「選挙会議」 vol.1 2003.SPRING 



政治とは無縁に育った男は、いかにして国会議員になったか 

衆議院議員 馳浩 の場合 

 教師、オリンピック選手、プロレスラー・・・。その道程に、政治などというものは、本来なかったはずだった。しかし、それらの経歴は、あたかもはじめから決まっていたかのように、政治家への道に一本の糸で繋がっていた。現役プロレスラーとしても活躍する、衆議員議員・馳浩(自由民主党)。馳が国会という“リング”に到達する過程に、いったいなにがあったのか。

 

 わずか3秒だった。

 『馳くん、参議院選にウチから出ないか?』

 『はい、私でよければ!』

 1995年春、プロレスラーとして活躍していた馳浩に舞い込んだ、参議院選挙への出馬打診。自由民主党幹事長(当時)森喜朗からのものである。それまで、政治家になろうと考えたことなど一度もなかった。

 国を動かそうなどという大それた野望もなかった。それでも、森幹事長からの誘いに、馳は驚きながらも瞬時に思った。

 『これまで、いろんな経験をしてきた。仕事もしてきた。それはすべて、ここに繋がっていたのかな・・・』

 なにも迷う必要はなかった。今後待ち受けるであろう苦難も考えなかった。『すべてはここに繋がっていた』、その感覚だけを信じた。馳は、将棋で言う『手拍子』で、森幹事長の打診に快諾していた。

 

農家に生まれ、教師を夢見る

 馳浩は、昭和36年、富山県小矢部市で生まれた。米作を営んでいた川辺家の三男として生を受けた馳は、小学校3年のとき、父とは従兄弟の関係にあった馳家の養子となる。その馳家は、石川県金沢市でリンゴ園を経営する農家だった。子供の頃の馳も、養父の仕事をよく手伝っていたという。

 6年後、馳は金沢市内にある私立星稜高校に進学する。この時期はまだ、政治に関して取り立てて興味を抱くことはなかった。新聞でまず見るるのはテレビ欄。続いて社会面、スポーツ面の順番だった。政治、経済、外交などのページには、まったく目はいかなかった。それでも、一面に躍る見出しには注意を惹かれるようにはなっていた。

 「支持政党はもちろん自民党でしたよ。農民だったからね。農政に大きな責任を持つのは自民党。自民党が農家を守ってくれる、というのがあったからね」

 もちろん、このとき、政治家への芽が生まれてきたわけではない。そのころの馳が目指していたのは、教師だった。もともと本を読むことがなによりの喜びだった馳は、国語の先生として教壇に立つことを夢見るようになる。馳にとって、第一の目標は教師になること。実家のリンゴ園も、教師として定収入を得ながら、家族とともに切り回していくつもりだった。

 馳がもうひとつ没頭したのがアマチュアレスリングだった。高校に進学してから始めたアマレスで、馳はめきめきと頭角を現していく。このままレスリングを続けながら、教師への道を歩んでいきたい。馳が描いたビジョンとは、そういうものだった。

 進学先として専修大学を選んだのは、その条件に合致していたからである。国文学科があり、強いレスリング部がある。教師への道と、優秀なレスラーへの道が兼ね備わっているのが専修大学だった。高校レスリングの強豪だった馳には、さまざまな大学から進学のオファーがあった。それでも、馳は迷うことなく専修大学に進んだ。「すべてが繋がっていた」と振り返る馳の、第一のステップはたしかにここにあった。

 

教壇に立ちながら、ロス五輪に出場

 大学を卒業して、馳の夢はかなう。教員の資格を取得したのだ。赴任先は、母校の星稜高校。馳はここで教師としての生活を始める。

 そのころから、馳のなかに政治への思いが広がり始める。

 「学習指導要領を意識しながら、あるいは教科書を意識しながら生徒を指導するという立場になった。また進学校だから、受験指導もせざるを得なかった。そういうなかで教壇に立ちながら、『15、6歳の高校生にはこんな授業よりも、時間をかけて学んでほしいことがある』 って、なんとなく思い始めたんだ。俺は古文漢文が専門だったから、そういうのを十分に読み込めるような指導をしたいんだけど、なかなか理想通りにはいかない。かといって、教科の内容はこうだと決めるのは教師ではないし、そこに政治の力というのがあるんだよなあ、と思いましたね」

