学術文化・都市と産業のオピニオン誌  金沢発・季刊ジャーナル

 都  2006.7.20 16
国会での継続審議が決まった教育基本法の改正、中核市への権限委譲問題など、
いま日本の教育行政は、大きな課題に直面している。

文部科学大臣政務官を経て、文部科学副大臣に就任し、変革の過渡期にさしかかっている国の教育行政の中枢を担う馳浩氏が、漂流する日本の教育問題、「學都・金沢」の将来あるべき姿などについて熱く語った。
「熱血副大臣の教育論」を紹介する−。
取材・構成/広本加奈恵

 

熱血副大臣の教育論 文部科学副大臣・馳浩氏が語る】 

高度経済成長で失った「心のゆとり」

――今日の青少年、教育現場の諸問題について、どう感じているか。

 教育行政は、積み重ねだと思っている。幼児教育から義務教育、高等教育に至るまでのベースの部分で、子どもとの関わり方が十分になされていないと感じている。政治の現場の議論、官僚、地域の教育力などを見ていると、それぞれ素晴らしい資質を持っているはずなのに、生かしきれていないという印象を受ける。私は、日本人一人ひとりの教育力は高く、自立心も意欲も持っていると考えている。だが、連帯的に絡み合っていないとも感じている。能力、学力が高く、規範意識もある日本人が、国全体の中でその力を十分に発揮できているかというと決してそうではない。 

――戦後の日本の教育をどう見るか。

 現代社会の働き盛りが四十代、五十代とすると、戦後教育の真っ只中で育った世代が、今日の社会の中核を成すようになった。高度経済成長期に子ども時代を過ごした世代である。では、当時の家庭環境や学校はどうだったか−。

 彼らの親の世代は、敗戦のショックから立ち直るために、働くこと、収入を得てより良い暮らしをすることに生きがいを求めた。父親は、休日も惜しんで働き、多くの母親は、女性の社会進出の機運の高まりとは裏腹に、家事と育児を押し付けられ、なかなか家に帰らない父親に対する愚痴やはけ口を、なんとなく子どもに向けてきたのではないか。夢の一軒家を手に入れ、理想的な暮らしを得るために働き続ける一方で、肝心な「心のゆとり」や「潤い」、「感動する心」を、いつの間にか失っていったとも考えられる。

 高度経済成長は日本の教育力の高さを示す一つの象徴だったかもしれない。だが、「家族」が価値観の基軸にならなかったことも事実である。いつしか日本の子どもたちは、「社会が悪い」という責任転嫁論を聞かされ、世の中を批判的に見たり、斜めに見たりするようになり、マイナス思考になっていった。そんな時代を生きてきた今の四十代、五十代の中核的世代が、日本をどうリードしていくのか不断に問い質す必要がある。

 

本と恩師との出会いが、自分の成長の糧となった

――ご自身もちょうど四十代半ば。半生を振り返ると?

 私は、農家の三男坊に生まれたが、少年時代から読書を通じて夢や野望を見出すことができたと考えている。

 これまでいろいろな本を読んできたが、その時々で自分の考え方や生き方を築くことができた。それから、忘れてはならないのが恩師の存在である。
 誰にも、一人や二人、影響を受けた恩師がいるだろう。私の場合、小学校から大学まで、良い先生と巡り会えたと思っている。私が出会った先生方は、授業の合間などに自分の趣味や生きがいの話をしてくれ、ずいぶん憧れたものである。

 私は子どものころから、先生という存在に対して、「先生になるほどの人なのだから、ただ者じゃないだろう。学問も努力も哲学も持つ人だろう」と思っていたし、言い方はおかしいが、先生を自分の成長に利用しようと考えていた。

 

集約した意見では見えない 中核市への権限委譲問題

――では、文部科学副大臣という教育行政の中枢の立場で、今日の日本の教育の現場、教育行政の問題について、どの点に着目するのか。国としていかに対処すべきと考えるのか。

 自分なりに考えていたことが、ことごとく実現の端緒につき、この時期に文部科学副大臣を務めさせていただいたのは、良い巡り合わせだったと思っている。

 私は、教職員の給与体系を大卒の一般行政職と同じにすべきだと考えている。給与は、勤務評定や働きに応じて上乗せし、優れた教員は処遇を改善し、名誉的な賞を与えてしかるべきだと考えている。
 教員が自分の生活に不安を覚えるようでは、良い教育は実現できないだろう。基本的には、クビにならないというのが一番の優遇策だと思っているが、そのためには学校評価と教員評価、自己評価と外部評価も必要である。

 大前提として、教育現場を密室化してはならない。個人情報保護法とのバランスを保ちながらも、学校はできるだけオープンにしていかなければならない。教授権は、現場の教員に任されている。教員は、どうすれば教科書、教材の内容をよりわかりやすく教えられるか、より効率的な時間内で教えられるか、という点でテクニックを磨き続けなければならない。

 だが、最も大切なのは「何のために勉強するのか」という本質的な部分を、子どもたちに気づかせることである。この「気づきのヒント」を与え続けることが教員の一番の使命であるはずだ。「勉強して何になるのか」「なぜ勉強するのか」、子どもたちがその意味を自分自身で見つけられるよう、手助けするのが教員の仕事であると確信している。

 義務教育である小中学校は、税金で運営されている。国民の税金によって、子どもたちがどれだけ成長したのかを把握するためにも、学力調査は必要だろう。しかし、学力調査とともに、子どもたちの意識調査も同時に行わなければならないというのが、私の持論である。
 これは、ランク付けが目的なのではなく、子どもたちの能力を一人ひとり開花させるために必要な手だてだと考えている。教員の教授法、子どもへの接し方、保護者への指導のありかた、教職員のチームワークづくりについて、お互いに情報を共有しなければならないだろう。

 

「何のために学ぶのか」 本質を気づかせることが教員の使命である

――文部科学副大臣としてのこれまでを総括すると?

