年の卒業生の数を数え、一人ひとりの名前に手を置いてなぞってみながら、一人感慨にふけっておりました。この子達との出会いの中で、わたしの喜びがあった。そう思いながらいろんなことを思っておりました。
 ちょうどその時、わたしは二十年目にしてまた、とても不思議な経験をしている時でもあったのです。

 高校を卒業して今春短大の保育学科にすすむことが決まっている、坂井綾という七尾幼稚園の卒業生が、幼稚園に数日遊びに来ていたのでした。綾ちゃん(すいません、幼稚園時代と同じ呼び方にします。)は、子供達と一緒に過ごす一週間を過ごしていきました。

 一九九一年三月の、新園舎建築後の初の卒業生。今の園舎の隅々まで知り尽くし、ここでのルールを一緒に考えたAぐみさんのメンバーの一人です。
 昔と変わらない笑顔で、昔と変わらない表現で、昔と変わらない体の動きで、おはじまりの時に、まわりの子供達に声をかけているのです。
 「おはじまりだよ、かたづけようよ〜」
 教育実習生には教えなければならない七尾幼稚園でのルールを、綾ちゃんは当たり前のように、子供達と一緒にやっているのです。
 タタミのお場所で、十二年前と同じように子供達と混ざってお話ししている綾ちゃんがいる。十二年前と同じようにハイテンポでお話しする子に、ビックリ眼で一生懸命に大きくうなずきながら聞いている綾ちゃんがいる。
 そしてAぐみさんを初めとして、BぐみさんもCぐみさんも、七尾幼稚園のルールを知っている子は、この綾ちゃんを先生とはちがう位置に置いていて、大きなAぐみさんとして、自分たちの仲間として受け入れようとしていたのでした。

 何だかちがう、同じ香りのする仲間として、綾ちゃんは受け入れられていた。

 もちろん本当に保育者になろうとしたら、これだけでは不十分。もっとたくさんのことを体験し経験し、学ばなければなりません。

 けれど、わたし自身がはたと思い当たる節があるのです。

 七尾幼稚園で確かにわたしも長い年月を過ごしてきました。良き教師とも出会いました。

 けれど、わたし自身が七尾幼稚園の良き伝統を学んだのは、本当は七尾幼稚園子供達からだったのだということ。
 子供達が、七尾幼稚園の伝統を教えてくれて、子供達が次の子供達に大事なことを伝えてくれた。
  
 本当の七尾幼稚園の先生は、幼稚園教諭の免許を持った先生達なのではなくて、この場所で生きてきた子供達一人ひとりだったのだと思うのです。

 先輩から教えられ、次の世代に伝えていく。
 Aぐみさんこそ、本当の七尾幼稚園の先生だったのだと思います。そのAぐみさんが、自分の持っているものをそのままのばせるように、ほんのささやかなお手伝いをすることが許された者、それが私達教師にすぎないのでしょう。

 本当の七尾幼稚園の先生は、Aぐみさん、君たちだった。
 当たり前のことを当たり前のように共に生きていく姿。それが身についている。その身についた生き方に自信を持って、これからもすごして下さい。

 卒業、おめでとう。


(2003年3月22日 七尾幼稚園園だより巻頭言)



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