 教師を続けながら、もうひとつの大きな夢がかなう。それは、アマレスでのオリンピック出場だった。大学時代、グレコローマンスタイルの90キロ級で活躍していた馳は、学生チャンピオンに輝いたものの、日本チャンピオンになるには大きな壁があった。当初は、オリンピックなど夢のまた夢くらいに考えていたようだが、日本選手権で2位になったあたりから、「もしかしたら‥‥‥」という思いを抱き始める。そして迎えたロサンゼルスオリンピックの選考会で、馳はついにライバルを倒し、日本代表の座を射止めた。

 このことが、馳に別の道を用意することになる。それがプロレスである。

 

高校教師からプロレスラーへ

 小さいころからプロレスは好きだったが、プロレスラーになろうと考えたことはなかった。子供の時分には憧れたことがないわけではなかったが、それはあくまでも非現実的な夢でしかなかった。それよりも教師になるという目標のほうがはるかに大きかったし、それはアマレスをやりながらも変わらない夢だった。だが、オリンピック出場という勲章は、馳を教師という職に留めなかった。プロのアスリートとしての道を、そこに敷くのである。

 専修大学の先輩に、長州力というプロレスラーがいる。長州も専修大学のレスリング部で活躍し、昭和47年のミュンヘンオリンピックに出場していた。そのオリンピックに出場した先輩と、馳は大学時代に練習をともにしたことがあった。その練習ぶりを見て、プロの姿勢に感嘆したこともあった。それが強烈に焼きついていた馳は、その当時に長州が興していたジャパンプロレスという団体に、入団することを決意したのである。

 「教員資格というのは、いつまでも残るからね。いつかプロレスを辞めたときに、また教師をやることはできる。それに、教壇からリングに戦う場所は移っても、教育者としての立場は変わらないという信念があった。だから、プロレス入りということにも、スムーズに答えを出すことができたね」

 専修大学→教師→オリンピック出場→プロレス入り。このプロレス入りこそが、「すべてが繋がっていた」という感覚の、決定的な段階であった。

 

プロレスが政治を身近に引き寄せた

 ジャパンプロレスに馳が入団したのは、ロス五輪の翌年、85年だった。オリンピックのアマレス日本代表という肩書きを引っ提げて、鳴り物入りでプロレス入りした馳は、プロレス界全体にとっても希望の星だった。それもあってか、馳は日本でデビュー戦を行うよりも先に、海外に武者修行に出される。行った先は、プエルトリコ、アメリカ、カナダ。プロレスラーの海外武者修行は、一般企業の海外出張とはまるで違った趣きを持つ。その名の通り「修行」だから、生活からなにから、所属団体の下支えはなにもない。自分の腕一本で、海外で暮らし、また生活の糧を得なければならない。馳にとって、この経験が日本の国政を深く考えるひとつのきっかけとなった。

 「海外で生活するわけだから、税金の問題もあるし、治安の問題もあるし、ビザ取得の問題もあるし、行った国々と日本との外交関係というのもついて回る。ほかの日本人が海外でどれだけ苦労しているかも肌で感じたし、逆に怪我をしたときなんかはその国の医療制度に助けてもらったこともある。そういったなかで強く意識するようになったのは、消費税のことだったね」

 その当時、日本ではまだ消費税は導入されていなかった。ただし、議論は活発に行われており、いずれ日本でも導入されるのは確実とされていた。馳が修行のために滞在した国々では、すでに消費税が導入されており、軒並み税率が10%を超えていた。スーパーマーケットなどで食料品や生活用品を購入し、店側から受け取ったレシートを見ると、そこには「tax」と記された金額が書き込まれている。そのころに日本にいたら、払う必要のないお金を払っているのだった。それを見れば、否が応でも税金の負担感は身に迫ってくる。馳は日本は手厚い、いい国だなあと感じた。

 しかしながら、同時に日本も将来は間接税に財源が移っていくのはやむなしとも感じた。今後、少子高齢化が必至の日本社会において、特定の人や法人に大きな負担を強いる福祉制度は破綻に向かう可能性もある。となれば、広く薄く徴収することになる間接税のほうが、財源確保には向いているのではないか。

 また、馳はオリンピック前夜のカナダ・カルガリーに居住していたことがある。88年のカルガリー冬季五輪を2年後に控え、街は急速に整備を進められていた。その財源確保のためだろう、急に公共料金が値上げされた。当然、市民の負担感は増していくことになる。馳のなかで国民の負担とそれに伴う政治の動きというものを身近に感じる出来事になった。

 「日本にいたら、あまり感じなかっただろうな。教員をやっているときにも、感じていなかった。実家にパラサイトだったからね。結婚して、子供もいて、という事態なら別だったかもしれないけど、そうじゃなかったから」

