正論 2008 6

熱血対談
いまどき古くさいとは言わせない
【教師の奮起こそ 教育再生の原動力だ】
萎縮するな。恐れず胸を張って子供と向きあおう

参議院議員 義家 弘介(よしいえ ひろゆき)  衆議院議員 馳浩
 

 本日はありがとうございます。 教師時代のお二人のご活躍、文字通り体当たりの熱血指導については、既に多くの方が広く知るところではありますが、あらためてお二人が教職を志す切っ掛けからお聞かせください。

 

 馳==自分が教職に就きたいと考え始めたのは中学校二年生のころでしたね。 担任の先生は国語の先生で授業がとても面白かったのです。 私の実家はりんご農園を営んでおり、父は判子作りの内職、母は専売公社に出かけ働きながら生計を立てていました。 私自身は読書好きの少年で、国語の教科書をもらうとその日のうちに読み耽って隅々まで目を通してしまうほど、国語が好きでした。 先生の授業というのはとても刺激的で、例えば、授業で高村光太郎の智恵子抄を扱ったとしますね。 先生は生徒にいろいろなことを調べさせるのです。 課題に沿って図書館で調べたり、考えたりしたうえで授業でいろいろな話をしてくださるのですが、作者の人生はどんな人生だったか、作者の時代背景はどうだったか、なぜこの作品を書いたのか、なぜ書けたのか。 そして貴方はどう思うか…。 一つの文学作品を掘り下げながら、人生を考えさせてくれるんです。 ただ、字面を追う、読むというのではなく教科書に載った作品の断片から、深い思索の世界へと誘ってくださる、読書の本当の醍醐味を教えてくれる授業でした。

 文学の世界で一定の評価を受けている人って概してまともな人生を歩んでおらず、挫折や狂気、歴史の渦に巻き込まれたり、一様に戦争にどう向き合うかといったテーマを突きつけられ、格闘しながら傑出した作品を生み出している。 この授業に影響を受けましたね。 私は家業を継ぐことも考えながら、そして子供達、それも最も多感な生徒達のそばに寄り添いながら、彼らが人生観や歴史観、アイデンティティーを築く上でのサポート役になれる先生になれたらいいな、こんな先生になりたい、と考えるようになったのです。

 義家==自分は教師という職業くらい嫌いな職業はないまま過ごしてきましたから馳先生とは対照的ですね。 彼らの価値観や授業といったものは当時、敵視する存在でしかなかった。 だから授業に感動したなんて経験もなかった。 勉強は手段に過ぎず、評価されるために勉強した覚えなどなかったのです。 当時は尾崎豊さん――私も同世代ですが――が人気を博したように、大人とか社会とか権威に刃向かっていく風潮があった。 今よりはましだったと思いますよ。 昔も刃向かいはしたけど、その底辺にはチャレンジがあった。 他校の威張った輩を如何にやっつけるか。 こんなことに精を出していたが、今はそうではなくて、自分よりも弱いものに向かうでしょう。 同じ不良でも似て非なるものです。

 そんな不良学生だった私は高校を放校になりました。 これは自分が悪かったからなのですが、勘当されて里子に出され、一年間ひきこもりもやりました。 その時、いろいろなことを考えましたね。 結局、全国の不登校児を集めた北海道の高校に流れていったのですが、私はそこで初めて肩肘を張った心でなく普通の心で学校を見たような気がしました。 そこで影響を受けたのは担任の先生でした。 この先生は一般的に言うと 「うざいの象徴」 のような女性教師だった。 とにかくしつこかったんです。 学校さぼって海でぽんやりしていると車で駆けつけてきては 「早く学校に行け」。 毎日がその連続でした。 私はこの先生に 「何で!」 と食って掛かっていたのですが、でも、こうした生活に時間を重ねるうちにやがて、それが嬉しく感じられるようになっていったんですね。

 今から思えば私はゼロ歳で母親と別れて生活していましたからね。 母性というものを欲していたかもしれませんね。 うざいという思いが嬉しい、でもそれだけに余計に素直になれなかったのかもしれない。

 卒業して大学にも通いました。 しかし、そこでも私は教師になろうなんて毛頭なかった。 ところが、大学四年生の時にオートバイの事故にあい、内臓が破裂し危篤状態で病院に担がれたのです。 意識不明で病床に伏していたのですが、そこへ、あの先生が北海道から駆けつけてくれて 「貴方は私の夢だから死なないで!」 とずっと声をかけてくださったのです。 四年も前に卒業している自分、なついていたわけでも決してないし、反抗ばかりしていたこんな自分が夢だといってくれた。 ありがたいことでした。 母親のような存在に思えてならなかった。 「生きたい」 と心底思いました。

