第2回 とりあえず、就職


 生活・学業・就職など部員たちの相談相手に

「監督、どうしたら良いですか?」

 監督、とは私。今年から母校・専修大学レスリング部の監督を引き受けることになった。週に1、2回しか現場に顔を出すことはできないが、こんな私にも役割りはあるようだ。それが、冒頭の一言。その日、学生と激しいスパーリングをしていい汗を流した。練習が終わり、全員が正座して反省会をし、一礼て終了。そして4年生になったばかりのA君と、あぐらをかいて世間話を始めてすぐのことだ。

 私は学生にとって「怖い存在」ではないらしい。いちOBであり、国会議員であり、プロレスラーであり、元国語教師であり、オリンピック選手。つまり、人生経験豊かな異色の監督、ということらしい。そんな気軽さがあってか、A君も私の問いに気さくに答えたようだ。

「よおA君。就職どうすんだ?」

 私は、A君は学業成績も良く練習にもマジメに励んでおり、教職課程も取っていることから、当然就職についても目途をつけていると思い込んでいたので、途中経過を確認するつもりでたずねたのである。大学4年生の最大の関心事は就職先の決定、と私は信じて疑わなかった、彼の一言を聞くまでは。

 それまで肉弾相討つスパーリングで汗をしたたらせていたA君は、私の問いに対して「どうしましょうか……」と言った後、救いを求めるような目で私に意見を求めてきた。私の監督としての役割りは、実はこういう相談相手になることがほとんどなのである。技術指導や強化についてはコーチに任せているのだが、その他の日常生活についてや学業や就職については私なりに役に立つようである。

 しかし、彼の切実な主張には一瞬ことばに詰まった。

 

 社会に出て働くとはどういうことなのか

「監督、どうしても就職しなきゃいけないんですか?」

「ど、どうしても、ってどういうこと?」

「僕は、どうしてもやりたい仕事がまだ見つからないんですよ」

「だってさぁ、教職課程を取っているから教職試験を受けて先生を目指すこともあるだろうし、大学の就職課に行けばいろんな案内があるだろう……」

「実は、日本語の先生になりたいなぁ…と考えているんです」

「日本語の先生? 外国人に日本語を教える先生か?」

「そうです」

「またどうして? 君は法学部だろ」

「母が、日本語の先生してるんです」

「どうしてまた日本語の先生なんだ?」

「母を見ていて。やりがいがありそうだし、資格があればいつでもどこでも食いっぱぐれがなさそうだし。いくつになっても好きなことをできるじゃないですか」

「なるほどねー。それで、資格を取るためにどうするつもりなんだ?」

「卒業してから専門学校に行くか、プー太郎しながら勉強するかなぁなんて考えていますが、どう思いますか?」

「ど、どう思いますか、ってオマエ。なんか、ちょっと、浅くないか?」

 私は監督として、というよりも人生の先輩としてA君と話し始めた。

「働く、ってどんな意味を持っているかを考えたことある?」

「働いて、自分の好きなことをして、お金をかせいで、ですよね」

「それだけ?」

「他に何かありますか?」

 なるほど。私は何となくA君が漂わせている「軽さ」「浅さ」に合点がいった。同時に、自分も大学4年生の時、働くということについてこんなもんだったかなぁ、と思いながら語り始めた。

 

 人にはやらなければならないことがある

「なんとなく、でも良いし、とりあえず、就職したらどうだ」

「でも今すぐにやりたいこともないし、日本語教師の資格もないんですけど」

「だから、だよ。とりあえず就職して働くことの意味とか、大変さとか、楽しさとかを体験してから次のステップアップを考えても良いんじゃないか」

「なんですか、それ?」

「毎朝早く起きなきゃいけないだろう。ヒゲ剃って背広着て電車にゆられて出勤だよ。会社に行けば慣れない仕事。イヤな上司に頭下げたり、取引き先におべんちゃら言って愛想笑いして。仕事をもらうためには自分を押し殺して会社の歯車になることだってあるだろう。夜は酒飲んでグチったりしてさぁ」

「あー、ヤダヤダ」

「ちょっと最後まで聞けよ。ヤなこともいっぱいあるなかで、オマエが十分会社の戦力や歯車となって働けるようになることの意味を考えてみろよ!」

「何ですか、ソレ」

「社会人1年生なんて誰しも未熟で半端モンだよ。でもチームワークで支え合って、新人でもいっぱしのサラリーマンに成長するんだよ。会社に貢献できて売り上げを伸ばせば、会社が多くの人の役に立っていることにつながるだろ。つまりオマエの努力が会社を通じてたくさんの人の幸せにつながっていくんだという満足感があれば、日々のヤなことだってがまんのしがいがあるってもんだ。会社が儲かれば、しつかり法人税などの税金を払って国家や地域社会の一員として責任も果たせる。当然オマエのサラリーも上がって安定した生活を送れる。そのうち彼女ができて結婚すりゃ子どももできる。親が年老いていけばさらに責任は重くなって、経済的にも家族を支えていくことになる。今はオマエは学生だけど、今日があるのは誰のおかげ」

「父や、母や……いっぱい」

「でしょー。結局はみんなつながってるんだよ。今、やりたいことが見つからない自分がいるなら、仕方ない。でも、やりたいことがなくても、やらなきゃならないことはあるんだ。それは、今ある能力を発揮して、少しでも多くの人に貢献できるように、と願い続けることだ。そのためには、とりあえず就職してみろよ。社会人になってヤなこともいっぱい体験しながら金をかせいでみろよ。そのうちに、休日やオフタイムを使って勉強したり資格を取ればいいじゃないか。どんな仕事だってイイことや思い通りになることなんてないよ。でも、人の役に立ちますように、と願い続けて、使命感を持つことは求められるんだから。とりあえず、新弟子になったつもりで働いてみなよ」

 そう言うと、A君は何となく分かったような(分からないような)笑顔で

「はぁ、とりあえず、教育実習が終わってから就職課に顔出します」

 と頭をかいた。

 やりたいことがないから。目標が見つけられないから。だからこそ、とりあえず就職してみることが求められる。


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