第12回 「おぼえておいてね」


 自我のめざめを娘の作文のなかに見た

 小学校1年生の娘が作文にこりはじめた。学校でひらがなを習い、少しずつ漢字もおぼえはじめ、文章を書くことに関心が移ってきたようなのである。

 私も親ばかのひとりとして、娘が書いてくる文章を見るたびにうれしく、求められるままに論評したりほめてあげる。ほめられるとうれしくて、さらに書く、のくり返し。

 書けば書くほど、その内容に上達の跡が見られる。なるほど、昔から『習うより慣れよ』とはよく言ったもので、考える→文字に変換する→文章にする、といった一連の作業によって、精神的にも少しずつ自我のめざめが、表れているのが手に取るようにわかる。ことばを口にするようになってから、おしゃべりな女の子であることはよくわかっていたが、文章を書きはじめるようになって、考えてしゃべるという作業を自覚するようになってきたな、と見受けられる。

 この、考えてしゃべる→考えながらしゃべる→しゃべって良いことと、そうではないことを判断し、ことばを選びながらしゃべる→より的確に気持ちを表現できることばを取捨選択しながらしゃべる→しゃべる内容を、そのとき、その状況、その相手、自分の立ち位置を考えながらしゃべる、という複雑な作業を、段階を踏んで身につけてきたな、と感じるのであり、なるほど、文章を書くという訓練は人間性を深めるための、大切な素養なのであるのだな、と改めて教えられる。

 これでも私は高等学校で国語教師をつとめていた経験があり、表現力と理解力の身につけさせ方については、プロを自認しているのであるが、実際の高校生の文章力には、ずいぶんと差があることには何故なのかとよくわからなかった。しかし、わが娘が毎日書いてくる文章を見ていると、「精神発達の途上において、覚えるべき時期に、覚えるべき文字を覚え、その組み立て方を訓練することによって、文章能力とともに考える力が育成される」というひとつの真理が見えてくる。

 その時期に必要なサポートというのは、教師や保護者による、感性を正確、的確に表明させることなのではないかと思うようになった。例えば「あいうえお作文」という宿題が出されたときの自宅でのことだ。

 「パパー、あいうえお作文しようよ!!」
 「ナニ、それ?」
 「あいうえおのことばを頭にして、文章を作るんだよ。いっしょに考えてよ!!」
 なるほど、『伊勢物語』の「かきつばた」 の和歌のようなものだな、ことば遊びのトンチのようなものだな、と思った。

そこで、
 「パパも考えてみるから、りおんちゃん(娘の名前)の好きなことばを思い浮かべてから次々に考えてみなよ!!」 とアドバイスした。
 「わかったー!!」 と元気よく答え、そしてさっそく「あ」のつくことばから考えはじめた。
 「あ、あ、赤い靴下!!」
 「ほう、赤い靴下ね、好きだもんね。じゃあ次は!?」

 「い、い、いつもはいている!!」
 「……確かに、いつもはいてるね。自分のことを言いたいわけね。それで次は?」
 「う、う、うわさとえいごの好きなおんなのこ――。どう?」
 「……ど、どうって。じゃあ、自分で書いてみてごらんなさいよ!!」
 「はーい。じゃあ、書いてみるね。

 『あ』かいくつした
 『い』つもはいている
 『う』わさと
 『え』いごのすきな
 『お』んなのこ

 「どう?」
 「ど、どう?って、とってもいいよ、っていうか、すんごいいいよ。せっかくだからもっと作ってみれば?」 とすすめてみると、次から次へと文章を作りはじめ、いつのまにか「かきくけこ作文」まで作りはじめた。
 娘は、自分が考えて作ったはじめての文章が、よっぽど気に入ったのか、それ以来、手紙を書くことに集中しはじめた。どうも、自分の気持ちを文章とし、それを相手に伝えることで、話すこととは別の世界があることについての扉が開かれたようである。

 

 「おぼえておいてね」の先にある期待のフレーズは?

 しかし、手紙にはやはり性格が如実に表れてくるようで、娘の書く手紙には必ず決まったフレーズがついてくる。そのフレーズは、ついぞふだんのおしゃべりでは出てこないひとことであり、なぜにそのようなこだわりがあるのか、実はパパとしてよりも、ひとりの大人として最近考えているのである。

 例えば、こうだ。
 「だいすきなママえ。いつもびじんなママ。いつもかわいいママ。わたしのすきなひとはAくんです。おぼえておいてね。わたしのすきなたべものはイチゴです。おぼえておいてね。わたしはいてざです、おぼえておいてね。ママがおばあちゃんになったら、めんどうみてあげるからね、おぼえておいてね。いつもあそんでくれてありがとう」

 ・・・・・・・そう。かならず「おぼえておいてね」というフレーズがそこかしこに散りばめられているのである。

 「おぼえておいてね」の真意やいかに。ただ単におぼえておいてほしいからか。おぼえていてね、ではなくて「――おいてね」となっているところに、念押しの強い気持ちを感じてしまうのだ。自分の存在価値を、他者に訴えようとしているのかもしれないし、自我のめざめがそこにうかがえるような気もするし。

 つまり、いつも他者に自分の存在を認めてほしい心情表現でもあり、そう訴えることによって自分の立ち位置を確認しようとする意図が感じ取れる。「おぼえておいてね」が自我のめざめを象徴するフレーズであるならば、今後、精神的な発達や人間関係の複雑化にともなって、どんな文章表現を期待していったら良いだろうか。

 それは、他者に向けるまなざし、思いやりの表現になるのではないだろうか。家族や友人関係において、自分の立ち位置が理解できるようになれば、自己に向けられていた視点が、他人の立場になってのモノの見方になってくるのでは、と期待されるのである。だからこそ、文章表現に対する、親としての指導のあり方というのは、実は、子どもにコミュニケーション能力を身につけさせるスタート地点になるのではないかと思われるのである。

 自分と他者との関係性を、おしゃべりという直接的な方法ではなく、文章に書くという間接的な自己表現によってこそ、理解していくべきものではないだろうか。
 おぼえておいてね、の手紙をもらいながら、いつの日か、「いつも見ているよ」「おぼえているよ」とのフレーズが彼女から生まれてくることを、親ばかは期待しているのである。


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