第14回 「性教育は墓場から」


 こんなやり方で良いのか 小学校低学年への性教育

 行きすぎた性教育の実態が明るみにされてきた。先進的な取り組みを模索する先生方の意図については後述するとして、まずはその副教材や授業の内容には驚くほかない。小学校低学年の児童に対して、性行為そのものや生殖器の男女の働き、機能、避妊方法などを、人形(それもリアルな)を使って教えても良いのだろうか、とのそもそもの疑問がある。

 性器名を連呼させ、男女の身体をリアルに表現した人形を使って性行為を実演し、精子が卵子に到達するまでを事細かく解説する。発達段階に個人差はあろう。しかし小学校低学年児童にここまで教える意味がどこにあるのだろう。授業で使う副教材は先生が厳重に管理し、授業内容を保護者や外部にもらさないように口止めさえする先生たちの本意は一体どこにあるのだろうか。

 私の娘は小学校2年生だが、どう見ても、こうした「行きすぎた性教育」を理解できるレベルにはない。男女の身体の違いについては、外見上理解している。しかし、アニメのキスシーンに顔を赤らめていたり、ドラマの入浴シーンに嫌悪感を示してチャンネルを急いで変えてしまうほどだ。関心こそあるものの、性行為そのものや精子と卵子がどうのこうのだなんて、許容範囲をはるかに超えた教育内容である。そんなことまで教えてほしくはないし、教えるべきではない。児童の心身の発達段階に応じてこそ、教育内容が設定されるべきなのである。もっと踏み込んで言うと、高校生のレベルでなら指導すべき内容を、小学校低学年に教えるべきではない、ということだ。コンドームの使い方やピルの効用など、どうして児童に教える必要があるのか。実演までしてみせて。

 親の立場で言うならば、まずは妊娠や出産の根源となる、家族の大切さや、先祖に対する感謝の念をこそ、幼少期に理解させるべきである。行きすぎた性教育の背景には、小学校高学年の女子児童の望まない妊娠⇒中絶や、性感染症の増加という時代背景がある。年端の行かない児童を取りまく生活環境の影響もあろう。携帯電話が普及し、出会い系サイトを媒介とした援助交際も、なにか流行りの行動のように遊びの一種として少女たちを楽しませている。性風俗ビラの、民家やマンションやアパートへの投げ込みも横行している。まるで、恥の概念も節度もなくした一億総白痴化のような社会環境ではないか。

 そんな世相のなかで、せめて性の知識を低学年の児童にもわかりやすく伝えなければならないという熱意はわかる。しかし、その熱意が極めてゆがんだ形で、塵ハ常な姿で、学校現場の密室において既成事実化されていることは、断じて許しがたい。子どもたちの歓心ばかりあおり、興味を助長し、父母に対する尊敬の心を失わせ、男性不信、女性不信を喚起させかねない授業内容は、即刻やめていただくしかない。

 必要な知識や倫理観は、家庭においても学校においても、保護者や教員の合意のものとして展開されねばならないことは言うまでもない。そんな性教育のあり方について政治の世界でも問題視しているさなか、わが家でこんなことがあった。

 

 義母のお墓の前で 行われた娘への性教育

 お彼岸に、親子3人そろって電車で高尾霊園に出かけた。
 高尾駅の構内でお供えの花とぼた餅とお稲荷さんを買った。もちろん ろうそくと線香まで売っており、さすが高尾駅と思った。無料送迎バスに乗り、ふもとから10分ほど歩いて妻の母(私にとっては義母)のお墓にたどり着いた。半年ぶりのお墓参りだ。伸び放題の雑草をむしり取り、枯葉をひろい集め、植栽の剪定をし、ゴミ処理。手桶に汲んできた水をひしゃくでお墓にかけてあげ、ぞうきんで墓石をみがきあげる。

 墓石がきれいにみがきあげられてから、お花をお供えし、ろうそくと線香に火を点けて、そして最後にぼた餅とお稲荷さんをお供えしてできあがり。妻を中央に、私と娘が後ろに控えて順次両手を合わせてお参り。心静かにお参り。

 お参りが終わってから、ぼた餅とお稲荷さんにずっと心をうばわれていた娘にようやく食べさせてあげる。親子3人、墓石の前に腰を下ろして義母の生前の想い出話をしていると、娘がこう言うのである。
 「どうしてお墓参りするの?」 子どもらしい素朴な質問に妻はこう答えた。
 「おばぁちゃんがいて私が産まれたのよ。ママとパパが愛し合って結婚して、だからあなたが産まれたのよ。だからおばぁちゃんがねむっているお墓に、お礼のお墓参りに来ているのよ。私たちを産んでくださってありがとうございます、って。ママもパパもいつの日か死んだらお墓に入るからね。そうしたらあなたがお墓参りに来て、そうじをして、お供え物をちょうだいね。ママとパパは待っているからね。そしてあなたがいつまでも幸せであるように、見守っているからね」

 娘は得心がいったように目を輝かせ、でも、パパもママも死なないでね、と涙を流した。その様子を横で見ながら、もしかしてこれこそ深遠なる、本当の、ゆるぎのない性教育なのではないかと感じた。

 性教育のあり方は、各家庭でこそ、語り継がれねばならないのではないだろうか。


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