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へたくそウグイスの
  さえずりを聞きながら

園長 釜土達雄



 春です。
 幼稚園の卒業の季節がやってきました。
 今年も十八名の卒業生が七尾幼稚園から、巣立ってまいります。
 そんな季節となりました。


 今年はいつにもまして春が早いようです。
 去年は大雪の年であったのに、今年はとても暖かな冬。雪もあまり降らなかったので、ほんのわずかのチャンスに、そり遊びをしたり・・・雪だるまを作ったり・・・。何とか冬の遊びを体験することができたと思ったらもう春。ふきのとうはずいぶん伸びきっているし、つくしは花粉を飛ばしています。先日のお散歩では、タンポポも見つけることができました。春がもう来ています。

 春が近づいてくると、私は楽しみにしていることがあります。幼稚園のお庭に毎年ウグイスがやってきてくれて、そのさえずりがとても大好きなのです。
 いつもは三月の中頃になってやってくるのですが、今年はやはり早くて、三月の初旬にはもう鳴き声を聞くことができました。「あっ、今年もやってきた」とニンマリしました。「去年と同じウグイスだ」そう確信しました。
 今年で四年目。私にはそう確信する理由があるのです。それは、七尾幼稚園にこの四年間やってきているウグイスは、とても特徴的なさえずりをしてしまう、へたくそなウグイスなのです。

「ホーホケ・・・キョ」
「ホーホ・・・ケキョ」
「ホーホ・・・ケキョ、ケキョケキョキョ」

 「ホーホケキョ ケキョケキョケキョ」とさえずるべき所の、その区切り方が違います。また、高い音で始まってそのまま続く「ホーホケキョ」の部分が、一度区切ってしまうので、後半が低い音になってしまいます。ですからとてもヘンなのです。
 一度鳴くたびに、きっと首をかしげているのではないかと想像するとおかしくてたまりません。それでも一生懸命鳴いているのですが、毎年同じところでとちっていて、ちっとも進歩しないものだから、「あっ、ことしもあいつがやって来た」と、へたくそさえずりのウグイスによって、春を感じるのでした。

 本当かどうかは知りませんが、ウグイスは最初から「ホーホケキョ」と鳴けるのではないそうです。最初はとてもへたくそなんだけれど、上手になウグイスの声を若い時にたっぷりと聞いて、同じに鳴こうと一生懸命練習して「ホーホケキョ」になるのだそうです。
 ですからもし、若い時にモデルになるきれいに鳴けるウグイスに出会わなかったなら、自己流の鳴き方になってしまってちゃんと鳴けないのだとか。また先輩のウグイスに出会っても、そのウグイスがあんまり上手に鳴けないウグイスだったら、やっぱり変な癖が付いてしまって、結局は上手に鳴けないウグイスになってしまうのだとか。
 なるほどそうだとすれば、毎年七尾幼稚園にやってくるあのウグイスは、立派なモデルになるウグイスに出会わないまま「なんかヘンだな?」と思いながら、鳴いているのに違いない。
 少しかわいそうにも思うけれど、同じ失敗を繰り返すそんなウグイスがいとおしいくて、毎年「あのへたくそウグイスが来ないかなぁ」と待っていて、彼の鳴き声を聞くと、「あっ、今年も春がやってきた」と実感できるのでした。幼児教育が大事なんだ!と、妙に納得させられる大好きなウグイスなんです。


 春の初めは卒業のシーズン。この原稿を書いているの今日は三月十九日です。小丸山小学校の卒業式から帰ってから、この原稿を書き始めました。
 校下である小丸山小学校からの招待状が届いたので、同じ日に卒業式がある他の小学校には失礼をして、小丸山小学校の卒業式に出席をしました。九六名の卒業生の内、六名が七尾幼稚園の卒業生でした。

 九時十五分に校長室に到着しまた。多くの来賓の諸先生たちと共に九時三〇分からの卒業式に向かいます。校長室から卒業式の会場の体育館に向かう途中、卒業生たちが待機していている階段と廊下の横を通ります。黙々と通り過ぎる来賓の諸先生たちの中にいるわたしに声がかかります。
 「釜土先生!こっちこっち!」
わたしが答えます。
 「おう、卒業おめでとう」
別の所からも声が飛んできます。
 「こっちも!」
 「こっちも!」
 結局恥ずかしがって手を引っ込めた一人を除いて七尾幼稚園の卒業生全員と握手。それ以外に何人か知っている子がいて、その子達とも握手をして式場に入ったのでした。

 学生服を着たり、セーラー服を着たりして、見違えるようになっていました。なんだか遠くに行ってしまったようで寂しさも感じますし、同時に頼もしさを感じますが、一人ひとりの性格は幼稚園時代とそんなに大きく変わるものではありません。どんなことにとまどうか、どんなことにシャイになるか、どんなことに自信を持つか、顔を見ただけでみんな判ってしまうような気がします。



