読売新聞 2001年4月29日掲載
人に本あり
自ら作った赤い表紙
充実した人生の支えに


 

 赤い色紙で作った表紙に、自らペンで『智恵子抄』と記したのは、もう19年も前のことになる。その奥付には、「昭和57年7月24日作成 専修大学文学部国文科 馳浩」。

 いまも大切に持っている、高村光太郎の『智恵子抄』は、馳さんが大学3年生のころに自分で製本したものだ。大学の図書館で借りた「日本の詩歌」(中央公論社)の中から『智恵子抄』の部分をコピーし、体育会系の学生寮、男ばっかりの6人部屋の中でページをカッターで切りそろえ、糸を通す穴を千枚通しであけた。「和綴じ」と言われる製本方法は、司書を目指していた級友から聞いていた。

 自分で製本したのには当然、理由がある。「思い出の本を、自分だけの一冊にしたかったんだ」。初めて手にしたのは、中学2年のころ。この出合いがなければ、プロレスラー馳浩は生まれていなかったのかもしれない。

 

 国語の教科書に『智恵子抄』の一編、『レモン哀歌』があった。その冒頭の2節。
 そんなにもあなたはレモンを待っていた
 かなしく白くあかるい死の床で
 光太郎が、死に行く妻智恵子への思いを詠んだ詩。なぜ死の床が〈白くあかるい〉のか、14歳の少年には分からなかった。「だから『智恵子抄』を全部読もうと思ったんだ。理解したくて」。それまで図書館に縁遠かった相撲部員は、一週間の貸し出しを何度も延長して読み、納得する。光太郎と智恵子が共に暮らした充実した日々、その明るい思い出が表されているのだと。そして「自分も、白くあかるい人生を送りたい。そのためには、いまやるべきことをやらなくては」と思い立ったという。

 

 志を授けてくれた詩集は、馳さんに文学の魅力を教え、国語の先生になりたいという夢ほ与える。中学生なりに立てた計画は、地元の進学校から金沢大教育学部に進むというものだった。が、予定は高校受験で早くも崩れ、第二志望の高校に進んで考えたのは、入学後に始めたレスリングで日本一になり、私立大からの誘いを待つということだった。「リンゴ園をやっていた親は、裕福とは言えなかった。だから学費のいらないスポーツ推薦をねらったんだよ」

 体力には自信があった。食欲も旺盛。弁当箱2つに詰め込んだ5合のコメを平らげる勢いのまま、学校で、さらに下校後に毎晩通った金沢市内のジムで、トレーニングに励んだ。夢実現の手段として始めたレスリングも、「勝につれ楽しくなった」。高校3年で国体優勝すると、翌春、専修大学にスポーツ特待生として入学し、教員になるための勉強とレスリングのどちらも力を入れた。卒業後は母校の高校に戻り、念願の国語教師となった。

 ところが転機はまた、訪れる。着任した年の夏、ロス五輪にレスリング代表として出場。「オリンピックに出たことで選択肢が増えた。教壇に戻るか、それともプロレスラーになるか」。そこでプロレスを選んだのも『智恵子抄』に出合っていたからと言っても大げさではあるまい。教壇にはいつでも戻れる。ならば若いいま、何をすべきか――。その思いは、国会議員に立候補したときも同じだった。

 お手製の『智恵子抄』はこの19年間、常にそばにあった。プロレス修行時代や海外での試合にもほとんど携行した。暇つぶしに読んだこともあったが、何より心の支えになったからだ。「悩みがあるとページをめくった。すると、初めて読んだときの気持ちに帰れるんだ」。赤い表紙を開くたび初心に戻る。死を思い、生を考える。そうやって生きてきたのだ。


※ メモ
高村光太郎(1883年−1956年)は、東京都生まれの彫刻家、詩人。1914年、処女詩集『道程』を発表。『智恵子抄』は、妻、智恵子の発狂と死、愛の生活を描いて話題となる。現在は新潮文庫、角川文庫などに収録。

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