JINJIN」 1999 秋号(創刊号年4回刊
人生をバージョンアップするための情報誌
 巻頭 インタビュー 
自分に妥協してのギブアップだけはしたくない

一時は、高校の国語教師として生涯を郷土の北陸で送る決心を固めた。
ロス五輪出場をきっかけに自分の肉体の限界をきわめてみたい、とあえて選んだプロレス。
そして文字どおりゼロからの出発となった政治家への道。
いつ、いかなるときでも妥協をせず、自らの強靭な意志と肉体で運命を切り開いていった闘う男、馳浩にその不屈の精神を聞いた。

 

 政治をやるのも、リングに上がるのも自分の夢に忠実でいたいから

 「出馬を勧められたときは、ぜひやらせてくれと即答。自分のやりたいことが見つかったとき、ポンと肩を叩かれたんだから。オリンピックのときもプロレス転向のときもそうだけど、人生の転機には必ずチャンスが巡ってくるんだ」

 高校教師、プロレスラー、政治家、それに大学の客員教師、文筆家、ラジオのパーソナリティ等々・・・。馳浩がこれまでに経験してきた職業は数多い。元国語教師ということで、プロレスラー時代は異色な存在だった。もちろん今もプロレスラー現役。昼間は国会、夜はリングという日も少なくない。

 大学を卒業後、わずか14年ほどの間に大きな転身が二度。はたから見ていると、なんとまたそこまで畑違いの場所に、と思うかもしれない。だが、彼自身にしてみれば、教員になるのも、プロレスラーになるのも、政治家になるのも最終目的じゃない。自分を表現するため、気持ちを伝えるため、夢をかなえるための手段の一つ。波乱万丈の人生を「自然の流れ」と、あっさり片づける。

 キーワードは一貫して『教育』。「教師をやめておきながら、教育というのはおかしいんじゃないかという指摘があるかもしれないけど、プロレスでは、日本人のよさを肉体的に表現したり、子どもたちに、彼らが普段抑えつけられている”人間が本来持っている本能”を教えてあげたかった。国会議員になった今は、日本の教育システムを改善したい。これは、一介の教員が現場で頑張っても駄目なことだからね」

 理論派、けっこう饒舌、天に抜けるような明るさを持つ人である。終始笑顔で、言葉をかみしめるように語ってくれる。こんなたくましい体躯をしていなかったら、とてもプロレスラーとは思えない。

「そう、プロレスをやる以上は誰も国会議員と思わないような体をつくるし、リングの上ではこんな傍若無人な男はいないというぐらい暴れる。また逆に国会で仕事をしているときは、誰もプロレスラーとは思わない・・・。そうなるのが理想だね」

 

 スポーツも文学も、たまたま両方が好きでこうなった

 能登半島の付け根、富山県小矢部市生まれ。農家の三男として生まれたが、小学校3年のとき、石川県金沢市に住んでいた親戚の養子になった。中学時代は相撲部に入り、町の剣道場にも通った。本好きだった子ども時代。将来は国語の先生になりたいと夢を抱いていた文学少年だった。

 中学校では生徒会長、高校でも学級委員を務めるリーダータイプ。どちらかというと穏和な性格だったため、逆に激しいスポーツがやりたいという面があったという。進学した星稜高校には相撲部がなかったので、同じ格闘技であるレスリングを選んだ。

「私の場合、いつもあこがれの対象があって、イメージがどんどんふくらんでいくんですよ。相撲をやっていたときは地元出身の力士、輪島にあこがれていた。プロレスを好きになったのはテレビで見たジャイアント馬場さんの影響。文学の世界にひかれていったのは、中学のとき国語担当の素敵な女性教師に巡り合ったから」

 その人の素晴らしいところ、いいところを見ながら、じゃあ自分は何ができるかと考える。「そういうことって大事だと思うよ。だって、私と同じように、その国語の先生に習っている生徒はたくさんいるし、馬場さんのファンもたくさんいる。輪島を尊敬する郷里の人もたくさんいる。ただ、そこで受けた感動や想いを、いかにモチベーションとして自分の人生に反映できるかという発想が大切。私には肉体的な才能や文学的才能はなかったと思う。これは間違いなく。ただ、自分の能力をいかに表現できるかということを判断する、プロデュースする才能はもしかしたらあったかもしれない」