 

アントニオ猪木の選挙秘書に

 そんな思いを携えて日本に帰った馳に、突如、政治というものが足音を立てて迫ってくる。海外修行の間に所属していたジャパンプロレスは解散し、馳は師匠ともいえる長州力とともに新日本プロレスに移籍することになった。新日本プロレスといえば、あのアントニオ猪木が設立した団体で、当時も社長を務めていた。その猪木が、89年の参議院選挙に出馬することになったのだ。猪木はスポーツ平和党を旗揚げし、比例区に立候補した。

 馳はそのことを、遠征先のモスクワで知る。空港の荷物受渡所で猪木から直接そのプランを聞かされた馳は、「頑張ってくださいよ」と他人事のように激励した。しかし、他人事では終わらなかった。猪木は、馳を選挙秘書に任命したのだ。馳が政治というものに直接関わった、初めての体験だった。

 「プロレスラーの気持ちもわかるし、社会人を経験しているから一般社会にも通用するし……ということじゃないですか」

 プロレスファンは、馳が猪木の秘書に指名されたと聞いて、おおいに得心がいったものだった。馳がリングやプロレス雑誌などで見せていた言動は、プロレスラーのなかでは飛び抜けて聡明さを感じさせるものだったからだ。「プロレスラーの気持ちがわかる」という意味でプロレス界から人材を得ようとしたのであれば、それは馳以外には考えられなかったといえる。

 馳としては、あくまでも「猪木の選挙のお手伝い」というだけの参加であった。選挙戦を戦い抜き、猪木が当選を決めた際には号泣した馳ではあったが、自身がこれ以上政治に関わることは考えてもいなかった。猪木が議員としての活動を始めてからは、なおさら政治への道は頭から消えていた。当然ではあるが、国会議員として政治活動に忙殺された猪木は、プロレスラーとしてはセミリタイア状態を強いられた。政治とプロレスを、フル回転で両立させられるわけはなかった。となれば、優先されるのはもちろん国政のほう。そんな猪木を見ながら、馳は「プロレス界代表として、政界で頑張ってほしいな」と思うだけだった。

 しかし、馳と政治を繋ぐ糸は、切れてはいなかった。

 

森喜朗からの打診

 自民党の森幹事長から、参議院選挙出馬の打診があったのは、95年のことである。奇しくも、アントニオ猪木参議院議員が改選を迎える時のことだった。

 それまで、森とは2回ほど、会話を交わしたことがあった。といっても、新日本プロレスが主催するパーティーに森も出席していて、そこで挨拶を交わした程度。森は、石川県出身で、馳と同郷にあたる。それもあって、森はパーティーで馳に気軽に声をかけたのだろう。だが、接点はそれだけだった。

 「森さんが、同じ石川県出身ということは、もちろん知ってたよ。ただ、俺の住んでいるところは奥田敬和(おくだけいわ)先生 (故人) の地盤で、反森というのが強かったんだよね」

 馳が立候補したのは、参議院の石川県選挙区。そして、馳が言うとおり、石川県の最大の票田となる金沢市は、森の長年のライバルである奥田敬和の地盤である。

 自民党幹事長まで務める森にとって、地元である石川県選挙区は必ずモノにしておきたい。そこで、同郷であり、面識もー応はあり、プロレスラーとして知名度もある馳に白羽の矢が立ったのは、不思議でもなんでもなかった。

 まさか、自分が政治家への道を歩みだそうなどとは、考えてもいなかった馳である。もし、このとき森から声をかけられなかったら、いまでも政治家になどなってもいないし、なろうとも思っていなかったに違いない。それでも、馳はここまでの人生で、政治というものを深く考えるようにはなっていた。

 「すべてがここに繋がっていたのかな」という馳の感覚は、これまでの経歴がすべて、政治熱を高めるためにあったのではなかったか、というほどの意味である。たしかに、ここまでの人生は、すべてが政治家としての血肉となっている。それを運命と言うのはたやすい。「俺は、その場その場で、いつも全力でやって来たよ。その積み重ねとして、いまがあるんだ」。これは、馳が常に口にする人生訓である。仮に政治家になっていなかったとしても、プロレスラーとして、あるいは教師として、それらの経歴は生かされていた。だが、森に声をかけられたという事態もまた、それまでの経歴を一気にフラッシュバックさせるものだった。

 3秒での快諾は、そんなところから生まれた。

 「まあ、そんな理屈なんか、あとから考えつくことでね。カンですよ。感覚だね。チャンスをもらったんだから、やらないよりやったほうが後悔しないでしょ。当選とか落選とか、そんなこともいっさい考えてなかった」

