今日の学校図書館 

第31回全国学校図書館研究大会(金沢大会)研究集録

私の人生を変えた一冊の本


 私は現職として参議院議員を勤めておりますかたわら、プロレスラーとして先週も日本武道館で試合をしてきたという、毎日が波瀾万丈の生活です。けれども、こういったアカデミックな場所で話をさせていただくのは緊張しています。私に与えられた50分間でいろんな話をさせていただきたいと思います。

 私の人生を変えた一冊の本の話の前に、ここには学校図書館関係の皆さんがたくさんいらっしゃると思いますが、私は改正学校図書館法の参議院からの提出者で、付帯決議の作成等、修正がらみで与野党の協議に携わっておりました。この話もさせていただきます。私の前に肥田美代子先生が話をされました。先生は私が議員になる前から学校図書館法改正に携わってこられた大先輩であります。国会議員はいいかげんだと笑わないで欲しいエピソードなのですが、学校図書館法というのは昭和23年に制定された参議院での議員立法で、大きな論点が第4条でありました。学校図書館には司書教論を置かなければならない。その付則第2項で当分の間置かなくてもよい、この当分の間が44年も続いたというのは、与党の大きな怠慢であると思うのです。大きな理由は人的な予算の問題です。この当分の間を改正点では、平成15年の3月末日までと改正しました。学校図書館には平成15年の4月1日から必ず司書教論を置かなければならない、ただしその司書教論は充て職で、学校図書館の司書教論専任と言うわけではない。本当に要望が多かったのは、専任で置いて欲しい、図書館の充実には専任で置かなければならない、という大きな声がありましたし、私も国語教員の出身でありますので自民党の専任論側の論者として強調してきたのですが、財政構造改革で予算の厳しい折から、まず充て職でも法律改正をして、必ず学校図書館には司書教論を置くという点を実現しようと、与野党は修正に入りました。

 実は、自民党は最初は乗り気ではなかったのです。予算がらみだったから、参議院の自民党の幹事長に村上政国という剛腕の幹事長がいて、その先生がその改正第4条の当分の間の削除改正を、「だめだ。だめだ」の一点張り。ところがある時、肥田美代子先生が個人的に村上政国先生のところにいって懇々と説得なさいました。学校図書館において子供達がどんなに学習意欲を高めるか、必要性が強いか、を説得なさったら、いくら私たちが自民党内で言っていても、喧嘩をしたら私のほうが強い馳浩が頭を下げても、お百度踏んでもだめだの一点張りだった村上先生が、肥田美代子先生が一回行ったら「分かった。やれ」という指示がきたのです。肥田先生のご経歴、学校図書館に関するこれまでの認識の深さの賜物だ、さすがだなーと我々が参ったというエピソードがありました。付帯決議も野党の意見を取り入れて改正され、今日に至っているという事を、議員の立場から述べさせていただきました。

 さて、私には本当に人生を変えさせられた一冊というものがあります。原本は今、鳴和中学校にあると思います。『智恵子抄』という一冊です。昭和16年の8月に初版本が出ていると思います。この中に採録されている一番最初につくられた詩の発表が大正元年ですから昭和16年の刊行を考えると、前後30年間に亘って一つのテーマに基づいて作った高村光太郎さんの二冊目の詩集です。なぜこの本なのか、実は昭和51年、中学2年の担任が俵先生という女性の国語の先生で『智恵子抄』を習いました。教科書にそった、通り一遍の授業だけではなく、巻末の「智恵子の半生」という散文をわかりやすく解説して下さいました。詩一編を授業として教えるのではなく、時代背景から、高村光太郎、長沼智恵子さんという希代の芸術家がいかにして知り合って、結婚をし、結婚生活の上で2人の芸術家がいるという場合、どんなに女性の負担が大きかったか、そして悲しい結末を迎えるわけでありますが、それに向けての智恵子と光太郎の互いの人生、夫婦生活、愛というものについて、『智恵子抄』のいろいろな詩を例にとられながら、教えていただきました。教科書には「レモン哀歌」だけが載っていたのです。年間学習指導計画によると1時間で終わらせる授業なのに、3時間とられたのです。詩の説明と同時に作者とその周辺の人生、普遍的な愛情というものについてあらゆる資料を基に、先生の人生観を基に授業をしてくださいました。

