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馳浩の快刀乱筆
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日本国内で二例目の脳死移植手術が行われた。法律ができてまだ二年。その背景を深く考えてみたい。臓器提供する患者は、自らの意思表示を生前にしておかねばならない。同時に家族の同意が必要。私はドナーカードに「使えるものは何でも提供」との意志を書き込んだが、妻は今でも同意のサインをしてくれない。
「あなたは良くても私は嫌」
「どうしてだ!俺の臓器や角膜で何人かが助かるならば本望じゃないか。死してなお人様のお役に立つことのどこが嫌なんだ!」
「死んでまでからだが切りきざまれるなんて、嫌。いやなの!」
ここにおいて夫婦の意見に接点は見出せない。理屈ではない。感情として、信念として嫌だと言い張る彼女に私は説得のすべもない。だって彼女は「この法律で多くの苦しんでいる患者さんが助かることはいいことね。でも私はあなたの体が死んでまで切りきざまれてバラバラにされるのが嫌なの」と言い張るのだ。他人で、やりたい人がやるのなら良いけど、私は嫌だというのだ。
私は改めて「死」について考えている。それも「家族と死」について。
今回の脳死移植を了解した患者さんは当然家族の同意を得ていた。そのプロセスにおいて家族内でどんなかっとうがあったか、どんな合意かあったのか。知るよしもないが、私は知りたい。「死」が深く心の内面に入り込んで、どんな人生観、家族観を形成するに至ったか。
なぜなら「死」を哲学することは「生きる」ことを哲学することに直結するからだ。そして「死」は突然わが身にふりかかる。誰もさけて通ることのできない道。
私は今回手術を担当した医師の心中も知りたい。脳神経外科医として救命の使命を持ちながらも脳死を判定し、移植手術にたずさわった医師の心中を。無念か。あるいは医師の正義か。
法律はどこまで心の中に入り込めるのだろう・・・問題提起の一句を。
エッセイスト・小矢部市出身
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