 当時、現夫人の恭子さんとは、結婚して1年目だった。恭子さんとは、タレントの高見恭子さんである。夫人もまた、自分の仕事で多忙を極めている。慣れない選挙戦は、夫人にも負担をかけることになるのは明らかだった。それでも、夫人はあっさりと賛成した。

 「反対してもやるんでしょ」

 「まあね」

 馳はこうして、政治家への道を歩み始めた。

 

参議院選挙に当選、その喜びと憂鬱

 「選挙という通過儀礼は凄まじかったよ」

 森の打診に応えたものの、結局は森のアドバイスもあって無所属で立候補した馳を待っていたのは、激しい選挙戦だった。といっても、馳自身はそれほどこたえていたわけではない。体重が一気に15キロも減少するほどの過酷な戦いでも、もしこの通過儀礼をクリアして当選すれば、自分のやりたい仕事ができる、その喜びと期待感のほうが強かった。だが、周囲は日ごとにストレスを溜めていった。

 それは、馳に対する白眼視から生まれるものだった。馳は、いわゆるタレント候補としての出馬である。同じ国会議員候補であっても、タレント候補は宿命として、半ば蔑視に近い見方をされる。知名度を利用して、名誉を得ようとしているのではないか。あるいは政党が知名度を利用して、議席を確保しようとしているのではないか。当選してからはさらに厳しい視線が突きつけられる。政治のプロでもないのに、きちんと仕事ができるのか。どうせたいしたことができるわけがない。税金の無駄遣いだ……。

 「いままでは、プロレスラーだとか、タレントだとか、周りはそれを好意的に見てくれていたんだよね。でも、いざ選挙になると、こんなにも人の悪口を次から次へと言うもんなのか、って思ったよ」

 そのことに対しては、馳自身は、先ほども言ったとおり、それほど気にはならなかった。それでも、カリカリといきり立つ周りの人たちに対して、気を遣わなければならなかった。

 そんななか、馳は見事に当選を果たす。皮肉にも、前回の選挙をともに戦ったアントニオ猪木は、落選していた。プロレス界の代表として頑張ってほしい、そう猪木に対して抱いていた思いは、今度は自分にかかってくることとなった。もちろん、プロレス界というひとつの業界にとどまらず、石川県の代表として、国民の代表として、国政に力を果たす所存だった。

 「でもさ……気が重かったよ。当選が決まって、立場上、バンザイはしたよ。でも、これから6年間大変だろうなあって、すげえ気が重かった。そのために選挙に出た? そうなんだけどさ、いざ受かったら、その瞬間にどんよりとなってしまった。両肩に重く、責任がのしかかってきたよね」

 馳は――誤解を生むかもしれないが――プロレス界では、どちらかというと軽薄さをキャラとしていたところがある。遠征先で、プロレス雑誌の記者の眉毛をそり落とすといういたずらをして、物議を醸したこともあった。なにより、合コン好きとしてもその名を馳せており、「戦う愛の伝道師」などと自称していたこともある (というより、いまでも自称している)。もちろん、それらは馳の一面にすぎない。それでも、国会議員ともなれば、そういった一面を自粛する必要がある。プロレスラーはどちらかといえば芸人に近いところがあり、エキセントリックさが売りになる場合も多々あるが、政治家はそうではない。もうチャラチャラしてられないな……、馳の憂鬱はそこにあった。

 「プロレスをしているヒマはないな、とも思ったけど、それについてのどんよりはなかったね。プロスポーツに引退はないと思ってたから、できる限り関わっていって、やりたくなったらエキシビション・マッチでもやればいいと思ってた。コーチのような立場からアドバイスすることはできるだろうし、原稿を書いたりしてスピーカー的仕事はできると思ってたしね」

  馳は、いまでもプロレスをしているときが最も幸せだという。馳のなかでプロレスというのは大きな領地を占めている。それでも、それが侵されることには、なんの不満もためらいもなかった。ただただ、新しい分野への挑戦、それもあらゆる仕事のなかで最も大きな責任が生じる分野への進出に、馳は少しばかりたじろいだのだった。

 