 高校卒業後はレスリングの名門でもある専修大学へ進学。文学部国文科に学ぶ。レスリング部の練習は午前6時半からの2時間と、講義後の午後4時からの3時間と厳しい。レスリングと勉強を両立させるために毎日必死だった。時間をみつけては図書館で古典文学の全集を片っ端から読みあさる一方、レスリング部の合宿で地方に行ったときも、『伊勢物語』や『源氏物語』は必ず持っていった。

「もともと古典は苦手だったけれども、大学でのゼミではあえて古典を選んだ。古典もできなきゃ国語の教師になれないし、だったらあえて一番苦手なものを専攻しようと。だって、好きなものならほっといても勉強するでしょう。苦手なものは、やっぱり強制的に自分を追い込んでいかないと勉強しない。食わず嫌いということもあるしね」

 おかげで、古典の面白さをたっぷりと知ることができた。一時は大学院に行こうかとも思ったそうだ。「でもそれじゃ研究する人になってしまう。そうじゃなく、古典を語る人になりたいと思って教師になった。ただ、文法を教えるんじゃなく、作品の背景や風土、作者の生き方、ものの考え方などを語り伝えたいと思った」

 

 プロレスラーは究極の選択。
教員免許は生涯のものだけど、リングに上がれるのは今しかない

 大学4年のとき、90キロ級グレコローマンの学生チャンピオンになり、その勲章を引っ提げ、卒業後は、母校である石川県の星稜高校に国語の教師として赴任した。子どもの頃からの夢をかなえたわけだ。

 ところが、レスリングでオリンピックの代表選手になったことで、また人生が大きく動いていく。1984年のことである。「それまでは勝つため、強くなるためだけにトレーニングをしてきたし、強くなることがスポーツだと思っていた。それが、オリンピックという大きな舞台での戦いを経験してみたら、今までの考えとはまったく別のスポーツというもののあり方に出会ったような思いがしたんです」

 オリンピックは多くのマスコミが注目して報道し、トップレベルの選手を身近な存在として感じさせてくれる。子どもたちをはじめ、世界中の人々に瞬時にして感動を運んできてくれる。自分がとても経験することのできない人生を見せてくれる。そして、五輪の開会式で10万人の観客の歓呼に包まれたときの感動−−。

 結果は予選敗退だったが、そのときの興奮を残したまま、金沢に帰り教職へ戻った。だが、オリンピックで感じたものをもっと見極めたいという思いは日増しに強くなっていく。「生徒たちを教えるのは楽しかったけれども、何かもの足りなさを感じて教師生活に満足できなかった。オリンピックで感じたものをもっと見極めたい、もっと広い世界で自分を勝負させたいという気持ちが日に日に強くなっていってね」

 これは出場した人間にしかわからないだろうな、と彼は言う。「オリンピックは魔物。一度ああいう華やかな舞台に立っちゃうと、どうしてもたくさんの人に見てもらいたくなってね。アマチュアが活躍できるオリンピックは4年に一度しかないし、厳しい練習をしているのにもかかわらず、それを表現できる機会が少ない。もちろん、アマとプロとでは、ルールと目的が違うだけで、どちらも自分の能力を発揮するということには変わりないよ。ただ、お客さんに訴えかけるという点では、プロのほうがはるかに影響力が大きいと考えたんだ」

 同僚や友人は賛成してくれた。結婚して家庭を持ってからでは、なかなかできることではない。それなら今が決断のときじゃないか。あとは君の判断次第じゃないかと。だが、華麗な転身とはいいがたい。親は自分を頼りにしているし、世間体もある。教師という安定した職業を捨て、未知の世界に飛び込んで、はたしてうまくいくのか−。現状肯定のための条件を並べて自分を納得させようとすればするほど、得心できなかった。

