「月刊 AIA」 SEPTEMBER
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国会議員とプロレスラー 熱い男の図太い挑戦

 

 参議院議員として、また全日本プロレスの現役レスラーとしても根強い人気をお持ちの馳さんですが、二足のワラジは大変でしょう。

 もちろん大変な部分もありますが、どちらも大好きな仕事なので、精力的に頑張らせて頂いています。むしろ、限られた時間しかプロレスに取り組めない分、大切にしていきたいですね。

 

 現在、プロレスラーとしてのお仕事は、どういうペースでされているんですか。

 国会の閉会中、年間30数試合というペースを目標にしています。

 

 レスリングはいつ頃から?

 高校1年の時、石川県の星稜高校に入学してからです。お陰様で高校3年で国体優勝を経験し、1984年には、ロス五輪アマレス・グレコローマン90キログラム級にも出場させて頂きました。

 

 素晴らしい実績ですよね。高校のわずか3年間で国体優勝を果たすというのは、かなりの素質をもたれていたという証でしょう。やはり幼少の頃から、行く行くはプロの道へ・・・という気持を持っておられたんですか。

 いえいえ。確かに観るのは好きでしたが、子供の頃には、そんな考えは全くなかったです。オリンピックに出場した後ですね。プロという世界について考えるようになったのは。というのも、たくさんの方々に応援して頂き、精一杯闘うことで、自分自身も充実感を得ることができましたし、同時に「勝つためだけでなく、人に感動を与えるためにスポーツをしたい」と思うようになりました。その当時、私は母校の星稜高校で教鞭を取っていたため、多少の迷いはありましたが、ロサンゼルスでの感動が、気持ちに拍車をかけてくれました。

 

 なるほど、そうした経緯が・・・。しかし、教職者としてのご経験もお持ちだったとは驚きました。科目は何だったんですか。

 国語です。その頃の思い出というのは、数え挙げたらきりがないくらい。今でも、一コマ一コマ鮮明に残っていますね。古典の授業中に屋上で俳句を作ったり、白文を一緒に声を出して読んでみたり・・・。また僕の場合、ただでさえ体が大きいし、声も大きいから、やっぱり生徒は怖いんでしょうね。「おい!」って呼ぶだけでも「先生に言われると脅迫されてるみたい」なんて女子生徒に言われていました(笑)。

 

 キャラクター的にも兄貴肌の方ですし、生徒の皆さんからの人気も高かったんでしょうね。さて、レスラーとしてのお話ですが、アマチュアの世界とプロの世界では、いろんな意味で違いがあったでしょう。

 それはもう全然違います。ルール自体が違いますし、トレーニングの仕方も違う。ですから、プロに入ってまず最初の半年間は、基礎体力づくりの毎日でした。それも"みっちり"とね(笑)。その後、2年間は海外で修行し、帰国後、2年間の下積み時代を経て、メインイベントとして出場できるようになったのは、1990年頃からです。

 

 ということは、下積みとしての期間は約5年・・・。やっぱりプロの世界は厳しいものですね。関心させられるのは、議員とレスラーの両立を、きっちりとこなしておられることですが、コンディションの維持などは、どのようになさっておられるんですか。

 様々な絡みがあって、なかなか時間が取れない、というのが正直なところですが、それでも何とか、一日2時間は練習時間を持つようにしています。自分個人としては、今は非常勤レスラーとしてやっているわけですから、そんなに多くを望んではいません。ベルト挑戦などもすべきではないと思いますし。ただ、リングに上がる以上は、誰も国会議員とは思わないような体を作りますし、また逆に国会で仕事をしている時は、誰もプロレスラーとは思わない・・・そうなるのが理想なんです。

 

 強い信念をお持ちですね。さて次に、議員としてのお話についてですが、国会議員になられたきっかけは?

 1995年の参議院議員選の2ヵ月程前に、自民党の森幹事長から、選挙に出ないか、との要請があったんですよ。
「公募したが適当な人がいなかった、それなら知名度のある馳ではどうか」ということだったらしいのですが、私自身、たまたまその少し前に、北朝鮮でプロレスの試合をしており、聞きしに勝る生活レベルの低下に、早く国交を正常化しなければ・・・との重いを強くしていた矢先だったわけです。民間での取り組みには限界があるが、国会議員ならそれ以上のことができる・・・。さらに、教育問題に取り組んでみたいとの思いもあり、即座に「やります」と答えたんです。森幹事長は逆にビックリされた様子で、「普通なら奥さんに聞いてから返事するのに。それに選挙資金はどうするんだ」と心配されていました。(笑)。

 