嬉しかった新人しごき

 1年生議員としての日々がスタートした。当選直後は心に重石を抱いてしまった馳も、すぐに充実感を感じるようになる。

 「自民党というのはあまりにもシステマチックでさ、新人として入ったら、ものすごくしごかれる。すげえ嬉しかったね。こうでなきゃいか んと思った」

 国会という場のレベルの高さに、馳は興奮したのだった。1年生議員だからといって、責任が軽くなるわけではない。もちろん、大ベテランの議員に比べればできることは少ないが、一国を預かる以上、キャリアの浅さは言い訳にはならない。そこで揉まれることが、馳にとっては大きな喜びだった。「大学時代の何倍も勉強しましたよ。もちろんいまもね」と言うように、それは過酷な日々を送るということでもある。しかし、立案した政策が実現したり、目指すところを同じくする仲間が増えて議論を活発にしていったり、政治活動が軌道に乗るにつれて、馳はさらに生き生きとしていく。

 「楽しいね。政治家にならなきゃよかった、なんて思いはまったくない。想像と違っていたというか、政治家になる前に気がつかなかったのは、土日も休めないということくらい。休めるのは、正味12月30日から1月1日の3日間かな。それでも、そんなことはまるで苦にはならないよ。もちろん、仕事をしていればつらいことや腹の立つこともあるけど、大きい目標があれば、小さなことは我慢できるじゃない?」

 馳は00年の衆議院選で、参議院からの鞍替え出馬をし、当選。現在は衆議院議員である。参議院時代よりもさまざまな面で仕事は増え、現在は国会対策委員会副委員長として、平日は国会にカンヅメ状態だ。そんな多忙のなかにあっても、馳の心は充実感でいっぱいだ。

 もちろん、現在の自分に満足しているわけでもない。

 「自民党の政策に対するストレス? まったくないね。そりゃあ、医療費負担3割反対という声も理解できるし、イラク問題や北朝鮮問題の日本政府の対応にも言いたいことはある。もし俺が外務大臣だったら、総理だったら……そういう意見はいっぱいあるよ。でもさ、それは当然ある話でしょ。そのうえで、衆議院議員の一人として、果たすべき役割は果たしていると思うからね。でも、それに満足はしていない。もっと頑張らなきゃいけない。大きな目標のためにね」

 

小さな目標は総理大臣になること

 その大きな目標とは果たしてなんなのか。こちらが期待している答えはひとつだ。

 「総理大臣」と言ってもらいたい。大言壮語でもいい。景気のいい発言を、爽やかにしてもらいたい。そんなこちらの浅はかな了見を見透かしたように、馳は言った。

 「ひとつの小さな目標は、総理大臣になりたい、ということだ」

 小さな目標? そう訝るこちらに、馳は言葉を継いだ。

 「役職に就くということは、経験をしていけば可能性のあることだ。いまは国会対策委員会副委員長だけども、そのうちに政務官になったり、副大臣になったり、党のなかで部会長になったり、将来は政調会長とか幹事長になるかもしれない。あるいは大臣になるかもしれない。経験と勉強と周りの理解に応じて人事は決まるから、そういうこともあるかもしれない。

 だからこそさ、あれになりたいこれになりたい、というのはありませんよ。ようするに、国民の最大公約数のためにやらなきゃいけないことを、その役職役職で判断できる政治家になれればいいなと思っているんだ。形でいえば、小さい目標は総理大臣ということですよ。位人臣を極めるとすれば、そういうことだろうね。でも大きな目標は、一日一日勉強を積み重ねて、その場その場で国民のために責任を果たすこと。俺はそう思ってるよ」

 ふむ、と呟くこちらに、「まだ納得がいかないのか?」という風情でさらに続けた。

 「プロレスラーでいえば、チャンピオンになることは小さい問題で、たくさんの人に試合を見てもらって、喜んでもらいたい、感動を与えたい、ということだ。な?」

 思えば、馳はプロレスラーとして、決して大きな勲章を手にしてきたわけではない。数々のタイトル歴はあるけれども、頂点と呼べるチャンピオンベルトを巻いたことは、まだない。しかし、プロレスファンのだれもが理解していることは「馳の試合にハズレなし」。政務が多忙でもキッチリと身体を作り、観客を飽きさせない試合をすることにおいて、馳は絶大なる信頼感を得ている。もちろん、馳とて、チャンピオンになることを諦めたわけではあるまい。それでも、一人のプロレスラーとしてリングに立った以上は、そこに集う人々を幸せな気分にさせようとするのが、馳浩なのだ。教師としての馳も、形としては校長を目指しても、そこにいる生徒たちの幸せを考えるような「先生」だったに違いない。

 「すべてがここに繋がっていた」

 目指すものもまた、ひとつに繋がっていたということだろう。これから馳が紡いでいく経歴もまた、大小取り混ぜたこれからの目標に繋がっていく。(文中敬称略)


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