中川いしおSTORY
1930 3歳で父を亡くす
1945 貧しさのため進学を断念
1946 舞鶴平海兵団へ入校
1951 利子夫人と結婚
1953 倒産の苦汁を知る
1967 村議、村長と政治の道に
1970 中川を県議会議員に
1974 手取川ダムの恩恵
1975 決意新たに2期目を迎える
1995 教育にかける情熱
1995 子供の笑顔を絶やさない
1995 経験を積み円熟期へ

 

 

1930 3歳で父を亡くす

昭和5年6月10日、鳥越村河合で中川市三郎、ふでの子供としてこの世に生を受ける。もともと裕福な家ではなかったが中川が3歳のときに父親の市三郎が病気でなくなってからは「70数軒ある河合地区の尻から数えたほうが早い」ほど貧しかったと話す。貧しさゆえに学校でも肩身の狭い思いをしたという中川は、悔しさをかみしめながら育った。この時の気持ちが、中川に強い意思と反骨心を養っていたのである。

1945 貧しさのため進学を断念

就学年齢に達した中川は、鳥越村立河合尋常小学校、同村立国民学校高等科へと進んだ。血気盛んでクラスではリーダー的存在、成績は常にトップクラス。当時成績優秀な生徒は中学校へ進学するのが通例であった。中川自身もそのつもりで意欲満々だったが、無情にも、その頃の中川家にそれだけの金銭的な余裕はなかった。「勉強したいのに出来ない」そんなジレンマを抱えながら多感な少年期を過ごす。

 

 

1946 舞鶴平海兵団へ入校

どうしても勉強がしたかった中川には、わずか1年間で中学卒業の資格が得られ、さらに官費で勉強できるという舞鶴平海兵団は夢のようだったに違いない。母や祖父の猛反対にあいながらも、無断で印鑑を持ち出し京都の舞鶴平海兵団への入校手続きを取る。海兵団では少年練習生として、思う存分勉強に励んだ。しかし、胸には幼いころから引きずる「社会の不公平」への怒りがくすぶりつづけていた。

1951 利子夫人と結婚

利子夫人と結婚したのは、昭和26年のことだった。利子夫人は貧乏で社会的名声もない中川のもとに嫁ぐことになるのだが、中川の信念である「社会の不公平の是定」に共鳴し、ずば抜けた才能に惹かれたのかもしれない。この二人を結びつけたのは、中川の姉の夫である田中博である。義兄との出会いが利子夫人との結婚ばかりか、政治家の道を志すきっかけにもなる。

 

 

1953 倒産の苦汁を知る

昭和27年、田中博が社長となって設立された石川土建の常務に就任する。中川自身は「建設業はそれほど好きではなかった」といいながらも石川土建は土木、建築ほか、屋根瓦も製造販売する会社として順調に売上を伸ばしていった。しかし、昭和33年社会全体の放浪経営によって思わぬ倒産。中川の受けた痛手は大きく、水田、畑、百坪の自宅地を人手に渡し、膨大な借金を抱えてしまう。

1967 村議、村長と政治の道に

倒産から立ち直った中川は、新しく丸石建設を設立。人の何倍も働いた。その苦労が実を結び事業は比較的早く軌道に乗る。数多くの苦労を乗り越え、人間として一回りも二回りも成長した中川に周囲の見る目も変わってくるのは当然の成り行き。自然と鳥越村議員推薦の声が上がり、見事28才の若さで初当選する。そして、昭和42年には鳥越村村長になり、政治家の道を突き進むことになる。

 

 

1970 中川を県議会議員に

「絶対に反対や」村政の若き指導者として、村長選では中川を推した人たちまでが声をそろえて反対したのが、鳥越高原大日スキー場の建設だった。村を挙げての大騒動となったこの一件もフタを開けてみれば、これまで冬眠状態だった冬の鳥越村に活気を与えるものだった。中川の卓越した行政手腕を見せつけられた人々は、次第に「中川を県議会に」との思いを募せられていった。

1974 手取川ダムの恩恵

平成6年夏、日本は全国的に深刻な水不足に悩まされた。一日の大半を断水する地域も多数あった。そうした中、石川県は断水することもなく、逆に他県に水を送ることができるほどだった。言うまでもなく、手取川ダムの貯水によるものだ。手取川ダムの建設は昭和46年、白山ろく5村の後押しを受けて県議となった中川の最初の仕事であり、県議一期目のすべてを費やしたビッグプロジェクトであった。

 

 

1975 決意新たに二期目を迎える

昭和50年、中川にとって二度目の県議選。この選挙に勝利できるか否かは中川が一期目のすべてを費やした手取川ダム建設が地域住民に本当に受け入れられたかどうかを明確にすることを意味していた。結果は、2位に5千票以上の差をつけてのトップ当選。「ワシを信用してくれた住民との約束は必ず果たす」決意を新たにし、中川にとって本当の意味での県議生活が始まった。

1995 教育にかける情熱

中川の教育に傾ける熱意は大きい。貧困のため上級学校へ進学ができなかったため、経済などの理由で向学心を抑えざるを得ないことほど不公平なことはないと思いつづけてきた。「教育の機会は均等でなければならない」。中川はこのことを人一倍認識している。その気持ちが、私学に通う子供を持つ母子家庭を援助する制度や、白山ろくから金沢の高校へ通う生徒の通学費を一部負担する制度になって具体化している。

 

 

1995 子供の笑顔を絶やさない

中川は教育に関するいくつもの条例の制定に力を注いできた。しかし、それは決して自身のためではなく、父母のためでもなかった。子供たちの屈託のない笑顔を見ることが、一番の報酬だと思っている。父母と教育の未来を語る機会を多く持つ中川だが、そんな時によく見る無邪気に遊びまわる子供たちの姿に目を細める。そして、「この子らの笑顔を絶やしてはいけない」と固く心に誓うのだった。

2000 経験を積み円熟期へ

これまでの中川の軌跡を追ってきたが、自身はいまも熱い気持ちを持ち続けている。現在も若者たちと活発な意見を交わすなど、向学心にも曇りがない。昔と違うのは数々の苦労を乗り越えて培った経験があることだ。新年互礼会でも、よき友よき同胞らとともに「今までの経験を十分に生かし、よりよい石川県を創ろう」と誓い合った。中川の情熱の炎は消えることなく、年月を重ねた今、ますます燃え上がる。

 

 

 

 

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