 これが決定的な転機になりました。 私はこの先生の後を歩もう。 私も苦しんでいる若者と向き合いながら、生きていこうと思いましたね。

 

 ■私の人生を変えた学校の担任教師

 馳==大学生の時は何になろうと思っていたんですか。

 義家==医者は無理かもしれないが、弁護士になってみたいと思っていました。 私にはいっぱい言いたいこと、本音があった。 けれども、過ちを犯した人間の声は届かない。 そういう人たちの代弁って大事なことだ、難しい職種だが、弁護士だったら努力すればなれるんじゃないかと思いながら過ごしていました。 教職を決断してからは、まず圧倒的に授業について鍛える必要性を痛感していましたから、予備校や塾でアルバイトし研鑽を積むよう精を出していました。

 教育に求められることについて、愛とか授業力とか生きる力など様々に語られますね。 でも僕は断然感動だと思う。 感動の中身はいろいろあっていい。 わからないことができるようになる、物事が解明できた感動もあるでしょう。 そもそも不良だった私が人に価値観を説くなんて許されるわけがないとは思ってましたが、そうではなくて生徒と感動を共有する、生徒の感動をプロデュースしていく教師ならなれるかもしれない。 そう思ったのです。

 馳==反面教師という言葉がありますが義家さんの場合、教師の嫌なところ、ダメなところを知り尽くしている。 これが大いに役立ったのではないでしょうか。

 義家==不良としての過去が自分にあったからこそ、その行動が何を生み出すのかということが分かる。 「人に迷惑を掛けてないからいいじゃないか」 とよく不良少年は開き直っていうけれど、実はあらゆることに迷惑を掛けていることに気づいていない。 そういうことも彼らと真正面から向き合って心を込めて訴えていけたらいいなと思ってましたね。

 馳==私にとって今も胸に刻まれている出来事を思い返してみると、やはり中学二年生のときなのですが、自分の通っていた中学校が冬休みに放火され焼けてしまう事件があったのです。 警察の調べで火元は生徒会室だということが分かったのですが、私も当時、生徒会の役員をしていたんですよ。 それで警察の事情聴取というものを受けた。 はじめは 「何で自分が呼ばれるのだ」 と不可解で仕方ない思いだったのですが、あれこれ聞かれ、やり取りを重ねていくうちに警察はもう犯人が分かっていて、私の一学年上級生となる三年生が模試の成績を苦に火を放ったということがピンと分かったわけです。 驚きましたよ。 この上級生はふだんから優秀でとてもそんなことするとは思えなかった。 本当にショックでしたね。 子供ながらに 「あんな優秀な人をノイローゼにまで追いつめる受験勉強、教育っておかしい。 文部省はおかしい」 と本気で思ったものでした。 知識を伝えることは大事だし、勉強の成果を問うのが試験なのに、いつのまにか試験が教育の中心になってしまっている。 こんな光景が教育の終着駅であってはならないと感じましたね。

 ところで、冬休みが明けて始業式のあと焼けた木造校舎の片付けを生徒と教職員全員が煤だらけになりながらやったんですね。 学校全体が意気消沈して不安に駆られている。 ヒステリーになっている人もいれば、疑心暗鬼も渦巻いている。 そんななかで、生徒の動揺を少しでも抑えようと私達にぴったりと寄り添いながら一生懸命に声をかけて励ましてくれた。 そんな先生達の姿は印象深く、今でも脳裏に焼き付いていますね。 今でも同窓会で、この事件が話題にのぼると、皆がいろいろな思いをつい昨日の出来事のように熱く語るんですね。 そのくらい誰もが何かを胸に刻んだ貴重な出来事だった。 私にとって学校とはいろんなことがあるものだけれども、生徒達をサポートしようと懸命だった先生の姿が最も忘れられないことだったのです。

 

 ■型を教わり極めることで際立つ個性が生まれる

 実際の教壇というのは如何だったのですか

 義家==母校の教壇に立って、まず気づいたことですが、四月の始業前というのは自分の担任する生徒の様々な書類に目を通して、顔と名前だけでなくどんな子供であるか、それこそ徹夜で丸暗記するくらいの作業をやります。 ところが、いざ教室に入ると書類に書いてある生徒と全然違う生徒が並んでいるのです。 中学の先生が入学させようと書類を書くのですが、下駄を履かせるなんてもんじゃなくて、真っ赤なウソを平然と書くから、全く本当の姿が反映されていないんです。