 その3回の授業が私の人生を変えました。それから中学校の図書館に行って『智恵子抄』を探しました。それまでは、図書館に行ったこともないような相撲部の一員でした。私はその「レモン哀歌」という詩、智恵子、光太郎の人間関係に感動したので、人に聞いて探すのではなく、自分で探し出したいと片っ端から背表紙を見て3時間ほどかけて探しました。やっと見つけたのが、赤い表紙の歴史的仮名遣いで書かれた原本だったわけです。恭しく手に取って初めて本を借りました。「智恵子の半生」という散文は何度も読み返しました。

 話は逸れますが、学校五日制に向けて、どういう内容、時間数で改訂するかは、ほぼ終わっていまして、中間答申をうけましたが、国語のなかの大きな目標は、表現力と理解力を子供達に求める授業をすることです。教科書の作品を通じてそれらを求める場合の一例として、私の「レモン哀歌」を通して得た大きな疑問をお話します。それはまだ片思いさえしたことがない中学2年生ですから、女性を愛する事、恋愛とはなんだろうかと想いをはせ、刺激的な言葉の数々に舞い上がってしまいました。最近ではコンビニなどでも刺激的な内容の雑誌等が簡単に手に入るご時勢で、性、性欲というものについて不純な捉え方を与えられていますが、授業を通して純粋に人を愛し、その直線上にある性について衝撃を受けました。今でも憶えている一節が「愛の嘆美」という、言葉だけでもどきどきするところです。「底の知れない肉体の欲は上げ潮時の恐ろしい力/なおも燃え立つ汗ばんだ火に/サラマンドラは点々と踊る」、性に目覚める中学2年生の私にとって、それはどういうことなのかなあ、目で見ても意味がよく分からない、辞書をひけば意味は分かるが身体で意味を感じる事ができない、想像だけが膨らんで胸が張り裂けそうな気持ちになるのですね。これが第一連で、六連からなる詩なのですが、最終連が「我らは雪に温かく埋もれ/天然の塑中にとろけて果てしのない地上の愛をむさぼり/遥かに我らの命を讃めたたえる」どういうことなのかなあ、おぼろげながら自分でも恋愛は性欲だけではなく、心の中に純粋なものを深く湛えながら接するものなんだろうなあ、という敬虔な想いをこの詩の中から感じとる事ができました。

 今手元にあって皆さんに見せている『智恵子抄』は、大学3年生の時にもう15年以上前に図書館で中公文庫をコピーして製本したものです。製本技術は国文学科にいたので、製本を趣味にしている友達に3日間ほど教えてもらって、自分で製本しました。私はこの本を常に鞄のなかやポケットに忍ばせて持ち歩いています。プロレスラーになってからも世界各国に遠征に行くとき持ち歩いています。だいだい『智恵子抄』か『源氏物語』のどちらかを持ち歩いているのですが、それは中学生の時に学んだ純粋な気持ちを、常に初心を忘れないために持ち歩いているのです。製本してからかなり経っていますが、このようにまだ丈夫で、私の製本技術もたいしたものだなあと思います。

 なんでこの一冊が私の人生を変えたかというと、学校図書館から一週間借りて、その間に将来は国語の先生になりたいなあと思いました。夢を持ちました。俵先生のような先生になりたいなあ、あのような感動をうけた授業をやりたいなあ、子供達に表現力理解力を伝える事のできる教員という職業に就きたいなあ、と努力するきっかけになった一冊だったからです。

 その時、中学2年生で考えた経過措置は、学校の先生になるためには金沢大学の教育学部へ行かなければいけない。その前の高校は桜丘高校と決め、受験しましたが落ちて、私立の星稜高校へ進学したんです。

 運命は厳しいもので、桜丘高校へ通学する生徒と同じバス停に降り、桜丘は桜の並木を上って行き、星稜はれんこん畑の畦道を蛙を踏みつけそうになりながら学校へ通ったんです。校舎の窓から山の上の方に桜に囲まれた桜丘高校が見えるわけです。16歳の私にとってはかなり厳しい屈辱感を与えました。

 それじゃあ違う方法で大学進学し、教職員免許を取ろうと思った訳です。まずレスリング部に入って全国優勝すれば推薦をうけて大学進学できるだろう、国文学科に入って国語の先生になろうと高校1年生の時に遠大な計画を立て、実行に移し、結果的にそうなってしまったんです。

