「サンデー毎日」 2001 1.21 新春号
ピリ辛の男が語る
17歳のころのオレは・・・

国語教師になるためレスリングを
 

 星稜高校進学コース。私立文系のクラスだった。担任は人なつっこい笑顔の数学の表先生。得意な教科じゃなかったし、今となっては何を習ったかは覚えていないけど、普段はべらんめぇ調で生徒としゃべるのに、授業となると急に俺たちに敬語を使うので面くらったなぁ。

「ハイ、馳君。この問題を解いてみて下さい」

 大人から敬語を使って話し掛けられたことってなかったから、表先生の授業には大人の態度で臨まなきゃいけない、なんて友達と話してた。

 進学は、親父から「お好きなように」と任されていた。でも「好きなように」と言われても、親父は小さなリンゴ屋を営みながら内職もしていて夜中までムリして働いていたので、国立で地元にある金沢大学に行くか、レスリングをやっていたので日本一になってスポーツ推薦で東京の私大に進むかのどちらかだと考えていた。スポーツ推薦なら特待生として入学もラクだし、授業料もいらないしね。

 だから、高校の国語の先生になると心に決めていた俺は、まず大学に行くため、とにかくレスリングで日本一になろう、そればかり考えていた。

 弁当はいつも親父が作ってくれた。一食に5合食べるので、でっかい弁当箱二つにご飯を詰めこんで、ヒザで上から押さえていた。おコメの密度が高いからハシだと折れてしまうので、スプーンで、まるでブロックを切るようにして食べていた。

 おふくろは専売公社で働いていて、俺が朝から晩まで練習ばっかりしてるので、「変わってるわねぇ」と呆れていた。でも、俺がいっぱいメシを食うのをいつも楽しみに眺めていて、「ヒロシが大きくなったら早くラクさせてもらうために稼がなきゃ」と残業して働いていた。

 当時石川県にレスリング部は星稜高の一校しかなく、ライバルとの闘いは北信越大会ぐらい。俺より強いやつに勝つために、学校のトレーニングでは飽き足らず、金沢市内のジムに、夜7時から10時まで通っていた。

 寺町4丁目でバスを降り、うどん屋「加登長」でいなりうどんを一杯すすり、コーチの待つジムに向かうのが楽しみだった。練習が終わると、大衆食堂「青柳」でコーチにご飯を食べさせてもらい、帰宅するのは午後11時すぎ。家と、学校と、ジムの3ヵ所しかなかった。

 コーチたちは全国大会があると、会場の宮崎や和歌山まで応援に来てくれて、自分の子どものように情熱を傾けてくれた。期待されている、いつも見ていてもらえる、という安心感が、揺れる17歳の俺の不安定な気持ちを支えてくれていた。

 自分は何にもできない、ただのカの強い大男でしかないと思っていたけど、安心してそのエネルギーを発散し、ぶつけられるコーチがいたおかげで、今日の俺があると思う。

 ただ、恋愛のれの字もなかった。もちろん彼女もいなかった。そう考えると、ちょっとさみしい17歳だったかもね。 


馳浩 in Mediaメニューへ戻る



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