 幹事長でなくとも驚きますよ。馳さんの奥様と言えば、女優の高見恭子さんですよね。実際のところ、反対はなかったんですか。

 全く(笑)。「やれば」とひと言。全然深刻じゃないんですね。

 

 結果的には23万5000票という支持を得られ、見事当選なさったわけですが、率直なところ、自信はおありだったんですか。

 選挙に関しては、勝てるとも、また負けるとも考えてなかったです。自分が成し遂げようとする信念、志を、有権者の皆さんにストレートに伝える。そのことしか頭にはありませんでした。実際、当選した当初は、23万5000票という数字が実感できませんでしたし、「俺なんかでいいのかな」という思いも確かにありました。しかし、選んで頂いた以上、若いからとか勉強不足とかの言い訳はききません。がっぱ(金沢弁で「一生懸命」の意)になってやるしかないと思いました。政治の世界ではまだまだ素人ですが、有権者の皆さんの質問に答えられるよう、しっかり勉強していますよ。

 

 初当選された4年前というのは、中には『プロレスラーあがり』というレッテルで判断されることも多かったのではないですか。

 それは今でもあります。だけど私は分かってもらおうと思ってやっているわけではなく、当然のことをしているだけです。見ていない人、知らない人が「何だ?」というのはたくさんありますが、それをいちいち気にしていても仕方がないですし、そうじゃないですよ、と反論しても切りがない。自然に、今自分ができることを精一杯やっていくしかないと思っています。

 

 それが、馳さんの場合は、教育問題や環境問題であるわけですね。

 はい。昨年からは環境ホルモン対策委員会の委員長をさせて頂いていることもあって、多方面で活動しております。また、私の選挙区である石川県が農業県であることから、農業問題なども・・・。とにかく自民党という党には、様々な専門分野に詳しい人たちがたくさんいますから、そういう人たちと共に、日々勉強の毎日です。

 

 最近話題のダイオキシンや環境ホルモンの問題。欧米などと比較した場合、残念ながら、我が国の政策はかなり遅れた位置にあるというのが実情だと思います。馳さんは、この分野に関しては政府の代表であるわけですが、こうした現状をどのように見ておられますか。

 まず、国際的な観点から見た我が国の行政対応の遅れについてですが、その要因としてあげられるのは、第一に、ダイオキシン、環境ホルモンなどの研究者の絶対数が少ないこと。第二に、その研究施設がほとんどないということです。つまり、研究者が様々な方面に散らばっているため、細かいデーターの分析や意見交換、対応方法の検討が容易にできなかったわけですが、これに関しては、現在、9つの省庁が関与し、迅速な対応にあたっています。また、こうした環境問題は、同じように世界中で研究が進んでいるわけですから、それらの国際共同研究の場も、日本はどんどん参加していかねばなりません。

 

 行政・産業界・学会の連携が必要不可欠と言えそうですね。

 おっしゃるとおり、連携なくしては不可欠な課題です。これらの環境問題は、危険物質だから即ダメです、といった単純なものではなく、要は“環境リスク評価”という考え方をしなければなりません。母乳に含まれたダイオキシン濃度の問題がクローズアップされましたが、あれにしても、ダイオキシンは確かにマイナスですが、母乳を与えることで、乳児の免疫力を高める、あるいは愛情を育むといったプラス因子も存在するわけです。つまり、このプラス・マイナスを考慮しながら、最良の方向性を決断していくのが、政治の仕事だと私は考えています。

 

 そういう意味では、数々の課題を残した分野と言えそうですね。

 ええ。まだまだ継続していかねばならない問題です。毎年の予算編成での研究費や調査費の獲得も重要なポイントですし・・・。研究というのは、ある年に予算をガバッと採って、単年度でやればいいというものではなく、5年、10年と継続して行っていかなければならないものですからね。もちろん、法律的に規制しなければなりませんし、各自治体への情報提供、アドバイスも綿密に行っていく必要があります。課題は実に山積みですが、この問題に関しては、息の長い取り組みが肝要と言えますね。

 

 では最後に、読者の皆さんへアドバイスをお願いしたいのですが、馳さんの「苦境に立った時の対処法」について聞かせて下さい。

 これは、どんな世界にも当てはまることだと思いますが、自分が持っている「限りある知識」だけで対処しようとしないことですね。意志を持つということは大切なことですが、あまり固定観念に捕らわれすぎると、発想力が乏しくなりますから。政治家も企業家も同じ。常にアンテナをクリアにしておく習慣をつけ、時には率直な気持ちで人の意見に耳を傾けてみるのもいいかも知れません。

 

 本日はありがとうございました。(取材日・平成11年7月8日)

 

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