 馳==僕も高校の教師でしたからね。 それはとてもよく分かるなあ。 この落差にはびっくりしますね。

 義家== 「保健委員として活躍した」 と書いてあったので 「何をやっていたのか」 と聞くと 「不登校だからやってるわけがない」 といった具合です。 だまされた思いで 「このクラスはこれからどうなるんだ」 とはじめは真剣に悩むのですが、でもやがてどんなクラスにしたいか。 そういうビジョンを担任である私が示せなければしようがないじゃないか、と自分を恥じる思いに変わっていったのです。 オレはこういうクラスにしたい、というピジョンをお前たちに押しつける、だからお前がどう思おうが周りがどう思おうが、これだけはまず守ってもらうというルールを宣言したんです。 ルールの変更は成長の先にある結果だ、と。 私もやはり、しつこい先生になってましたね。 自分でもうざい先生になろうと思ってましたから。

 でもこれはとても大事なことだと思うのです。 概してはじめに 「僕は君たちのことを聞いてやる」 と物わかり良く臨む先生は多い。 けれども私はそれは間違いだと思っているのです。 こういう先生に限って何か問題が起こると許容範囲が狭くなり、生徒の信頼を失う。 それは悪循環に陥っていく典型的なパターンなのです。

 馳==私の勤めた学校というのは大学進学者もいれば、就職する生徒もいる。 スポーツに精を出す生徒もいる。 いろいろな生徒がいて、授業への意気込み、取り組みなども生徒それぞれで違うのです。 そんななかで私は授業をするにあたって自分にハードルを課したのです。 一つ目は教科書とかノートを見ながら授業をしない、全部暗記すること。 できるだけ分かり易い授業をするのだけれども、自分だけ参考書見るのでは注意力が散漫になるというのが理由ですね。 それから二つ目は授業と休み時間の言葉遣いを変えました。 授業中は全員 「さん」 づけで丁寧語で通す。 しかし、休み時間になると、努めて名前で呼ぶ。 名前で呼ぶと生徒は大体安心するんですよね。 それから三つ目は国語の授業では必ず全員参加させる工夫をしました。 黒板に空欄を沢山書き、教科書に書いてある言葉のなかから、適切な言葉を探し出して補充させるのですが、できるだけ多くの生徒に書かせ、さらにどこか一箇所だけは必ず教科書にない熟語を考えさせるようにする。 それは作品が結局のところ、何を言いたいのかを理解しないと答えられない。 一回の授業で30人に答えさせるから生徒は読まざるを得ないし、参加せざるを得ないように工夫したのです。

 義家==馳先生の前でこういうのも恥ずかしい話ですが、私は学生時代、国語をどうしても好きになれなかったのです。 解釈は人それぞれなのにそれを許さない感じがどうしても受け容れられなかったのです。 ただ唯一、明治から昭和初期の自由律俳句で知られる俳人、種田山頭火と尾崎放哉の作品は私にとって刺激的だったんですね。 当時不良をしていた自分と二人をオーバーラップさせたりしたんです。 当時の封建的な俳句の世界に挑戦したわけですからね。 凄い勇気がいるだろうとか、あれだけ型にとらわれずに良い詩を読むのは型があればこそだとか、当時不良だった私に基礎的な勉強はしっかりやらなくちゃいけないんだなあとか教えてくれたんですね。

 馳==柔道とか剣道でも空手もそうだけど、型から入るのが、大事なんですよ。 僕は剣道やってたから分かるんだけど、型を極めれば極めるほど、個性って際だつんですよ。

 義家==そうですね。

 馳==無駄な動きがどんどんそぎ落とされていく、いけばいくほどその人ならではの独特な型ができあがり何時いかなる時にどういう戦いに臨んでも応用が利くんですよ。

 義家==少し飛躍があるかもしれませんが、公教育も型なんでしょうね。 型を保証しないで小学校一年生の段階からいきなり考えるカなんて言ってもそれは土台無理な話ですよね。 ピカソみたいな芸術家にもスポーツマンにも通じると思いますが公教育もそうなんでしょうね。

 馳==そうですね。 では国語の型って何だろうかといえば僕は結局、ボキャブラリーだと思うのですね。 特に漢字は表意文字だし、字の形を見てイメージが膨らむ。 平仮名、カタカナは漢字から出来ている。 さらにローマ字もありますが、この四つを操るというのは日本独特の言語文化を持ってますよ。 小学校低学年、中学年できっちりそして豊かな語彙力を身につけておくのは情操教育のうえでとても大切だと思います。