 予算の要望と財務省との交渉に板ばさみになり、なかなか教育の現場に笑顔を与えることができないもどかしさを感じている。財務省との教育論争は、今後大臣になったとしても、やり続けなければならない大きな課題であろう。

 制度論で強力に推進できたのは、中核市への人事権の委譲問題である。文部科学省が逃げ腰になった時、私は一度釘を刺したことがある。中核市への人事権委譲問題については、全国の都道府県から集約された意見を集めるのではなく、個別の意見と、その理由を聞く必要があると私は主張した。集約された意見では、小さな町の声が教育行政の中枢にまで届かないからだ。

 小さな町になると、県の教育委員会の意向には、なかなか本音を言えないものである。特に過疎地域では、中核市が研修権と人事権を持った場合、教員はより教育環境の良いところ、住環境の良いところを目指しがちであるため、中核市の採用からあぶれた教員しか赴任しないのではないか、という不安がある。

 これを解決するために、広域の人事調整機能を持ち、一割でも二割でも、中核市と都道府県が協議の上、人事を決定できるシステムが必要なのである。中核市が内申だけを上げて、都道府県が決めるのでは問題があるだろう。

 意見の集約は、中教審や文部科学省でできることである。その前に、埋もれている個別の意見を把握しなければならず、六月中に提出するように指示している。

 

大学教授を閉じ込めず 大学の鎖から解き放て

――四高の伝統、歴史、学術 文化がある金沢を、勉学一辺倒ではない人間そのものを磨く 「学都」と仮定した場合、その可能性や具体的な手だてについて、どのように考えるか。

 一つ具体例を挙げるなら、平成十五年に「スーパーサイエンスハイスクール」 の指定校に選ばれた金沢泉丘高校が、大きな成果を挙げたと言えるだろう。スーパーサイエンスハイスクールは、将来の国際的な科学技術系人材の育成を図り、大学と連携した研究やカリキュラムの作成、研究などを推進する文科省の"ヒット商品"である。その指定を受け、金沢泉丘高校は、地域の高等教育に携わる人材を、高等学校の現場に引き出し、一人ひとりの能力をより伸ばそうと試みた。ちなみに平成十七年には、東大合格者数が三倍に増えている。

 こうした数字は一つの象徴に過ぎないが、注目すべきなのは、もともと実力を持っていた金沢泉丘高校の生徒たちが、理数系の面白さに気づき、大学の研究者と関わり、社会貢献にまで目を向けることができたことにある。

 私は、大学教員がもっと有効に活動できる仕組みを作れるのではないかと考えている。兼職禁止といわれるが、国立大学が国立大学法人化した今、教授たちを大学の中に閉じ込めていてはいけない。私学の教授も同様である。

 ナンバースクールの伝統は、ある年代を超えると、必ず心に残っている。そのノスタルジーを新たな発想に変えるなら、大学教授の一人ひとりが街に「私塾」を持ち、ゼミナール方式で社会人や高校生、中学生と関わっていくことで、学問の感動や喜び、発想を生み出していけるのではないかと考えている。その場所を提供し、学ぶ意欲のある人々を支えられる土壌が金沢にはある。

 金沢出身で世界に羽ばたいた人々を、金沢に呼び戻そうという考えもある。しかし私は、それよりも各大学の経営者が、教授たちを大学の鎖から解き放ち、外へ出さなければならないと感じている。

 

學都・金沢の都市力で 教育の「金沢モデル」を

 金沢は、消防団、民謡のイベントなどにおいて、すさまじいエネルギーを発揮し、人が集まる街である。消防団は、どこかで火事があると聞けば、すぐに駆けつけ、金沢市観光会館などで行う民謡のイベントには、いつも一千人近くが集まり、子どもから大人まで踊りや歌に熱中する。この連帯感は、「師匠と弟子」の関係が色濃く残っていることの表れとも言えるだろう。

 このような地域性が残る金沢での教育を「金沢モデル」として全国に発信していけたら良い。現代版の「善隣館」を作るのもいいだろう。福祉や少子化対策にもつながるはずである。

 県庁や市役所の職員には、ぜひ町会長を務めてほしいと思っている。行政マンと県民・市民を区別するのではなく、行政と地域が一体化することが、防犯や防災、少子化、雇用対策に効果を発揮することは間違いない。一言で言えば、大家族のイメージである。これは三世代同居という意味ではなく、地域の人が家族のように付き合える社会を目指すということだ。

 このような地域社会を創るためにも、理論的な裏づけと学問の向上心を持ち続けている大学の教員を大学という鎖から解き放ち、街のあちこちに散らばらせてみたい。国立大学は、今までのように文科省から補助金が降ってくるのを待つ経営ではなく、積極的に外に出て、競争的資金をつかみ、県や市の政策にコミットしなければならない。大学教授の私塾の教室には、学都を象徴する四高の名残り、「石川近代文学館」をぜひ活用してもらいたい。キラリと光る大学教授たちが、さらに輝きを放ち、地域に学びの意欲を喚起させる場所が生まれるはずだ。

 いきなり大学の聴講生になるのは難しいかもしれないが、知的好奇心を満たしてくれる私塾が増えると、市民は、学び直しや再チャレンジする機会を得られる。コーヒーを飲みながら学べるような場所を創出することこそが、金沢らしい教育モデルになるのではないか。マスプロ的な校舎は必要なく、小さな場所でも論じ合える場が街にあり、それが近代文学館であれば、「學都・金沢」らしいのではないだろうか。

 金沢には、市民の学ぶ意欲に応えられる土壌があると私は信じている。




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