 ここで私を変えた一冊の本の話は完結するはずだったのです。レスリングで頑張り、国語の教師になるために新聞の社説をむさぼり読んだり、教科書はほぼ3日間で読み終えるくらい、問題集は一番薄いものを買ってきて3回は繰り返してやりました、というようにスポーツの部分と国語の部分は研ぎ澄ませました。

 教員になった年にロサンゼルス・オリンピックの日本代表に選ばれました。本当は学校の先生になるための一手段としてスポーツを利用したのに、そのスポーツのおかげでオリンピックで、世界の選手と交流し、素晴らしさを実感しました。アフガン問題の米ソの影響がスポーツの世界に何故およぶのか、モスクワ・オリンピックのボイコットとそれに対するロサンゼルス・オリンピックのボイコット等考えさせられました。ただし、そのとき東側からルーマニアだけがスポーツと政治は別だと参加したんです。私はルーマニア選手団と同じ階だったのでいろいろ話し合いました。人生観を変えるような影響を、その時のオリンピックは与えてくれました。

 オリンピックが終わり、教壇に戻りましたが、改めて知ったスポーツのすばらしさ、より一層レベルの高いスポーツの世界で自分をためしたい、オリンピックで得られた人生観で日本中や世界をまわってみたいと思い、一年後、学校を去りプロレスラーに転向しました。

 『智恵子抄』で先生への夢を与えてもらい、またスポーツでも大きな人生観を与えてもらい、プロレスラーになり、ブロレスラーになって人生観が広がった事が、現在の仕事の国会議員につながっています。そして議員になってはじめての議員立法が学校図書館法の改正なのも、運命なのかなあと思いました。

 私はいま37歳です。人生の道半ばですが、本とはまだまだつきあってもらおうと思っています。この本を改めて読み返してみて私の指針になるような言葉を見つけました。「彼女の生前、私は自分の製作した彫刻を何人より先に彼女に見せた。一日の製作の終わりにもそれを彼女と一緒に検討することがこのうえもない喜びであった。また彼女はそれを全幅的に受け入れ、理解し、熱愛した。私の作った木彫りの小品を、彼女は懐に入れて街を歩いてまで愛撫した。彼女のいないこの世で、誰が私の彫刻をそのように、子供のように受け入れてくれるであろうか。もう見せる人もいやしないという想いが私を幾ヶ月間か悩ました。自分のつくったものを熱愛の目をもって見てくれる一人の人があるという意識ほど、美術家にとって力となるものはない。作りたいものを必ず作り上げる潜力となるものはない。製作の結果は、あるいは万人のためのものとなることもあろう。けれども製作する者の心はその一人の人に見てもらいたいだけですでに一杯なのが常である。私はそういう人を妻の智恵子に持っていた。その智恵子が死んでしまった当座の空虚感はそれゆえ、ほとんど無の世界に等しかった。作りたいものは山ほど有っても作る気になれなかった。見てくれる熱愛の目がこの世にもう絶えて、無いことを知っているからである。」

 おのろけになりますが、私の女房の高見恭子は私の後ろ姿をみて、肩の肉が落ちているとか肌の張りがいまいちだとか厳しいながらも必ず、あなたは世界で一番素晴らしい身体をしたプロレスラーだと歯の浮くような言葉を平気で言います。あなた以外のプロレスラーは色気がない。彼女にとっては即物的な肉体の他に人間性、男としての色気が無ければ見るに値しないと言うのです。なんでそんな事を口に出して言うのかときいたら、あなたその気になるでしょ! 確かに乗せられて気持ちの張りが出てくるんです。一言や眼差しで意欲がでてくるんです。光太郎も智恵子が純粋な気持ちでその作品を世界でただ一つのものとして、最高のものとして接してくれて、夫としてよりも男性としてこれに勝る創作意欲、動機付けはないだろうなあと思います。そんなことから、教師として子供達と接するときは、1対40ではなく、生徒から見ればいつも1対1なんだという視線で授業をすることが大切だと、大学時代の恩師に言われたことを思い出しました。

 同じ一冊の本に最初に出会ったのは14歳で、今は37歳、24年経っても新たに教えられるのです。この本には、折にふれて一生巡り会うのかなあと感慨を深くしました。今日の仕事やスポーツ経験に関する、また、なによりもの夢であった国語の先生に直結する一冊の本について皆さん方に紹介させていただきました。
どうも御静聴ありがとうございました。


  司会  高澤 忠雄 (石川:北鳴中)   
記録  三宅真寿美(石川:七工高司書)


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