 義家==若者と接する仕事をしていますと、彼らの文化について考えさせられることがあるんですね。 例えばケータイ小説が若者の間で流行るのですが、実際読んでみると、言葉は少ないし、文学でも何でもない。 あれは型の軽視の産物ではないだろうか。 大相撲もそうだけど一つの取り組みがあるまでに土俵入りがあって一々塩をまいてにらみ合って汗が猛烈に噴き出るほどに緊張して一つの取り組みがなされる。 そういう型を軽視し、個性を尊重すると言ってきたのが戦後教育でしょう。 個性、個性といいながら、大切なものを失っているのはなぜか。 個性は教育のゴールで手にすればいいのに、スタートに個性を与えてしまって型を軽視してしまうからだろう。 その先で結局、没個性な大衆が生まれてしまっている。 こう思います。

 

 ■体当たりの生徒指導〜身体で教えるということ

 型の話が出ました。 ルールを教えるという意味での生徒指導にはどう臨まれましたか。

 義家==生徒指導で大切なこと。 これはいったんひいた線は絶対死守することに尽きる。 場合によって人によって使い分けてはいけない。 私の拳は複雑骨折で手術を二回したのですが――これは人を殴ったのではなく、いじめや退学を巡る指導で机を殴ったからですが――教師が本気かどうかというのは生徒には伝わりますよ。 困るのは高校の場合、生徒が教師を殴るとほぼ100%退学となることです。 だから生徒に殴らせないようにしないといけない。 生徒が殴り掛かってくるときに 「受け止めてあげるよ」 なんて甘いことは言ってはいけないのです。 それではそのまま殴らせてしまい、結局その生徒は退学です。 そうならないためにどうするか。 これはこちらから掴みかかってでも倒してしまうのが正しいと僕は思います。 とにかく私には毎日体当たりするしかなかった。 それは生徒を守らないといけないからですよ。 そのために筋トレは一日も欠かせませんでした。 指導方法を云々なんて余裕は全然なかったのです。

 こうした私のやり方が学校で問題になり批判されたこともありました。 いじめの指導で放課後四時間教室から出さなかった時は他の教職員がハラハラしながら私の教室の外で見守っていて後で散々言われました。 ただ、私にすると、小学校からひきこもりだった生徒と、先月まで少年院だった生徒がこの同じ教室にいるわけでしょう。 身の安全というのは絶対確保しないといけないんです。 「そのくらいにしたらどうか」 とうながされたりもしましたが、私は絶対許さなかった。 口で 「いじめはダメですよ」 と説くのは誰でもできる。 でもこれはそんな次元で済ましてはダメで態度で示す以外ない。 教室の用具はボコボコになり、最後は加害生徒が泣いて詫びながら二度といじめないことを誓ったので終わりにしましたけど、これは仲間内の教職員から散々に言われました。

 馳==私は朝七時前には必ず学校に行き、職員会議が始まるまでの時間を校門に立って口うるさくやりました。 爪、スカートの丈、髪型など。 私の場合は始終怒鳴らなくても済んだんですね。 というのは私が教員になってすぐに五輪の代表に選ばれましたし、私の身体を見れば生徒は 「馳は怒らせると怖い」 と分かるのです。 生徒は逆らったら怖いとビビっているから、むしろ 「怒らせると怖いけれども、そうでなければ普通に話せる」 と思わせるよう、授業の始まりに必ずいろいろな話をして気を使っていましたね。

 では殴ったことがなかったかと言えば、必ずしもそういうわけでもない。 私は高校のレスリング部の監督を務め、石川県で強化委員長をやってましたけど、私の高校はそう強いチームではなかったのです。 ですから一週間に一本くらいは竹刀が折れてましたよ。 これは理由はハッキリしている。 短期間でチームをまとめ、強くするには基礎体力をつける以外にない。 私は、できるのに、できないふりをする生徒には一貫して厳しく臨んだのです。 周囲からはまずいんじゃないかという声も聞こえてきましたが、生徒の親にも積極的に自分の考えを分かってもらうよう努めましたね。 タバコで停学中の生徒には三週間自宅に毎日通って、勉強も練習もつきあったなんてこともありました。 何とか処分から早く解放されるようにと、最後までとことん面倒を見るつもりでしたね。

