馳浩の快刀乱筆

 プライバシーか文学か? 

 作者との信頼関係こそ 

平成11年6月27日富山新聞掲載


 

 意外な判決が出た、と私は思っている。

 作家・柳美里さんの初めての長編小説『石に泳ぐ魚』(「新潮」94年9月号掲載)で、モデルとされた人物の顔の障害などの描写をめぐって、名誉毀損やプライバシー侵害の違法性が争われていた裁判は、6月22日、東京地裁でモデル側のほぼ全面勝訴の判決が出た。これで今後、作品の出版と放送、映画化などが全面的に禁じられる。また被告は130万円の損害賠償を求められた。

 私小説のモデルのプライバシーか、文学上の表現の自由か、ということで注目を集めていた裁判だが、プライバシーの重さが勝った。『文学表現であっても時には不法行為が成立しうることが明確になった』と原告側の弁護士はいう。柳さんの表現力が法的に否定された意味は大きい。

 日本文学において『私小説』のジャンルが定着していることを考えると、今回の判決は関係者に一石を投じたことになる。なぜこうなったのか?

 私小説の最たるものは日記文学。また、島崎藤村『破戒』、夏目漱石『道草』など名作は多い。身近に小説の題材を求める以上、その表現においてどこまでリアリティを追求するか、どこまで虚構を張りめぐらすか、その中でいかに真実を描き出すかによって作家の力量が問われる。柳さんの表現力が稚拙だった、と言ってしまえばみもフタもない。また今回は友人だから訴えられた、と言ってしまえばこれまでの私小説は親兄弟、親族の犠牲の上に成り立ってきただけ、と切って捨てられる。そんな考えでは日本文学の発展はない。

 私は思う。

 私小説はモデルと書き手の信頼関係だ、と。

 とりわけ私小説のテーマは反社会性であったり非日常や性描写や障害者の描写であったりする。心の内面をえぐられるモデルとすれば、作者との信頼関係においてしかプライバシーを守る術(すべ)はない。柳さんには何を書いても許されるという『甘え』がなかっただろうか?さらなる精進を期待して一句。 

 

私小説 何を書いても 梅雨の空
 

エッセイスト・小矢部市出身

 
INDEX