 決めたらもう揺るがなかった。あとは実行に移すだけ

 迷いの日々が続いていたころ、冬休みを利用してアメリカに渡る機会があった。知人のはからいでアメリカで高校生にレスリングを教えたときのことだ。自分が投げ飛ばした当の高校生たちが、試合後、日本の生徒と同様に、うれしがって体に触れようと寄ってくるのに驚いた。「フィーリング・グッド」な気持ち。そのときの自分を彼はそう表現する。
「つまり、自ら進んで何かを成し遂げて、それで得られる満足感。ああ、俺が欲しかったのはこの感じだって思った」

 それが転身の決意となった。教壇に立つだけが教師じゃない。プロレスラーでありながら教師もできるんじゃないか。そんな自分にしかできない挑戦も面白いのではないかと考えた。こうして元国語教師の異色プロレスラーが誕生したのである。
「教壇にも立ちたい、でもレスリングでオリンピック選手になった実力をプロの世界でも試してみたい。この二者択一を迫られたとき、若い体でしかできない職業を選択しただけのこと。やっぱり、オリンピックでわかったのは、世界は広いんだということ。いろんな民族、芸能、宗教、文化があって、けれども、人の心というのはある意味で共通するものがあるんだということを感じた。私なりに『肉体言語』というふうにとらえて。ああ俺にもできると。むしろ俺ならできるはずだと思った。半分思い上がりで半分自信もあったし」

 

 再びゼロからの出発

 二度目の大きな転機を迎えたのは95年。馳浩は再び神から啓示されたかのごとく、突如として別世界の住人となる。

 4年前、たまたま北朝鮮へ行き、いろいろな人々と話をする機会があった。
「そのとき漠然とひらめいたのは、絶対に日本は北朝鮮と国交の正常化をしなくてはいけないということ。彼らは政治の中で日本を、日本人を大変憎んではいるけれども、日本人に対して尊敬の念は持っているからね」

 もともと北朝鮮にとても興味があったという。同じアジアの民族で隣の国、にもかかわらず社会体制がまったく違う。自由と民主主義の日本と、全体主義、労働党一党、独裁の国。根本的な思想の違いがある。その思想の違いは教育に関係してくるはずだと思った。
「とにかく、何かやりたいと思った。でも仮に教育といったって、ハングルを話せるわけでもない。それを考えたら、やっぱりスポーツしかないだろうな。スポーツの指導者となって向こうへ行ってみようかとか。そういう民間外交という形でお付き合いしたいなあ、というのはあったよ。といっても、まさか政治とはまったく結びついていなかったけど」

 ちょうどそのころ「参議院選に出てみないか」という話があった。不思議な運だった。即決断。
「一瞬であれ、判断に至るまでには人間として積み重ねがあるわけでしょう。今までに自分が何をやってきて、何を蓄積し、どういう人間関係を培ってきたのかという。その確認を常日頃からしていたから判断に時間はかからなかった」

 

 一からやり直すことが苦にならない性格だから、今の状況を楽しめるんだろうね

 とはいえ、プロレスラーとは180度違う生活。日々会議、会議の連続、接客、政治家としての勉強も山ほどある。ある程度覚悟はしていたが、とにかく想像を絶する忙しさである。しかも、週末は時間の許すかぎり地元選挙区・金沢へ戻る。
「石川県民の代表だから、それは何事にも使命感に燃えて取り組んでいる。県内をこまめに回り、皆さんの意見を聞く。取材ですよ。まさしく取材活動。基本姿勢は、県民を知り、地域を知るということだからね。声にせき立てられるよりも、新年会に出たり、選挙の応援をしたり、自分の足で話を聞いて回ったほうがよっぽど情報収集できる。何事も情熱でぶつかっていかないと」

 だが、疲れた顔は少しも見せない。この取材の日も、朝一番の飛行機で東京へ着いたばかり。「それでは、奥さんやお子さんともすれ違いが多いのでは」とたずねると、
「週末家にいないことで、女房の『つまんな−い』という声もずいぶん聞いているけれども。でも、女房が仕事のときには、仕事の合間にベビーシッターもちゃんとやっているよ」 と笑う。事務所の中にはどう見ても不釣り合いな大きなぬいぐるみが二つ。
「生活のリズムも、前とはまったく違うけど、ぜんぜん大変じゃない。それは一貫した目的と信念があるから。誰かにやれと言われてやっているんじゃない。自分で選んだ道。だったら、24時間をどう使うか。忙しいから何ができないという言い訳はよくない。だって、どんなに忙しくたって、おなかがすいたら食事をするだろうし、風呂に入りたいと思ったら入るだろうし。時間はつくろうと思えばつくれるものだと思う」

