kintetsu News  2006.8.1


歴史街道 人間往来 第50回 

 馳浩さんが語る「額田王(ぬかたのおおきみ)」の第3回。額田王が生きたのは、古代日本の進路を決めることになった動乱の時代。その歌の背景には、兄弟だった2人のキーパーソンが織りなす愛憎と権力のドラマがありました。その構図は、時々刻々と変化する平成日本の政界にも見い出せると馳さんは語ります。

 

額田王(3)  争いのただ中で

 古典をどう読むか

 672年、壬申(じんしん)の乱が起きた。
 天智天皇の後継者をめぐる内乱であった。

 同母弟の大海人(おおあま)皇子を皇太子に立てていた天智天皇は、自身の息子である大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思をみせた。その後、大海人皇子は大友皇子を皇太子に推挙し、自らは出家を申し出て吉野宮に下った。天智天皇はこれを受け入れた。そして672年、近江宮において天智天皇が46歳で亡くなり、大友皇子が跡を継いだ。年齢は、まだ29歳。

 ところがその半年後、大海人皇子は決然と吉野を出立し、美濃に逃れ、兵を興し、反乱を企て、大和と近江宮に攻め入ることになる。

 およそ2か月の戦乱。最終的に瀬田橋(滋賀県大津市)で近江朝廷軍が大敗すると、翌日大友皇子が自決し、壬申の乱はなんと反乱軍の勝利に終わった。翌673年2月、大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)に遷都し、天武天皇として即位した。

 この壮大な歴史ドラマの裏側に潜むエネルギーとは何だったのか。同母兄弟の不和の原因は何だったかを考察するに、そこに人情と愛憎の機微を感じないではいられない。

 現在の永田町に例えれば、小泉後継を争う安倍晋三、福田康夫の跡目争いをあてはめてみるとおもしろいだろう。
 天智天皇=小泉純一郎
 大友皇子=安倍晋三
 大海人皇子(天武天皇)=福田康夫
 額田王=森喜朗
 ……という設定だ!

 

 “兄弟”の確執

 同じ派閥の兄弟分だった小泉と福田。
 しかし、急進的な改革路線に嫌気がさした福田は、後継と有力視されていた官房長官の職をあっさりと辞し、世論の注目を避けて野に下る。小泉路線は郵政改革を成し遂げるも、中国や韓国との外交関係をそこない、政権にヒビ割れを生じてしまう。表向きは外交問題がひきがねとなるのだが、その根底には小泉と福田の葛藤が。それに乗じて改革への不満を抱えた抵抗勢力や民衆の不満が爆発し、壬申の乱のように反乱の戦となる。

 どうだろう、この見立ては。

 天智天皇が近江宮に遷都(せんと)したこと(改革の)が、豪族(抵抗勢力)や民衆(地方)に負担を与え、白村江の戦いでの大敗(外交での失敗)はその不満に火をつけることになったのと似ていないだろうか。

 この戦はまた、飛鳥時代に多発した皇位継承紛争の一つとも見られる。

 天智天皇は旧来の同母兄弟(ちゃくし)間で皇位継承していた慣例を打ち破り、嫡子相続制(すなわち大友皇子への継承)の導入をはかった。これでは、当然、同母弟の大海人皇子やそのとりまきはおもしろくない。この観点など、まさしく自民党的派閥論理そのものだ。

 同じ派閥の流れでありながら、有資格者の福田康夫(大海人皇子)をとびこして一気に安倍晋三(大友皇子)に後継総理の座を指名されては、そりゃ、福田さんも派閥内における立場がないし、おもしろくない。

 

 争いの焦点

 もっと下世話な琴線に触れる話をするとすれば、額田王をめぐる三角関係だ。万葉集には額田王のこういう歌がある。

  あかねさす 紫野行き しめの行き 野守は見ずや 君が袖ふる
  (紫草の生える標野を行きながら、私に向かって袖を振ったら、野の番人に見られますよ)

  これに答えて、大海人皇子が応じる。

  紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 我恋ひめやも
  (紫草のように美しい人よ、憎かったら、人妻相手に、恋い慕うようなまねはしないよ)

 まさしく、兄に奪われてしまった愛妻を慕う、愛憎うずまく解釈のできるやりとり。

  このやりとりは宴会の席で詠まれた周知の事実の相聞歌であり、どう少なく見積もっても額田王は40歳すぎ。永年の三角関係のもつれが噴出したきっかけが額田王だとすると、額田王=森喜朗説もあながち的外れではないような気がするのである。

 ことさら権力に敏感な森前総理の立ち居ふるまいを間近に拝見していると、宮廷歌人でありながらも権力者のスポークスマンを引き受けたり裏舞台を和歌というマスコミ手法で世論に訴えていた額田王は、やっぱりただ者ではないのである。

 壬申の乱は、反乱軍が勝った。現代の大友皇子=安倍晋三がそうやすやすとやられるワケがないと、安倍応援団の私としてはそう思いたいのだが、
 歴史は繰り返す?
 いや、世代交替が新たな歴史をつくる?

 そのいずれものカギを握っているのが額田王=森喜朗だとすれば、マスコミ諸氏はもう一度額田王の歌を総ざらいしなければなるまい。それも、飛鳥を近鉄沿線各駅停車に乗って現地を訪れながら……。               (了)


 奈良県立万葉文化館=橿原神宮前駅→奈交パス万葉文化館西口下車
 飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)伝承地=橿原神宮前駅→奈交バス岡天理教下車

 明日香村の奈良県立万葉文化館では、額田王の面影を今に伝える万葉集を中心に、当時の文化について見学することができる。

 

◆額田王(ぬかたのおおきみ)(7世紀)

 万葉集の初期を彩る名歌で知られる女性。「日本書紀」には、鏡王の娘で大海人皇子(後の天武天皇)に嫁して、十市皇女を生み、その後皇子の兄である天智天皇に召されたと伝えられる。その生涯について詳しい記録は残っていないが、「万葉集」が伝える「あかねさす……」にはじまる大海人皇子との歌のやり取りは、「相聞歌」でなく「雑歌」に含まれるところから宴席での座興と考えられるものの、後世の想像力をかきたてた。




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