 義家==三週間といえばムキテイ(無期停学)という奴ですね。

 馳==そうそうそれに近いですね。 三週間通って何とかこの生徒は退学は免れました。

 義家==この機会に申し上げますが、私は正直、体罰という言葉の定義にいつも違和感を抱いてしまうのです。 罰を加えるうえで、生徒への悪意、見下した思いに基づくものだったり、生徒を自分の感情のはけ口にするような力の行使は、それは教育ではない。 調教か、それですらないと思うのです。 許されないことはいうまでもありません。 ただ、では教師が力を使えば、全て教育にはなりえないか、教育として否定されてしまうのかといえば、それも違う。 敢えて言えば身体を通して教える場面というのはあり得ると思うのです。 そして、その時に問題になるかどうか。 それは結局生徒と教師の関係が最終的に鍵を握っている。 そう思いますね。

 馳==さきほど私の指導について周囲からまずいんじゃないかという声が聞こえてきたといいましたね。 先生同士の間で齟齬があったり、疑義や互いに批判すること、 「こんなやり方は間違っているのではないか」 という思いを抱くことは私も含めて珍しいことではないのです。 ただ一点、生徒の前で他の先生の悪口を言わないこと。 これは気をつけましたよ。 私は生徒達と年が近いから、徐々にくだけてくると生徒が特定の先生をあれこれ言ってくることが時々ありました。 見るべきものを見抜いていて感心したり、心のなかで核心を衝いているなと思っても、私は絶対に同調しなかった。

 確かにクラス管理や運営を見ていると記録管理が杜撰だったり、事務処理能力がない先生とかいるんですよ。 教育をめぐる意見の対立もしょっちゅうでした。 私の学校はテスト問題を作るときに、手書きでないとダメで、切り貼りで作ることも許されなかったのですが、なかにはそういうルールを頭から無視する先生もいました。 それでもこうした他の先生の価値観を子供の前で論評することはやりませんでした。

 教科指導でいえば、同じ教材使いながら極端に高いクラスと極端に低いクラスがある。 能力別クラス編成だとしても、これほど開きがでるのはおかしい、という場合もあるのです。 私は指導方法や授業のやり方、校務分掌の処理や人間的な価値観までいろいろ思うことはありましたが、口を出すのは組織が成り立たなくなると思い、慎んでました。

 義家==私はむしろ逆で衝突しましたね。 それが子供のためで有る限り先輩にでも意見しました。 社会科でしたけど、イデオロギー重視の先生などは平和というテーマだけで十コマも使うんですね。 基本的人権だけで一学期が終わったり…。 これでは学年共通のテストなど作れないんですよ。 いい加減にしてくださいと言いました。 戦争の悲惨さを伝えるのは大事だし、思いを伝えるのも結構だけど、将来子供達が考えるための材料を保証してあげるのも授業の役割だろうと。 結局、この先生とは相容れなかったですが、あなたのやり方は生徒をバカにしている、教科書を使って、きちんと教えてその合間に教えることはできるでしょう、こうしたやり方はプロとしてゆるされないと徹底的に戦いましたね。

 馳==先生って結局、うまくフォローしないといけないんですよ。 私自身にしても恐らくいろんな面でフォローされたり、周りが支えてくれた場面というのはあったのだと思う。 ただ、確かに中には、あの先生が担任をもつと必ずといっていいほど、クラスが崩壊していくという先生がいると思うんです。 早ければゴールデンウイーク明け、六月くらいにはおかしくなるのですよね。 生徒はまず授業を集中して聞かなくなる。 クラスの掃除がいい加減になり、やがて先生に食ってかかるようになる。 いろいろな段階があるわけですが、そういう先生もいるのです。 学校にこういう先生がいた場合、どうするか。 それは副担任を配置するとか、校長が管理するとかやり方はあると思う。 先生同士で処理するよりも管理職の目配りある判断が結構大事で、それでつつがなく乗り切れることはあるんですよ。

 

 ■情報公開は学校教育を変える鍵だ

 それで政治家に転身されて文教行政を見ることになった。 どのような思いで文教行政に臨まれましたか。

 馳==政治家となり私は文部科学省の政務官になったのですが、その時に私が心がけたのはまずきちんと省内を仕切るということ。 法令を遵守し、予算をつけて文教行政をやることはとても大切なことだと考えていたのですが、小中学校の多くは市町村立だし、高校の場合はほとんどが都道府県立でしょう。 私立の場合は学校法人が学校の運営を任されている。 その意味で中央の文部科学省が決めたことが末端まで浸透しているのだろうか。 上手く行ってないんじゃないか。 通達を出しただけでおしまいにしてはいけない。 私は都道府県の教育長会議、政令市の教育長会議、中核市の教育長会議、市町村の教育長会議と徐々に単位が小さくなっていく地方の教育行政の幹部と積極的に会って意見を聞き、同時に現場の実情を把握するように努めました。 国の方針がきちんと伝わっているか。 同時にこちらから伝えていく作業を丹念にやりながら、現場の声を文教行政の中枢にフィードバックすることに力を入れたつもりです。

