第4回 「デビュー戦までの軌跡」


 プロレスキャンプに若者8名が参加

 プロレスラーのデビュー戦までの軌跡を追ってみよう。

 昨年8月。全日本プロレス道場で2泊3日のレスリングキャンプを開催した。ファンの方に、合宿所に宿泊しながら道場でトレーニングできるという特典を与え、これまで閉鎖的だったプロレス界の新弟子育成ノウハウを、オープンした企画である。

 馳コーチにしばきあげられることを覚悟のうえで8名の参加者が全国から集まった。いずれも(あわよくばコーチの目に留まってプロレスラーへの道を歩みたい)意欲マンマン、ヤル気に満ちていた。

 高校生、大学生がいれば、公務員もいる。フリーターしながらプロレスラーを目指しているとか、素質があると言っていただければいつでも勤務先を辞めてきますと目を輝かせる若者もいた。

 私は内心、こいつら本当に2泊3日もつのかなぁ、と不安を感じながら、とにかく基礎体力トレーニングや受け身の取り方に始まり、道場の掃除やちゃんこ番、洗濯・買い出し・トイレ掃除などの雑用まで、懇切丁寧に指導した。

 初日は緊張感と期待から大声あげて気合入れたり、ハイッハイッとしきりにハキハキと好印象を与えんがために返事をくり返していた若者たちも、2日目の午後には一様にどんよりとしてきた。

「もうできないかナ?! イヤなら参ったして休んでいていいんだョ」と魔のささやきをすると、一瞭考えこみながらも、「いえ、なんとかがんばります」と青息吐息気味。

 3日目には、血まじりの小便が出たり筋肉痛で足が動かなかったり、脱水症状で起き上がれなかったりで3名がリタイア。

 キャンプ終了時には、皆哲学的な表情になっちゃって「体験できてよくわかりました。考え直します」と肩を落として故郷に帰っていった。

 

 ナイナイ、つくしの若者が新弟子生活をスタート

 しかし、その1週間後。

 北海道に帰ったA君から連絡が入った。「やっぱりあきらめ切れません。見習いででも入門させて下さい。お願いします」

 あまりにひたむきな姿勢であり、その情熱に折れて入門を許可した。ただし、「1年後に体重が10kg増えなければ、クビ!! 雑用やトレーニングについてこれなければ即時クビ!!」

 と厳しい条件を出した。

 A君は、高校時代にアマチュアレスリングの経験があるものの、全国大会での実績はない。体重も70kg少々であり、身体能力も運動神経もズバ抜けて素晴らしいというわけではない。身長も低い。

 性格も、どちらかというと謙虚で引っ込み思案で口数が少なく、プロ向きかというとその正反対。

 表情にも乏しくインパクトのない顔立ち。声も小さく、キャンプ中もいるのかいないのかわからないほどの存在感のなさ。年齢も21歳と少々トウが立っている。

 まさに、ナイナイづくし。

 本来ならば、真っ先に入門をお断りするタイプの青年なのだが、だからこそ、私はひとつの可能性に賭けた。

 どこまで耐えられるか。

 どこまでがんばれるか。

 だ。要は、自分の弱さとの闘いに、打ち克てるかどうかの問題ということ。

 プロレスラーとしてデビュー戦を迎えられるかどうかは、素質ばかりではなく精神力のあるなしが左右する。

 オリンピック出場経験があるとか、体重や身長が人並み外れているとか、そんな恵まれたエリートばかりではつまらない。ナイナイづくしのなかから、はいあがっていってデビューしてがんばるレスラーにこそ、共感を覚えて応援をしたくなるファン心理もある。大器晩成ということもある。プロレスは最も人間臭いプロスポーツであり、ナイナイづくしからの出発もまた個性になり得る。

 果たして、そんな思惑をA君本人はちーっとも知らされず、とにかく秋の風とともに合宿所に入門し、練習生見習いという、給料もおこづかいも出ない身分で新弟子生活をスタートさせた。

 デビューを果たして自分に克った

 私の仕事は国会中心であり、試合に出たり道場に練習に行くのも月に数回。だから、A君の面倒見とコーチは、現役レスラーのBとCに任せた。

 時折、BとCから現状報告をもらいながら、私はステップバイステップをアドバイスした。

「まず、体重を80kg以上で固定させること」

「後ろ受け身は連続100回以上を鼻唄歌いながらできるようになること」

「ヒンズースクワット1千回以上」

「次は肩の筋肉つけろ!!」

「スパーリングで先輩相手に5分は『参った』と言わないで耐えられること!!」

「自分の部屋はいつもキレイにしておくこと。会社所有の部屋なんだからナ!!」

 などなど、私生活における社会人の常識を叩き込むことから、プロレスラーとしての最低限の体力、技量、根性を身につけさせる日々。

 道場での合同練習では、あまりの不甲斐なさに、武藤敬司社長から、

「おめぇなんていらないョ!!」 と言われて泣き崩れたこともある。

 数々の屈辱と体力のなさに耐えながらも、われわれ先輩レスラーの目から見た最低基準をクリアし、A君は1年3ヵ月後にデビュー戦を迎えることになった。

 A君と同期に入ったもう1人の新弟子は、下積み生活に耐えられなくていつの問にか合宿所からいなくなった。

 A君の後には、見るからに将来性のある、有望新人が数名ひかえている。

 A君は、ここでしっかりデビューできなければ、いつお払い箱となってクビになるか、レフェリー転向を言い渡されるかわからない、切羽詰った状況。

 出身地と、本名とをミックスした「石狩太一(いしかりたいち)」というリングネームを先輩につけていただいて、初々しい青パンツでA君は全日本プロレスの第1試合にデビューした。

 ほとんど何もできず、させてもらえず、くちゃくちゃにしばきあげられて、口のなかから血を流すほど無惨なメにあって、そして、負けた。

 負けたけれど、自分に克った。

 北海道から、一世一代の息子の晴れのデビュー戦を観に来た両親は、あまりの弱っちさに泣き、自分に克ってしんぼうを重ねてデビューできた息子の姿に泣いた。

 そして、デビューしたとはいえ、今日もまた、石狩太一は日本のどこかの町で前座の第1試合を闘い、やっぱりくちゃくちゃにしばかれて口から血を流して涙目になりながら負けている。

 これもまた、プロレスの真実である。

 


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