 プロレスは時間の都合で合同練習には参加できないため、毎日早朝か深夜に一人で練習している。会議の合間を縫って国会のトレーニングセンターヘ通う。

 一度、プロレスをやめようと思ったこともある。
「やっぱり両立は大変だろうと思った。まわりからはやめろやめろの大合唱ですよ。でも、もともとそんなのはあんまり聞く耳持たないほうだから。自分にとってプロレスはやっぱり譲れないもの。小学生のころから、剣道、相撲、アマチュアレスリング、プロレスと、ずっとスポーツを生活の一部として続けてきたからね。スポーツを通じた友人関係、体力、精神力があったおかげで、ここまで成長することができた。限られた条件の中で目標をはっきり持ち、それを遂行することに情熱を傾けることこそパワーのもと。二足のわらじ、文武両道、いろいろ言われるけれども、いつまでも”自分の眼界に挑戦する”姿をアピールしていきたい」

 固定観念を裏切ることから21世紀の日本が始まる

 国会議員というだけで、固定観念で人格を決めつけられたり文句を言われたり敬遠されたりすることが多々ある。
「日本の経済はこういうもんだという固定観念、プロレスラーはこうだという固定観念、政治家はこうあるべきだという固定観念にみんな振り回されすぎていると思う。氾濫するマスコミの情報が判断基準になっている。固定観念とは自分自身で見て、聞いて、判断したものを自分でつくり上げていくものだ。だから私は、いまある固定観念を裏切っていく。期待はかけられたかぎり裏切らない。責任としてね」

 プロスポーツマンであり、何事にも妥協を許さない政治家。なるほど、格好いいですね、と言うと、
「カッコいい政治家がいるのはいいことだよ。俺もああいうふうになりたいなという人が出てきてほしい」と白い歯を見せた。

 政治家・馳浩が今取り組んでいるのは環境ホルモン問題、ダイオキシン対策の法案作り、ODA基本法作りなど。教育改革では、授業にボランティアを取り入れることと、チームティーチング。
「阪神大震災で日本人のボランティア精神が見直された。偏差値社会、個性のない時代といわれる現代にこそ、ボランティアは必要だと思う。人のために自主的に行動する、自分の行動に評価を求めない、しんの強い子を育てる教育をしてほしい。ボランティア精神が宿るところに、いじめの心は育たない。子どもだけでなく、すべての人の心にボランティア精神が宿るような政策を考えていきたいね。チームティーチングはまさに私の体験に基づくこと。現場の先生は誰でも一人じゃ大変だなあと思っている。教師って思っているよりずっと忙しい。だからクラスを一人で面倒みるよりも、複数の先生が足りないところを補い合いながらも、複数で見たほうがいい。それに自分の教育が正しいのか正しくないのか確認作業もできる。だから絶対必要だと思う」

 教育の話になるととりわけ熱が入る。
「男としてやりがいのある仕事だよ。教育問題にしても、言うだけじゃなく、我々は言ったことを実現できるんだから。もちろん、何事も一朝一夕にはいかないけれど、この国の針路に携わっているという緊張感と楽しみがあるよ」

 ホームページの『馳日記』には、こうした彼自身の政治観、人生観が”馳流”で盛り込まれている。過激発言も少なくない。
「発言することで波紋を投げかけたり、批判を受けたり。私はそれでいいと思う。その刺激で自分を推し量りながら、自分を広げていけばいいと思っているから」

 1日に20通余りのメールが届く。地方議会の人からの意見、大学院生からの質問、政策についての提言、ときには人妻からの恋の相談もあるとか。時間の許すかぎり返事は書く。必死になって書いてくれた、真心のこもった手紙に一方通行はないと、思いやりのある几帳面な一面。

 最後に一言。表情がどんどん変わってきていますね。以前よりセクシーになったと言われませんか?と聞くと、
「こんなもんじゃないよ。もっともっとカッコよくなっていくよ。まだ37歳だからね」と言ってニヤリと微笑んだ。

  

 

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