 それから教職員の評価をきちんとやりたいというのが二つ目に心がけたことでした。 教師時代から私は職員会議に対して二つの意味で狂っているなと痛感していたのです。 ひとつはあまりに業務が膨大過ぎるということ。 もうひとつは社会人として頭を下げたり、お金を借りるために、はいつくばって銀行にお願いしたりしたことのない、社会の荒波に揉まれたことなく常に教壇に立っている人たちの会議だということでした。 学校に対する保護者の気持ちというものは無視できない。 教師に社会人としての謙虚さが必要なことも当然です。 人を指導する立場というものに慣れすぎると、人のいうことが耳に入らなくなるんじゃないかと思う。 職員会議が密室となり一部のイデオロギー集団の大声の教師によって牛耳られてもいけないし、保護者や地域の方に何時いかなる時に見られてもおかしくない学校経営、授業がなされなければいけない。 最初に述べた国が作った教育方針や施策が国→都道府県→市町村→現場の学校に正確に浸透していくためにも教職員の評価というのはその最終関門であるともいえます。 これを実現する大前提には情報公開をきちんとやることが大事だと考えたのです。

 私はこれがきちんと実現すれば、教職員が管理職を評価してもいいんじゃないかと思っています。 というのは、先生が管理職と一丸となるためには風通しの良いオープンな組織を作る必要性が欠かせない。 そのために管理職が先生を評価するだけでなく、先生が管理職を評価することもあっていいと思うのです。

 義家==今の馳先生のおっしゃった学校のガバナンスの問題はすごく大事な問題だと私も考えています。 教育再生会議では地方教育行政法を改正し、地方の教育委員会が誤った教育行政を行った場合に国が是正措置を出せるように主張したのです。 教育界は地方分権、地方分権といって地方に任せろという議論が盛んです。 これ自体は大事な視点だと私も思うんです。 しかし、その前提には正常な教育現場、教育行政というものがまず確保されるべきです。 正常化なくして分権するのはただ単に  「勝手にやりなさい」 といっているに等しいと思いますよ。 つい最近、未履修問題というものがありました。 あれほど多くの学校が受験対策の名の下に国が定めた学習指導要領を無視して成績を偽って卒業させていた。 僕はあれは犯罪だと考えているんです。 単位偽装問題だし文書偽造ですよ。 問題が出てきてもあっけらかんとして、マスコミの騒ぎすぎだとばかりに開き直るかのような口ぶりの教育委員会、高校関係者は多かった。 世の中の負託を踏まえて国が編んだ公教育の保証書ともいうべき指導要領がいとも簡単に踏みにじられている。 深刻なのはことの重大性に多くの人が気づいていない。 皆の感覚が麻痺してしまっていたのです。

 先生のおっしゃった教員の管理職評価、これだってあってもいい。 ただ、その前に正常化をしない限りやってはいけないと思う。 北海道では一月末、全職員の三分の一を占める一万人もの教職員が法律を破って時限ストライキを打っている。 そのなかには教頭候補として名簿に登載された教師までいたのです。

 メリハリある給与査定をやるならと生徒を取り残して脅しをかける。 確信犯ですよ。 もしここで管理職の評価など導入したら、それこそ、特定の団体が管理職を飛ばす評価だって可能になる。 それを正常化するイニシアチブはやはり、政治が取るべきだと思う。 正常化するまでは教育は中央集権の部分を残す。 公教育、義務教育である限りは。こう私は思うんですよね。

 馳==義家先生の今の話は、教育基本法の改正作業で焦点のひとつだった教育行政について定めた第十条の問題に集約できると思っているんです。 「教育は不当な支配に服することなく…」 という件が日教組によって解釈を歪められ、公権力の行政行為を全て不当な支配と決めつけて排除してきた。 文部省は予算をつけてくれさえすれはいい。 現場は現場の判断で自由に、というより勝手にやれるのだという誤った解釈が罷り通って教育現場を蝕んできたのですね。 新基本法でも不当な支配という文言は残った。 公権力も不当な支配の主体となりうるという解釈自体は今までと変わっていません。 が、それでも教育は法律に則って行うことが明記されたのです。 法律を逸脱して勝手なことはできなくなった。 これは本当に大変な作業だったし、数多ある基本法改正の論点のなかでも本丸中の本丸だった。 大事業だったのです。