 どんな学校にもその伝統があります。共に過ごすのですから、いつの間にか共通の個性のようなものが生まれてきます。小学校でも、中学校でも、高校でも、何となくそれぞれに雰囲気というものがあって、それとはなしに伝統というものが生まれてきます。もちろん小さな子供達と共に生きる幼稚園や保育園にも、何とはなしに生まれてくる伝統というものがあります。
 そしてそれが幼稚園のように、ご家庭の皆様方が自由にその伝統を選ぶことができる時には、その伝統はより円熟味を増すでしょう。誰もがみんな共通に喜ぶ伝統に、「この指とまれ!」「あつまった!」となるのでしょう。


 七尾幼稚園の卒業生は何にでも興味津々です。何かおもしろいことはないか、愉快なことはないか、楽しいことはないかそんなことを探していますし、よく知っています。
 誰かが自分のお兄ちゃんやお姉ちゃんから聞いてきたとすれば、それをすぐにお友だちに伝えようとします。そしてそれをお友だちみんなの体験にしようとします。毎日繰り返される制作コーナーでの活動やイベントの空間は、目を見張るものがあります。
 「こんなものが欲しい」「あんなものないかしら?」子供達は、幼稚園の用意している小さな備品をよく知っています。
 お菓子の箱、フイルムのキャップ、ストローに紙コップ、いろんな形の段ボール・・・そんな一つひとつがいろんなアイデアを生み出すのでしょう。ここしばらくのブームのストローとフイルムケースのキャップを使ったコマは、名作でした。お兄ちゃんから聞いてきた一人の男の子のステキなアイデアでした。

 受けが良いのも七尾幼稚園の卒業生の特徴かもしれません。楽しい話、愉快な話が大好きで、よくお喋りします。
 これは私にも若干責任があるかもしれません。先生方に「ちゃんと聞きましょう」「静かに聞きましょう」という言葉を禁止したのは、今から十九年前の若かりし頃のわたしでした。「子供達はおもしろい話はちゃんと聞く。子供達が聞きたくもないと思うつまらない話をする教師が悪い」。そんな風に考えて、実際に演じて見せたのでした。この「演じて見せた」がくせ者で、それが「落ちを考えたり、ずっこけがうまい子が多い」という評価になったかもしれない・・・。

 「優しい」というのも、本当かもしれない。お友だちが病気になると「早くよくなりますように」と、みんなでお祈りをします。先日死んでしまった十四年も七尾幼稚園にいた金魚さんのお墓を作ってお別れをした時も、みんなでお祈りをして、出会えたことを神様にありがとうと言いました。
 食事の時も、いろんな食べ物は生きていたことをよく話します。いろんな生き物の命をいただいていることを神様に感謝して、お祈りをして、「(命)いだたきます」。感謝して食事をしています。
 急に始まったことではありません。七尾幼稚園が始まった大正五年から続いていることです。命を大切にするということは、「命を大切にしましょう」と言うことではなく、心から起こる普通の「感謝」なのだと考えてきた。ずっと前から当たり前のこととして行ってきたことで、みんな当たり前に受け入れてきた伝統なのでしょう。

 お友だちの気持ちを聞いてみる楽しみも、自分の話を聞いてもらう喜びも、ちゃんと知っているからこそ起こるお友だちに対する限りない「優しさ」。そして、お友だちの気持ちを興味を持って聞いてしまう「おっとりさ」。いろんなタイプの子供達が集まってくる小学校という新しい世界の中では、修羅場を生きていけないと心配される方もいるのだけれど、案外、したたかでしなやかにみんな成長して、大きくなっていく。
 小学校の卒業式に招かれて、七尾幼稚園の卒業生に出会った時、そんな風に思いました。


 明日の朝、もし晴れていて風が強くなかったらあのへたくそウグイスくんがまたやってきます。きっと必ずやってくるでしょう。
 へたくそウグイスくんはウグイス伝統のさえずりを、受け継ぐことはできなかったかもしれないけれど、今度のAぐみさんは、人が人として人の中で生きるための大事な知恵をしっかりと受け継いで小学校に行くことになりました。

 人として生きる知恵を手にしたAぐみさん。先輩から受け継いで、自分のものとして受け入れて、また後輩へと伝えてくれた今年の卒業生。「最も優秀な幼稚園教師は、その幼稚園の伝統に生きる年長児」。そんな言葉を実感させてくれた今年のAぐみさん。

 ご卒業、おめでとう。

(2002年3月22日 七尾幼稚園園だより巻頭言)



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