 義家==あれは確かに画期的でしたね。

 馳==私は義家さんのおっしゃっている懸念を理解しますが、大切なことは地方の教育委員会も学校関係者も、あの改正の意味をもっともっと正しく知って欲しい。 こう願ってやみません。 それをやらないと北海道の四六協定みたいなものがまた生まれるかもしれませんからね。 私がさきほど言った教育現場をオープンにするという話は教育現場を密室化して自分たちの言いように振る舞う勢力を排除する意味でも必要不可欠だと思うのです。

 

 ■崩壊したのはレジームであって教育そのものではない

 義家さんの場合の政治への転身は突然でしたね。

義家==なぜ政治に転身したか。 私の勤めていた学校は99%公立学校から来るのですが、なんで温かいはずの学校教育現場でこんな苦しんでいる生徒が生まれているのか。 この疑問は絶えずあった。 公教育への不信はすごく強いのです。 それで横浜の教育委員会で委員を務めたのです。 横浜というのは日本で一番大きな教育委員会で、ありとあらゆる問題が横たわっているのです。 そこで私は改革にも取り組んできたけれど、教育委員会には権限が限られているし、仕組みの問題は壁となっていた。 こうした思いが立法府に身を置くしかないと決断した理由です。

 私は今でも教育そのものは崩壊していない。 断固そう思っています。 変な親もいるけれど、子供の成長を願わない親はいない。 教師だって子供にできるようになって欲しいし、一緒に感動したい。 崩壊しているのは教育をめぐるシステムでありレジームだと思っているのです。

 だからこそ、教育の正常化、システムの再構築は政治がしっかりイニシアチブを取ってやらないといけないと思っているのです。 先ほど馳先生から先生は忙しいという話がありました。 しかし例えばさきほどの北海道のストライキを見れば分かるように、授業や部活動を放り出した先生もいた半面で、理念をもって組合にいながら参加しなかった先生もいるのです。 そんな先生達、一生懸命に頑張っている先生達ばかりが忙しくなっている。 厳密に言うと、これが本当の現実だということを誤魔化してはいけない。 そう思います。 こういう先生たちが安心して子供達に向き合う、教育に没頭する環境を作るのが政治の役割だと考えているのです。

 馳==さきほど、正常な教育現場をおかしくする勢力の話をしましたが、ほとんどの先生というのはまともでまじめな教職員なのです。 それで一部の分会と呼ばれる教職員組合の学校単位の組織に属する先生が大きな声を出す。 すると、まともな先生ほど 「まあまあ」 となだめ折り合うことになるのです。 その積み重ねが正常な教育現場を蝕んでいくのです。

 私は希望を持っています。 今までは学校というのは密室だった。 先ほど出た職員会議が代表的な例と言っていいでしょう。 密室を利用して一部の集団が跋扈したり、イデオロギーに基づく教育が罷り通っていた。 そこに家庭や地域の連携が掲げられました。 多くの目が学校教育に注がれるようになったのです。 これからはおかしなことは許されない。 なかなかできにくくなる。 白日の下に晒されるからです。

 義家==そもそも論としての公教育の責任がどこにあるか。 きちんと定義しないといけない気がするのです。 さきほど馳先生がおっしゃったようにみんなで押しつけあっているでしょう。 国は都道府県に、都道府県は市町村の教委に押しつけ、市町村教委は学校に押しつける。 未履修問題の時にもう一つ驚いたことがあるのですが、公立学校のモラルハザードが罷り通っている現状。 これは学校がオープンになれば有り得ない問題だと思う。 ただ、それ以上に驚いたのは、あれほどの問題が起きながら国がきちんとした指導ができない点。 私はそうした責任の所在とか、正常化を図る指導の大切さを説いてますが、それは教員を縛るために言っているのではない。 私は教師の敵では断じてないのです。 むしろ教師を一定のルールのもとで自由にするために言っているのです。 その一定のルール、つまり線引きは政治がやらなくてはいけないと考えているのです。 文部科学省もあっち行ったりこっち行ったりしている。 それでは先生も困るだろうし辛いだろうと思いますね。

 馳==おっしゃる通りですね。

 

 ■教職の高邁で崇高な使命に誇りを持とう

 学習指導要領が改訂されますが、最近の文教行政への思いを教えてください。

 義家==批判も耳にしますが、改訂内容を見る限り前に進んでいると考えてます。 ただ問題は、進んでいるのは過去の遺産があったからこそ前に進んだのであって、これからさらに進めなければ意味がない。 政治状況が混沌としているとは思いますが、学校の資源は先生なんですよ。 その真っ当な教師を守ることが何よりも問われていることだと思う。 手当の拠出など組合の激しい反対に晒された主任教員制度を見直し主幹教員がスタートしました。 が、財務省が予算化に首を縦に振らないでしょう。 だから、とりあえず千人配置されたけれども次年度以降は主幹を置ける地域と置きたくても置けない地域がでてくるかもしれません。 私たち政治家はこうした財政面の裏打ちについてもしっかり現場をバックアップしたいと考えているのです。

 馳==私が奮起をうながしたいのは現場教員もさることながら、これからは地方議会の議員にも頑張ってほしいと思っています。 教育基本法が全面改正されました。 学習指導要領も改訂されます。 教育振興基本計画もこれから現実になっていきます。 繰り返しになりますが、これは大改革なのです。 安倍政権があれだけ頑張って大転換を成し遂げたのです。 中曽根内閣でも教育改革が掲げられ臨教審が頑張りましたが教育基本法の改正は触らせてすら貰えなかったのです。 戦後60年の教育界のなかで画期的な出来事なのです。 生煮えのところはあるかもしれないが確実に前に進んでいるのです。

 それを現場まで浸透させる意味で何が大事か。 やはり地方議会の奮起だと思う。 教育を議題に掲げ、きちんと論戦を戦う。 地方分権の名の下に教育が蔑ろにされていないか。 栄養教諭は配置されているか。 図書にきちんと予算が確保されているか。 特別支援教育のための予算化は大丈夫か。 地域の学校は学力面で不安はないのか。 偏向教育が横行したり学習指導要領が無視されていないか…など確かめる必要がある論点は無数にあると思うのですね。

 それから、もうひとつ。 教職員について国がやるべきこととして免許更新制を充実させないといけない。 こう思ってます。 教員は養成→採用→研修→免許更新という一つ一つの段階をもう一度洗い直す必要があるでしょう。 この四つの段階をバラバラの政策として取り組むのではなく、一体として捉える。 従って研修の中身や更新制の研修も中身が厳しく問われなければいけないと考えています。

 教職員の資質やスキルを上げていく、平たくいえば教師一人一人が魅力のあふれる人材になって欲しい、子供達が 「ねえねえ」 と集まってくる人材になって欲しい。 そのための教員養成は如何にあるべきか。 採用をどう充実したものにし、研修を如何に豊かな内容を備えるようにするか。 免許更新制で豊かな人材をそろえるためのふさわしい内容をどう構築するかなどやらなければいけないことが沢山あると思うのです。

 義家==同感ですね。 大学の教育学部なんてスキル指導は皆無に近いし、左翼教師の巣窟みたいになっている。 免許更新制で随分養成指導も変わるでしょうし、横浜もそうですけれど、教師塾を作って今までのように大学の教育学部におんぶにだっこではなく、良質な教員を自分達で育てて行こうという動きも教育委員会で広がっています。

 これらは教育システムの再構築と言えます。 政治が一生懸命取り組む課題でしょう。 しかし、私は何としても教師の皆さんに教員であるという誇りを取り戻して欲しい、こう願っています。 自分は高邁で崇高な営みに従事しているのだという誇りを持って教壇に立って欲しい。 先生達が胸を張って子供と向き合って欲しい。 教師が下を向いているのでは如何にシステムや指導要領が良くなっても良い教育は実現できないのです。 生きる力というのは選択する力だと私は思う。 選択肢を子供達に保証することはとても大事だと思うのです。 普通の学校、まともな学校を一日も早く取り戻すことが大事ですが、教師が自信を持ち、子供達が安心して頼れる学校になって行くこと。 これが教育再生の第二章だと考えているのです。


正論 6

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  出版社: 扶桑社
  発行間隔:月刊
  雑誌コード:05531

参議院議員 義家 弘介氏 (よしいえ ひろゆき)

昭和46(1971)年、長野市生まれ。

高校2年生の時に暴力事件で放校処分となり、親から勘当。

不登校生徒を集めた北海道の高校に編入し、一念発起の末、明治学院大学法学部に入学。

卒業後は母校の高校で教鞭を執る。

ヤンキー先生の名で知られ、その足跡はドラマ「ヤンキー母校に帰る」やドキュメンタリー番組でも取り上げられた。

平成15年横浜市教育委員会教育委員に。

安倍内閣の教育再生会議では再生会議室長となった。

昨年の参院選に出馬し初当選。

教育再生実現に奔走中。


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